2011年11月27日日曜日

天保の改革

水野忠邦による天保の改革は知っていたが、忠邦が唐津生まれだったことは昨夜のテレビで初めて知った。 九州発の筆頭老中はほかにいないだろう。
唐津藩主になったが、唐津藩は長崎警護の役目以上の役職につけないことを知って、石高は少ない浜松藩への変更を願い出て、次第に高い役職につき、最後には老中の筆頭までのぼりつめたという。
財政再建を強力に推進しするため、遠山の金さんを採用したが、節約令がいきすぎて最後は対立して、民衆の反感をかった。
天保の改革そのものは失敗におわり、最後は追放されてしまう悲劇的運命をたどる。
政治の世界は一人の能力だけでは達成できないという、典型的な例であろう。

2011年11月22日火曜日

2.26事件の評論いろいろ

80年前の2.26事件の日。関連のテレビ番組をいろいろみた。



青年将校が決起した大きな理由は農村の悲惨な困窮であった。(当時小学生だったが、号外をはじめて体験した。)結局これを解決したのは、皮肉にも戦後のマッカーサーによる農地解放だった。

岡田首相は即死と報じられたが、巧みに救出された経緯をはじめて知った。

また鈴木貫太郎も登場した。
2.26事件で重傷を負い、終戦内閣の総理をつとめた。思い出の多い多難の軍人であり政治家であった。

「私はバドリオになる」という彼の言葉を思い出した。ムッソリーニが退陣しあとの首相になったバドリオは戦争継続を表明した。

当時の私の歴史の先生が彼の戦歴を紹介し、勇敢な将軍だと講義したが、そのあとイタリアはあっさり降伏した。翌日教授は坊主頭になって登校してきたのを思い出した。

叔父が航空隊長をしていてパレンバン落下傘部隊の指揮官だった。その成功直後鈴木大将を現地視察に飛行機で案内して、100円のチップをもらったと話していた。当時は退役して枢密院議長だったからだろう。その叔父も終戦前に戦死した。



2・26事件を1週間前に海軍は事件の内容を察知していたが、放置していたようだ。
このとき襲撃をうけて重症を負った鈴木貫太郎は、終戦の幕引き内閣の総理大臣を務め、再度襲撃の対象となったが、危うく難をのがれた。
幕引きが順調に進んでいれば原爆投下を受けなかったという説もあるが、本土決戦派の抵抗が強く、また米国はもっと早くから投下を決定していたという説もある。
軍部の暴走がウイルスのように蔓延していた時代に、その防止対策に奔走した人達の歴史を、もっととりあげる必要がある。

壬申の乱の本を3冊借りてきて読んでいたら、その中の一部に、2.26事件の話が出てきて驚いた。
最後の元老西園寺公望が、壬申の乱のような骨肉の争いが皇室内部で起きてはならぬと言っていたという。
貞明皇太后と昭和天皇の不仲、天皇と秩父宮との確執が憂慮されていたので、当時秩父宮を擁立する運動をしていた神政竜神会という団体が、2.26事件の時に同時に検挙されたという。

松本清張氏の絶筆となった『神々の乱心』は、かなりデフォルメされてはいるが、明らかにこの神政龍神会がモデルとなっているらしい。
埋もれた昭和史の一つであろう。

今朝のラジオで、2.26事件の被害者渡辺陸軍大将の娘さん(当時9歳)である 渡辺和子さん(ノートルダム清心学園の理事長)の談話が放送されていた。
当時の軍人の98%は許すが、2%は許せないものがある。
自分の心と平和にくらすこと。怒ることは環境破壊である。
などなど、宗教家らしい言葉が沢山あった。




2011年11月14日月曜日

日本とポルトガル


日本は東の果て、ポルトガルは西の果てに位置するが、歴史的関係は16世紀から始まっている。

当時のポルトガルの世界地図には、日本の本土と四国はJAPAOと書かれていて、九州はBVNGO(豊後)と記載されていた。

昨日はそのポルトガル関連のテレビが多かった。

1)常盤貴子のレポートで、リスボンと三島由紀夫、ナザレーと壇一雄の関係跡を旅して、ポルトのワイン、そしてザビエルの記念館や天正遣欧少年使の記念資料などなどが紹介された。

ナザレー付近には行ったこともあるが、壇一雄の文学碑が現地にできていることをはじめて知った。

2)放送大学では、天正遣欧少年使4人の詳細な歴史資料が説明された。

伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルの4人は、14歳で信長に選ばれて派遣され、リスボン経由で、ローマ入りし、ベニス経由でまたリスボンにもどり、25歳で帰国したときは秀吉の時代になっていた。

4人が秀吉の家臣への誘いを辞退し皆宣教師となるが、その後キリシタン禁止の時代となる。

千々石のみ棄教するが、その後の経過は不明、あと3人は宣教師として苦難の人生をおくる。

伊東は大友宗麟の血縁で、日向国主伊東義祐の孫で司祭に叙階されるが45歳の若さで長崎で病死する。

原は追放先のマカオで61歳で死亡、中浦は国内での布教を行っていたため小倉で捉えられ、65歳で長崎でさか吊りの刑により殉教した。

これらの歴史は国内では全く記録されていなかったが、ポルトガルやキリスト教会側の記録を、明治維新後の岩倉訪欧使節団が知ってやっと日本史に記載されるようになった。

2011年11月11日金曜日

中国の温泉

昨日BS放送で、西安の華清池の温泉と、重慶の北温泉が紹介された。
華清池の温泉は楊貴妃が愛用したところとして有名であるが、重慶の北温泉はあまり知られていなかった。
私は天安門事件の年に北温泉にいったことがあるが、当時はまだ鄙びたところで、設備も簡素なものであった。
BSテレビでは昨年オープンした高級ホテルが紹介されたが、中国富裕層をねらった豪華なホテルに驚いた。この20年間での経済成長がはっきりと現れていた。
温泉だけではなく、重慶の街も高層ビルが立ち並び、夜間は色とりどりの照明が輝いている。
当時重慶大学で講義していたときは、昼間でも電力不足で停電があり、30分は休憩したことを思い出す。わが国の電力事情と入れ替わったようだ。

2011年11月6日日曜日

第2次磐井の乱

磐井の乱は、百済と友好な継体王朝と、新羅と友好な磐井の間の戦争であった。そして磐井は敗北したが、新羅は次第に百済に侵攻していった。
当時志賀島を根拠地としていた安曇族は磐井とも友好関係にあったので、戦に敗れたあとは日本海沿いに逃れて、長野の安曇野までたどりついた。
当時すでに仏教が日本にも一部伝わっていたので、そのとき仏像をもってのがれたのが、今も長野の安曇野の寺に残っているいるそうだ。
これとよく似た仏像が、対馬や志賀島の地にも存在しているらしい。
百済との友好関係は、継体天皇以後も斎明天皇や天智天皇の時代まで続き、白村江の戦いで惨敗したあとは、新羅の反撃をおそれて大和王朝は防衛体制の強化に努めていた。
しかし天武天皇時代になると、反撃でなく新羅からの友好の使者が何度も大和王朝を訪れている。これは天武天皇が新羅との友好関係の推進者であったことの証明である。
ということは、天武天皇の勝利となった壬申の乱は、第2次磐井の乱であったと言えるだろう。

2011年11月5日土曜日

鞍手の熱田神社

文化の日、以前から鞍手インターができたら出かけようと思っていた鞍手町の熱田神社にでかけた。
鞍手インタ近くの剣岳の西南面にある熱田神社は、宮司さんの家に伝わる金川文書に、磐井葛子の弟「鞍橋ノ君」が住んでいたという古文書がある神社である。
鞍橋ノ君は日本書紀にも記載されている弓の名手で、磐井の乱のあと、百済救済の戦に参加して功績を挙げた勇士である。







葛子の糟屋の屯倉跡と鞍手の熱田居住地の関連で、この神社は古賀の天降神社との縁も深く、天降神社には鞍手(新北)の丹比氏から寄贈された梵鐘が残っている。
想像していたよりも大きな神社であり、神秘的な雰囲気の神社であった。
近くにには八剣神社もあり、神話時代のいわれのある地域である。
詳しい歴史は次のブログにかいている。
http://blogs.yahoo.co.jp/gfujino1/53031456.html
http://blogs.yahoo.co.jp/yamato2863/35067533.html

2011年11月1日火曜日

宗教とあの世主義

宗教の伝道者は布教が本来の姿である。
仏教では良寛、円空、大拙、賢治、寂聴など、キリスト教では内村鑑三などの姿が理想的である。
江戸時代にキリスト教弾圧のために作られた檀家制度は、僧侶の生活を安定させ、真の宗教性を失わせた。
現在は次第に檀家制度も壊れ始めているが、宗教そのものも薄れてきている。
わが市でも寺院出身の市長が昨年落選したのも、そのながれでであろうか。 良寛さんのような布教者はもう存在しえないのだろうか。
わが家のお寺さんでも、檀家に支えられて布教活動などは全くない。

梅原猛さんの随筆をよんでいたら、「あの世主義」という言葉がでてきた。
わたしの年齢になると、この世の希望は少なくなり、その分あの世での夢を増やすようにしたら良いということらしい。
「70過ぎたらあの世に別荘を」と揮毫するそうだ。
もう80を過ぎたから、私も立派な別荘をもっていなければならないが、まだ設計図が曖昧な状態だと反省している。
しかしお寺さんに相談する気もおこらない。
幼少時を海辺で育ったせいか、海の見える場所が好きだ。
日本の固有海域を明確にするため尖閣諸島に国が護国神社をつくり、沖ノ島のように神官を常駐させておくような時代になれば、その海岸に骨を埋めて眠りたいような気もする。

2011年10月31日月曜日

スチーブ・ジョブズ



スチーブ・ジョブズの死亡が世界的ニュースになっている。その伝記もブームになっているようだ。
彼はパソコン(パーソナルコンピュータ)をはじめて開発した人物の一人である。

Macintosh(マッキントッシュ)はアップルが開発したパーソナルコンピュータで、この開発に関係していた。 ビルゲイツのWindowsは彼の後発である。

写真のような初期のMac機種がわが家の倉庫にも眠っている。そのうち歴史的評価がついて、オークションで売れるかも。

昨日はジョブズの回顧番組が放送された。マイクロソフトを真似会社と扱き下ろしていた彼も、癌にかかった晩年はビルゲイツとも和解して、二人の公開テレビ番組にも出演していたようだ。

彼の若い頃を調べていたら、つぎのようなエピソードがあった。

「1968年、ジョブズが13歳のとき、あこがれのヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。・・・・・
ジョブズは、周波数カウンタの部品を欲しいとお願いすると、部品をくれるばかりか、夏休みにアルバイトをしないかと持ちかけられた。
そこでもらった仕事は、ヒューレット・パッカードの社内で、周波数カウンタをつくっているところだったという」

私はこの1968年にはじめて渡米し、パロアルトのPH社を訪問し、研究開発の話を聞いた。丁度初期の電卓を開発した時の苦労談を紹介された。
その頃彼が工場内でアルバイトとして働いていたとは知る由もなかったが、こんなエピソードがあったとは、懐かしい話である。

彼は大変な苦労人で、その評価もいろいろあるようだ。宋文洲さんのツイッターではつぎのようなことが書かれていた。

①私生児として産まれた彼は、貧乏な養父母に養子として出された。
②いま数億ドルを持つジョブズだが、養父母に上げた75万ドルは、一生で人に上げた最大な金額。デパートでは、自分が山ほどシャーズを買っても、彼女がほしいと言ったスカートからすぐ逃げた。
③ジョブズは黒も白と言い張って信じさせる才能を持つ。青年時代から常に天才的技術者にを製品を作らせてうまくうまく売りさばいてきた。
④「私は週90時間働くのが好きだ」。これがジョブズが社員達に着せたTシャーズに書いてあるスローガンだ。
⑤ジョブズは完璧主義者。家の洗濯機を決めるのに奥さんと何週間も渡って夕食を挟んで議論する。
⑥自分が両親に捨てられたが、ジョブズ自身も最初の子供を拒否した。
⑦ジョブズはイスラム教でもなく、キリスト教でもなく、仏教を信じていた。結婚式も日本人のお坊さん乙川弘文氏が取り仕切った。
⑧「来世を信じたいが、人生はスイッチのように一瞬で消されるだけかもしれない」。



自分が立ち上げたアップル社を追い出され、幾つかの新会社で新製品をつくり、iPHONの構想で再起した頃には、人間的にも幅が広がってきたようだ。
自分の信念をまげない

技術提携も視野にいれる

広報活動も積極的に

独創的アイディアを

 Windowsなどが増やした膨大なIT人口がなければ、Googleなどが広げた広大なネット空間がなければ、FIXCONなどが作った巨大な工場がなければ、デザインとマーケティングのパートナーがいなければ・・・一つでも欠ければアップルの成功はありえない。
その閉鎖性と嫉妬心から脱却してはじめて、かれの強烈な個性が偉大な業績につながったといえる。

http://heaaart.com/post/143107 最後の言葉のサイト

ライバルのビル・ゲイツは、日本好きで良い逸話がある。
マイクロソフト日本社屋のトイレで、掃除のオバサンとすれちがったとき、ソーリーといったら、オバサンは「ひげソリ?」とつぶやいたので、大笑いとなった。
その後ビル・ゲイツはパーティに、掃除のオバサンたちをみんな招待して、社員達にその働き振りを賞賛したという。

高地天文台と地球物理(物質生成の秘密をさぐる)

チリの高山に大型電波望遠鏡が多数設置されていることを最近知った。

東京大学アタカマ天文台で、~世界最高地点の天文台~としてギネスに認定されたそうだ。

世界各地の高地点の天文台一覧

地域標高天文台(群)主な天文台
1チリチャナントール山5,640m東京大学アタカマ天文台mini-TAO
2ボリビアチャカルタヤ山5,200m日本・ボリビア空気シャワー実験BASJE
3チリアタカマ高原5,000m電波望遠鏡群ALMA, APEX, ASTE, なんてん
4アメリカハワイ・マウナケア山4,200mマウナケア天文台群すばる, Keck, Gemini, UKIRT, CFHT, IRTF, CSO
5南極ドームA4,090m中国科学院国家天文台CSTAR
ハワイ島の天体望遠鏡群の基地は現地まで行き、見たことがあるが、チリのほうは最近知ったばかりだ。30年まえからの計画だという。

地上からの天体観測は、天体からの光が地球大気によって吸収・散乱されたり、大気そのものの放射によって、感度が低下する。
そこで上空大気量が少なく、乱れのより少ない高地に天文台を設置することで、高感度で精度の高い観測を 行うことができるようになる。
標高が高くなるにつれて大気圧が下がり、2,000mでは地表の80%、5,000mでは地表付近の約半分になる。
(観測者にとっては過酷な条件となる。)

すでに宇宙からの電波で有機物質の存在が明らかになったという。そのうちアミノ酸などの生命体に関係する物質がみつかれば、宇宙の生物の起源がわかるかもしれない。

他方、地球上の研究でもDNAやRNAなどの研究がすすみ、自己再生形の物質の研究で、アミノ酸などからの生物ができた過程の実現も近いといわれている。
宇宙の神秘、生命の神秘を人類が解明できる日も近いのかもしれない。

また東北の大地震で、地球のプレートの移動や地震の予報などが注目されている。
あらためて地球物理学の本を開いてみると、最近の研究では内部の構造や内部物質の循環などが解明されてきているようだ。

内部は単純に溶融マグマと思っていたが、表層マグマ、深層マグマ、内核などに分離されている。

地上からの水分がマグマのなかにOH基となって含まれて、いろんな岩石の種類が形成される循環システムも解かりはじめている。
内核では高温で高圧だからダイヤモンドが形成され、それが短時間で地上に出てきたものが宝石のダイヤモンドで、内核からの手紙と考えていいそうだ。

二人の小説家

今朝の新聞では、わたしと同年代の二人の小説家の名前がでている。
北杜夫は訃報であり、丸山才一は文化勲章受賞の朗報である。
対照的な二人であり、対照的なニュースである。
私には北杜夫のほうがなんとなくなじみ易い作家であった。
たしか一度大病をされたあと回復され、今月1日にトークショウをした時までは元気だったが、23日に体調を崩して入院したそうで、急な旅立ちだった。
たまたま二人が敗戦の日8月15日の記憶をかいている本をよんだ。

 北杜夫は旧制高校生で、学徒動員さきの職場で王音放送をきいた。
敗戦ということがおぼろげに理解できて、肩をたれうつむいてぼんやりしていた。職場の仲間のなかから突然万歳の声が湧きあがった。職場で働いていた朝鮮人労働者のあげた叫び声だった。同胞であると信じていたのに、唖然として悔しさわきおこってきたという。

 丸山才一は歩兵砲大隊の兵隊として、青森の部隊で王音放送をきいた。
隊員の理解がまちまちで、ますます頑張れという説、まだどうなるか解からないという説、アメリカが日本人を蹂躙するという説など乱れとんだ。
才一はきれぎれのラジオの言葉から、日本が負けて日本軍がなくなったことを解説し、言葉が過ぎたため、下士官からさんざん殴られたという。

二人の対照的な作品の姿がこのころから滲んでいるような記録である。

2011年10月23日日曜日

人命と経済

 「経済」とは経世済民の短縮語で、民衆を救済するための論理である。
しかし利益追求のために、民衆に犠牲を払わせるような論理がよく出てくる。  
 人の命と「経済利益」を混同して起きた1970年代のフォード・ピント事件がある。
 フォードがはじめて小型車の分野に参入し、その第1号がピントという車で、それまで小型車なるものを設計経験がなく、後ろのトランクに置いたガソリンタンクの設計が悪く、追突されると火災を起こし、数人が焼死した。
 フォードの社内で緊急会議がもたれ、ピントをリコールして修理するか、このまま放置するかが議論された結果、リコールするとお金がかかり、このまま放置して数十人の死者がでて補償金を払ってもその方が安いということになり、放置することになったという。
 現実には次々と死者がでてフォードは社会的に非難されて、結局リコールしたということになったそうだ。

 寝たきりになった老人はある意味では人間社会の重荷になるかも知れない。そして医療費が増え、社会はその負担に耐えられなくなる危険性がある。
 だからといって寝たきりになったら終わりになってもらうことは人間にはでない。経済思想の言葉では、実証はcool headで、規範はwarm heartであれというそうだが、どのようにバランスよく判断するかの論理は明確ではなかった。
 医療の進歩と経済の矛盾をどう分析し、解釈するかが現代社会の大きな命題である。

コンピューター言語の歴史

アップル社のスチーブ・ジョブズの死は大きく報道されたが、10月中旬にはC言語やUNIXの開発者デニス・リッチーの死が小さくとりあげられている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111014-00001491-techcr-sci
ベル研究所での研究者だったし、70歳という年齢だから、ニュース性は少ないだろう。

この機会にコンピュータ開発初期の言語関係の人物を少ししらべてみた。
フォートランはIBM社で開発した言語だが、技術者向けの言語で、リーダーはジョン・バッカスという。
パスカル開発の基本はニコラス・ビルトによるが、パソコン用は米インプライス社のターボパスカルが有名である。

C言語(1972)の前にB言語があり、ケン・トンプソンが開発者であった。
ベイシック言語(1964)の開発者の一人ジョン・G・ケメニーは福岡にも来たことがあり、講演を聴いた記憶がある。(1992没)

当時の本を開いてみると、いいかげんなものもあり、東大の先生の監修なのに、フォートランやベイシックの開発者をビル・ゲイツと書いているのを見つけた。(正確にはビル・ゲイツが1980年前後にパソコンにベーシックを使って普及させた事との混同で、別のテキスト・資料でも同じミスを書いているのがあった。)

ビル・ゲイツ(本名はW.H.Gates)はまだ健在であるが、コンピュータ初期の研究開発者はもう皆晩年をむかえている。

主なプログラム言語の一覧表

 言語名   大型機用   開発者        パソコン用    開発者       特徴

FORTRAN    1954        IBM                    1      977      マイクロソフト社     技術用              
           (ジョン・バッカス)
COBOL       1959     米政府主導                       1979      マイクロソフト社     事務用        

BASIC        1964  ジョンGケメニー                     1975      マイクロソフト社     教育用         

Pascal        1971  ニコラス・ビルト            1978   ケン・ボールズ     教育用                   
                             米インプライス社
PL/ I         1966       IBM                                               1980     ディジタルリサーチ社

PL/ M      ------------------------------                       1973    ゲリー・ギルドール

B言語       1970   ケン・トンプソン          .-----------------
           AT&T
C言語     1972   デニス・リッチー        1980 レオ・ゾルマン       ツール作成
          AT&T
LOGO    1970    MIT          1983   …………                            CAI

LISP    1962 ジョン・マッカーシー    1979 ソフォトウエアハウス社  人工知能

Prolog    1970 アラン・コマーラ      1982              言語解析

FORTH   1968 チャールズ・ムーア     1975   FORTH社      制御用

Modula-2  1981 ニコラス・ビルト      1983  Modula・3      制御用

Ada     1980  米国防省                         総合形

2011年10月10日月曜日

戦国筑紫の女将たち(3)  松東院メンシア

平戸に昔の海外貿易遺跡の商館が復旧され、新たな観光拠点ができた。
この平戸領主松浦久信の夫人となった松東院メンシア(実名不詳)は、松浦氏と大村氏の貿易戦争の和睦のあかしのため、大村氏から嫁いできた。
大村純忠はキリシタン大名で、全領民を改宗させ、80以上の教会を建立したほど熱烈な信者であった。一方では南蛮貿易で財力を蓄えていた。
当時隣国龍造寺らが貿易独占をはかって長崎港などを要求されることを恐れて、長崎や茂木の地をイエズス会に寄進していた程である。
松浦氏との貿易争いも続いており、早岐、針尾、佐世保などを侵略されていた。
父大村純忠がその五女メンシアと松浦久信との婚約をしたのは、これ等の土地を化粧料として割譲する条件での和睦だったが、メンシアがまだ3歳のときだった。
松浦鎮信の方はこの結婚によって宣教師たちの信頼をえて、貿易を拡大しようと考えていた。
それから10年後、秀吉の九州征伐が始まる頃は、純忠は病床に伏せていたが、大村と松浦が共に秀吉の島津攻めに参加することを誓うため、かねてからの婚約を実施した。
ただし、すでにキリスト教に入信していたメンシアの信仰を守らせることを条件に、松浦鎮信の嫡男松浦久信の嫁となった。時に久信16歳、メンシア13歳であった。婚儀のときには父純忠はすでに帰らぬ人となっていた。

秀吉は九州平定のあと、キリシタン禁令を発したのは有名な歴史である。
結婚の条件にメンシアの信仰を許していた松浦家であったが、生活習慣の差からその信仰に反感をもっていた。
そこに秀吉の禁令がだされたので、さっそくメンシアに強く棄教をせまった。しかし
棄教よりは離縁をえらぶというメンシアの意志の強さにおされ、一族の一部にも理解者がいて、離縁は留められた。
やがて長男を出産し、義祖父と同じ名前の隆信(宗陽)と命名して、一家はしばらくは平穏に過ごしていた。
やがて朝鮮出兵がはじまり、鎮信と久信は小西行長の指揮下で出陣した。その頃
長男の重病があったり、次男信清の誕生があったりして、秀吉の死亡の翌年に義祖父も亡くなった。
朝鮮からの帰国後も義父鎮信は領内のキリシタン禁止を進めてたが、メンシアに対しては、長男の宗陽のこともあるので、強制しないまますごした。
関ヶ原の戦で西軍が敗れ、キリシタン大名の有力な味方だった小西行長が消えた。その2年後メンシア夫人の理解者だった夫久信が37歳で急死した。
平戸では藩主に義父が返り咲き、キリシタンの弾圧を強化していたが、やがて65歳で世をさり、メンシアの長男宗陽がやっと藩主となることができた。
しかし江戸幕府のキリシタン前面禁止時代となり、全国的に多くの殉教者がでた。松浦藩では洗礼を受けなかった次男の信清が表面にたって、キリシタン弾圧の役目をはたし、生月島などで多くの殉教者の血がながされた。
メンシアの実兄の大村喜前も信仰と棄教の狭間に悩みながら死んでいった。
このような世の中で、メンシアの信仰は密に継続されていたようで、「平戸の藩主とその母がイエズス会パピストであり、その兄弟姉妹もキリシタンである」ということが、英国商館長の日記に記録されているようだ。
遂に66歳のときにメンシアは江戸幕府から呼び出され、松浦家の江戸菩提寺の孝徳寺に隠居するように命じられる。ここには次男信清がすでに葬られており、その7年後には長男の宗陽も葬られることになる。
宗陽の死後、松浦藩を追い出された浪人が、前藩主の母がキリスト教徒だと評定所に訴えた事件があったが、幕府は取り上げなかったという。
このような計らいを幕府が行った裏には、生前の宗陽が、毎年商館長に指示して莫大な贈り物を将軍や幕閣に届けさせていたからであろうと言われている。
メンシアは信仰を守りつづけながら、また子供たちをともらいながら、85歳まで存命であった。まさにキリシタン禁令の時代に強い信仰の一生であった。

2011年10月2日日曜日

IFの歴史

前に「関ヶ原でもし西軍が勝っていたら」というブログを書いた。
昨夜は同じようなIFの歴史番組のテレビが放映された。
1)本能寺の変がなくて信長がいきていたら。
 国内制覇をして海外進出を成功させて、アジヤ広域に勢力をのばしていたかも。 
2)関ヶ原で西軍が勝っていたら。
 伊達政宗がスペインと組んで全国制覇をしていたかも。
3)坂本龍馬がピストルを使って逃亡に成功していたら。
 大きな商社をつくり、西郷隆盛を説得して西南戦争は起こらなかったかも。

伊達政宗の活躍予想は私のブログと大きくちがっていた。

2011年9月22日木曜日

戦国筑紫の女将たち(2) 龍造寺慶誾尼

龍造寺氏と鍋島氏は姻戚関係であった。
龍造寺周家の妻慶誾尼は、自分の嫡子隆信がひ弱な性格であることと、夫の姉の子鍋島直茂が優れた資質であることを見抜いて、直茂の父清房との再婚をもちかけて、両家を一体化させて、隆信と直茂を兄弟関係にした。
その後、大友軍の攻撃をうけたとき、直茂は本陣に夜襲をかけて宗麟の弟である親貞を討取る大手柄(今山の戦い)をたて、龍造寺・鍋島は、大友・島津に次ぐ九州の三大勢力となった。
島原半島の有馬が造寺に離反したので、隆信が自ら島原を攻撃したが、背後の島津家久に敗れて56歳で戦死した。肥満が原因だったといわれる。
隆信の嫡男政家は島津に融和的だったが、鍋島直茂は早くから豊臣秀吉と誼を通じて、九州平定にを促進した。
秀吉は一旦旧領を政家に安堵したが、3年後には政家を隠居させ、朝鮮出兵には鍋島直茂に龍造寺家臣団を率いさせた。
慶誾尼の見抜いた資質は秀吉が評価したとおりであった。

2011年9月21日水曜日

 立花宗茂と誾千代(更新)

 戦国期の九州勇将で、筑前立花城主をつとめ、後に筑後柳川藩主となった立花宗茂は、永禄十年の8月18日生まれ。
 大友宗麟の臣・吉弘鎮理(しげまさ・後の高橋紹運)の長男として豊後国東郡・筧城(大分県豊後高田市)に生まれた。幼名千熊丸、通称は弥七郎。成人して統虎と名乗り、後に宗茂と改める。(以下宗茂で統一)。官職は左近将監のち飛騨守。 

立花宗茂
 宗茂の祖父・吉弘鑑理は大友家中で豊州三老の一人として知られる重臣だが、大友氏は天正六年(1578)十一月の日向耳川の戦いで島津氏に大敗して以来、凋落の一途をたどり、父鎮理は二十二歳の時に筑紫の名族高橋氏を嗣ぎ、高橋主膳兵衛鎮種と名乗り、後の入道号である紹運の名で広く知られている。
 当時、斜陽の大友家にあって柱石と目されたのは立花城主の道雪(戸次鑑連)と高橋紹運であった。

立花山城
 ところが道雪には男子がなかったため、紹運に一人娘の誾千代の婿養子にぜひ宗茂をと求める。誾千代は永禄十二年の8月13日生まれで二歳年下。
 紹運は長男を養子に出すことを悩むが、大友家を思う道雪の真摯な心に打たれて承諾した。
戸次道雪
 ここに宗茂は戸次道雪と高橋紹運という二人の名将を父に持ち、その薫陶を受けて育った。
誾千代
 誾千代は夫が出陣して不在のときは城代をつとめ、侍女たちまで具足をつけさせて城を守ったという女丈夫であった。
島津軍北上
 道雪の死亡のあと、九州制覇をめざして島津軍が北上し、実父高橋紹運の岩屋城に猛攻を加えて陥落し、さらに立花城を取り囲んだ。
 しかし宗茂夫妻軍の硬い抵抗にあって苦戦しているうちに、豊臣軍の応援軍が筑紫に上陸した。
 あわてた島津軍は博多の街に火をかけて、退散してしまった。
秀吉は立花宗茂の働きを認め、大友傘下の立花城主から、独立した筑後柳川城主の大名に抜擢した。
柳川城
 しかし正室の誾千代は、父から受け継いだ立花城を失ったことから不和が生じ、城外の宮永館に別居していた。宗茂が京女を寵愛したとか、秀吉と誾千代との間に不義があったなど、後世の伝記などにでているが、同時代の史料には皆無である。
 宗茂は秀吉に仕え、各地の戦や朝鮮出兵でも活躍して、九州の勇将の名を轟かせた。

 秀吉の死後も、豊臣側に忠誠をすくし、関ヶ原の戦では西軍についたので、その留守中、鍋島軍の攻撃に対し城を守り抜いたのは、誾千代の力であった。
 その後東軍に加藤清正、黒田如水が加わったので、帰国していた宗成は、ついに降伏して開城した。
 宗成は浪々の身となるが、立花家中は清正の領国に身をよせるものが多かった。
 誾千代は、長洲町腹赤の阿弥陀寺に寓居していたが、2年後34歳で病死したという。井戸に身をなげたという説もある。

 宗成の勇猛さと誠実さが評価されていたので、秀忠に再採用され、のちに柳川城主に復活をとげた。
 大阪冬、夏の陣や島原の乱では、徳川軍としてその勇将ぶりを発揮している。
 地元では、立花宗茂を主役とした大河ドラマの実現を願う運動がはじまっている。





2011年9月16日金曜日

関ヶ原の決戦(9月15日)のIF

9月15日は関ヶ原の決戦で、ほぼ1日で決着がついた。
黒田如水は1ヶ月と予想していたようだし、大半の大名も同様の思いだったろう。
歴史に IF はないというが、 その可能性はおおいにあったはずである。

歴史愛好家の推理を並べてみると面白い。
「上杉軍が西上する家康軍の背後を襲っていたら」
「織田秀信が野戦などせずに岐阜城に篭城していたら」
「大津城があと2,3日早く落城していたら」
「西軍主力部隊が大垣城から夜討ちを家康にかけていたら」
「毛利輝元が大阪城から出陣していたら」
「茶々と秀頼が西軍支援を鮮明にして資金援助をしていたら」
「本戦で、小早川秀秋が裏切り行動をしなければ」
こられの可能性の一つでも実現していたら、勝敗が逆転していた可能性はある。
愛好家はさらにその先まで推理してしまう。
一進一退だった戦況が、秀秋が西軍側にたって山をおり、西軍有利となれば、つぎのような展開となった筈である。
○島津軍が西軍に加わり、南宮山の毛利、長宗我部、長束なども西軍について行動をおこす。
○東軍は挟み撃ちとなり、家康も戦場離脱ができずに、討ち死にか捕虜になったかも。
○秀忠軍は健在だが、東軍からの裏切りがでて、武者狩りにあった可能性もある。
○茶々や秀頼、さらには朝廷も、家康追討の命令をだしただろう。
○上杉、佐々木も本格的に関東に攻め入る。
○伊達、最上も形式的に徳川についていたから、寝返って本領安堵をはかっただろう。
○前田も母の人質問題はあるが、もはや徳川のためには動かない。

さらに戦後の領地まで推理してしまう歴史愛好家もいる。
○もし徳川家康が生きていれば、大幅に減封のうえ、秀忠に相続させる話が、北政所や茶々の主導で出ていたであろう。駿河、三河あたりか、もっと遠くの東北か九州に移されたかもしれない。
○関ヶ原にいた武将たち、福島正則、黒田長政などはA級戦犯だから、戦場で生き延びたとしても、命はないだろう。
○浅野幸長のように、北政所というコネがあれば命はなんとか助かりそうだ。
○遠隔地にいた武将達で、加藤清正、黒田如水などは、結果をきいてからあわてて東軍の大名を攻撃し、生き延びたかもしれない。
○生駒親正、立花宗茂のように西軍に兵をだしていれば本領安堵や加増の可能性が大きいが、蜂須賀家政のように逃げていたものは、改易か大幅減封はさけられない。

あとは西軍の勝利組の処遇であるが、一般的には五割増しの石高がめやすである。
○最高殊勲者の小早川秀秋は、羽柴家にもどり秀頼の指南役となり、秀頼が成人するまで関白職についたはずである。これは三成が生前に誘っていた構想である。
○毛利は丁度輝元に実子が産まれ、廃嫡された秀元の独立問題がおこっていたから、小早川旧領の筑前を与えれば丸くおさまるし、さらに伊予や豊前あたりを加増されたかもしれない。
○上杉は関東の徳川領を引きうけるのに最適である。関東では武蔵、上野、鎌倉周辺だ。会津には未練はないが、佐渡の金山に近い春日山周辺と関東に通じる回廊地帯は確保したいところだ。
○佐竹義宜は会津復帰と常陸との回廊、堀秀治は越後から出て、米沢あたりにおさまり現状維持だろう。
○前田は結果を知って寝返っていれば、利長から利政に家督を譲って現状維持か少しの減封でおさまるだろう。
○西軍についても活躍はしていない織田家の秀信は岐阜城を維持されるくらいで、信雄も清洲城をとりもどすくらいだろう。
(九州・四国)
○島津は日向全域と肥後南部くらいは獲得できたはずである。
○鍋島は竜造寺とのややこしい関係を断ち切るため、佐賀をはなれて関東に進出すれば、おおきな道がひらけ、その後に小西行長が佐賀に入り肥前をキリシタン王国にしたかも。
○立花宗茂は、加藤清正の熊本城を獲得し、島津のおさえとして君臨しただろう。
○大友は豊後を取り戻せたか、あるいは貢献度が少ないので半分かもしれない。
○長宗我部は伊予か阿波の一部の加増となっただろう。
(東国)
○真田昌幸は高い評価をされれば、信濃か甲斐か相模の大名になった可能性がある。
○大谷、丹羽、宮部、長束なども加増組である。
○三成や兼重は、自分の加増はほどほどに抑えて、反感をかわないようにしたであろう。島左近らを独立大名にするため、東軍についた筒井家のあとにはめ込み、実をとるような人事をしたであろう。


三成や兼重になったような気分で、勝手な人事を考えるのも、歴史愛好家の楽しみである。

2011年9月5日月曜日

平清盛と筑紫(改訂)

平家は正盛、忠盛、清盛と3代にわたて、西国瀬戸内海地区の岡山、四国、広島などの国司をつとめた。

忠盛の時代には筑紫神崎の国司も兼務し清盛の時代には清盛は筑紫の大宰大弐の役職についた。
平治の乱のとき、九州の兵力を援軍としてこれをおさめ、直後に肥前の日向太郎の謀反には、家人の平家貞を派遣して平定した。
筑紫の重要性を知っていた清盛は、府高官が現地に赴任しない習慣をやぶるため、弟の頼盛を大宰大弐にして現地に赴任させた。
そして色んな名目で、平家の家領をひろげ、有力寺社との連携を深めていった。
当時は海外との通商、特に日宋貿易のスタイルを清盛流に変更して、宋朝との国書の贈答を行い、宋人は福原で後白河法皇との会見をし、高倉天皇は宋船に乗って厳島詣でをするなどの行事をはじめた。
宋船の出入りする湊は、博多の袖の湊と福原の経ヶ島といわれている。
築港の技術に共通点が多いからだ。
貿易の利で、太政大臣にまで上り詰めた清盛は、独断的な権勢欲を押しとおしたため、鹿ヶ谷事件などがおこった。

清盛の長男重盛は父の権勢欲を抑えることにつとめたが、病に倒れて死亡する。
清盛は法皇を鳥羽院に幽閉するなどの暴挙にでたため、以任王の挙兵となり、源氏諸国の挙兵に連鎖していく。
福原(神戸)にいた清盛は筑紫への逃避を考えて、2回ほど大宰府まででかけるが、かって筑紫でひろげていた平家の家領の武士達も離れてしまって、ついに逃亡をあきらめる。
このころ脳卒中といわれる急病に倒れ、あっけなく死亡する。
天平3年(731年閏2月4日のことである。その後5年で平家は滅亡する。
清盛にとって筑紫は、幻の宝島であった。

2011年9月1日木曜日

源頼朝と筑紫支配(改訂)

鎌倉幕府を成立し、天下統一に成功した頼朝だが、若い頃はそんな野望をもっていなかった。


伊豆に幽閉されていた頼朝が、成人の年齢になって最初に目論んだ行動は、地元の豪族の娘と縁をむすんで、その婿養子になることであった。
豪族の主が、オオバンで京都にのぼり留守のあいだに、その娘といい仲になり子供をつくることからはじめた。
その一番手は、伊東祐親の娘「八重」で、千鶴という子供をもけたが、帰郷した祐親が怒って子供を川に投げ込み、八重を菲山の江間小四郎(北条義時の幼名)に嫁がせてしまった。恐れた頼朝は伊東家に近づかなくなり、つぎの獲物をねらった。
二番手が北条時政の娘「政子」である。時政もオオバンで京都にのぼっていたが、帰郷したとき政子が頼朝のもとえ逃げたのを黙認した。

丁度この時期、以仁王・源頼政の挙兵がおこり、これに応じて頼朝も挙兵して、伊豆目代山木兼隆を倒した。
石橋山の戦いでは、伊東祐親は頼朝軍を背後から攻め敗走させたが、北条時政は動かなかった。

その後形勢が逆転して、足利、北条など各地の源氏軍が頼朝のもとへ集結したので、祐親は平家の頼朝追悼軍(維盛軍)に合流しようとするが、途中で頼朝軍に捕らえられた。娘婿・三浦義澄の奔走もあり、頼朝も過去の因縁もあるので命だけはたすけた。
娘八重の嫁ぎ先は北条義時であるから、頼朝としては、政子の兄弟の嫁とも関係したことになり、複雑だったのだろう。(別人説もある)
しかし祐親は、これまでの自分を悔い恥じて自ら切腹して死んだ。
(のちの仇討ちで有名な曽我兄弟十郎・五郎は祐親のの孫であるから、頼朝が自分が狙われたものと疑ったのも仕方が無いことだ。)

すこし前置きが長くなったが、現実路線思考の頼朝は、維盛軍が富士川の水鳥の音に驚いて敗走したあと、自分の軍を鎌倉に引き戻して、後追いを甲斐源氏の軍にまかせた。自分では関東平野を統治することを第一の目標にしていたからだ。

この頃頼朝は昔のように、源氏と平家で天下を分担して治めることを考えていたようだ。
しかし平家側で清盛の死あと、急激に統率力がなくなり、木曽義仲が京都に攻め込んで平家が逃げ出したときには、朝廷や安徳天皇に危害を加えないように繰り返し司令をだしている。彼の考えでは長期戦で平家軍が講和を持ち込んでくるのを待つことであった。
そのあと後白河法王の命で、義経が連続的に奇襲攻撃をしかけて、急速に平家を追い詰めて壇ノ浦で全滅させてしまい、安徳天皇を死なせてしまった。

結果的には筑紫の地まで、頼朝政権のもと属すことになったが、彼の頭には筑紫よりも北陸の地の平定が先にあり、平泉の攻略に勢力をあげた。

筑紫には朝廷直属の大宰府があり、当初は頼朝も大宰府に遠慮して平家側武家の統治だけを弟の範頼に命じたが、問題が多発した。

そこで範頼をよびもどし、かわりに中原久経と藤原国平を派遣して地ならしをし、鎮西奉行職をもうけて、腹心の天野遠景を任命した。
次第に大宰府の権限を取り込んでいくが、天野の武断政治のいきすぎが多く問題となった。

そこで全国に守護を配するときに、武藤資頼と中原親能の二人制として、筑前・豊前・肥前と筑後・豊後・肥後の守護を担当させた。少しあとに島津忠久を南部の大隈・薩摩・日向の守護に命じ、九州の御家人統率体制が出来上がった。

さらに武藤資頼を大宰少弐に任命することに成功し、公武二本立てだった九州支配が、鎌倉幕府側の支配下になった。
このように頼朝の九州支配は一歩一歩慎重に進められていったことがわかる。

武藤の子孫は少弐を世襲し、それが氏名となって戦国時代まで続いている。また中原の氏名は大友にかわり、九州は三人衆少弐(武藤)・大友・島津が割拠する武家の時代となった。



2011年8月26日金曜日

筑紫大宰(更新)

大宰府といえば菅原道真の天満宮のある場所と考えるのが現代人である。
ヤマト朝廷が成立したあと、西の都(遠の都)に設置された政府機関の歴史が次第にうすれているので、関係した人物をあげながら、まとめてみる。
新元号が「令和」となり、その出典が、大伴旅人らの万葉集となったことで、にわかに大宰府が脚光をあびているが、その時代は大宰府がスタートして120年後のことである。
◆ 小野妹子の時代よりはじまる。
607年に隋に派遣された小野妹子が、唐の使者裴世清を伴って筑紫に帰国した。
推古王朝は唐客の来日を機会に、筑紫大宰を筑紫に設置し、一行を大和飛鳥に送りとどける前の応対拠点での官職とした。この官名は筑紫卒、筑紫師、筑紫大宰など変化し、約一世紀間存在したが、氏名が明らかな人物は十名に満たないし、白村江以後に集中している。
◆蘇我日向
祖父は蘇我馬子、父は蘇我倉麻呂だが、644年に中大兄皇子が婚約した娘と密通した。しかもその娘の父石川麻呂が皇子を暗殺しようとしていると讒言して自殺に追いやった。
あとでこの虚言がわかり、中大兄皇子は、日向を筑紫国に筑紫大宰として任命した。世間ではこれを隠し流しと称しており、あとでも同じような事例が多い。
のちに日向が孝徳天皇の病気平癒を願って筑紫に建てた寺が大宰府の武蔵寺(筑紫般若寺)といわれ、九州最古の寺である。
◆斎明天皇の時代
660年百済救援のため斎明王朝の首脳は、飛鳥から筑紫に移動し博多湾に近い那津(岩瀬)の行宮から筑後川の中流の朝倉までを前線基地の範囲とした。
筑紫大宰はその中間地点の大宰府にいた可能性はある。当時の筑紫大宰師は安倍比羅夫という。
◆蘇我赤兄
669年に蘇我赤兄は筑紫率に任命されている。有間皇子の変に関係していたとして、左遷されたといわれている。しかし中大兄皇子が有間皇子を除くために赤兄に指示して挑発させたという説と、赤兄が単独で有間皇子を陥れようとしたという説があり、真相は不明だ。この年に藤原鎌足が死亡して政局も変化し、短期間で都にもどり、左大臣に任命されている。
◆栗隈王
敏達天皇の孫といわれている。672年壬申の乱当時の筑紫太宰であった。
栗隈王はかって大海人皇子のもとについていたので、大友皇子の使者がきて、筑紫の兵を大友皇子の援軍に出さなければ殺すとといった。栗隈王は、筑紫の兵は国外への備えを理由に出兵を断り、退く気配がなかったので、使者は引き下がった。
「筑紫国は以前から辺賊の難に備えている。そもそも城を高くし溝を深くし、海に臨んで守るのは、内の賊のためではない。今、命をかしこんで軍を発すれば、国が空になる。そこで予想外の兵乱があればただちに社稷が傾く。その後になって臣を百回殺しても何の益があろうか。あえて徳に背こうとはするのではない。兵を動かさないのはこのためである。(現代文訳)」というのが書紀が載せた栗隈王の言葉である。乱のあと675年には兵政長官に任命された。
◆その後、屋垣王、丹比嶋、栗田真人、河内王、三野王、石上麻呂などの名前が700年までに見える。
◆大友旅人と山上憶良
727年に大宰帥として大宰府に赴任したようだ。この任官は長屋王排除に向けた藤原氏による左遷と見る説が多い。この一年前に山上憶良はすでに筑前守として赴任しており、歓迎の宴で歌を披露している。二人の和歌を通じての交流は有名である。
◆藤原広嗣
 740年藤原宇合の長子である広嗣は、父たち4兄弟の病死により、橘諸兄が政権を握ったため、大宰少弐に左遷された。これに不満をもち中央の僧玄昉たちを除こうとして大宰府を根拠に挙兵したが、北九州で戦いに敗れて新羅に逃げようとするが、五島列島沖で捕らえられて斬殺された。
◆吉備真備
760年頃藤原仲麻呂は新羅征伐を計画した。当時仲麻呂に疎遠にされて大宰大弐を務めていたのが、唐仕込みの軍学者吉備真備である。仲麻呂の命で軍備をすすめるが、地元の負担や、防人の苦労などに配慮して、ゆっくり5年ほどかけて舟や兵士の増強をはかった。そのうち仲麻呂の政権運営がいきずまり、新羅征伐も中止となり、吉備は復権して京都へ帰ることができた。