2011年10月31日月曜日

スチーブ・ジョブズ



スチーブ・ジョブズの死亡が世界的ニュースになっている。その伝記もブームになっているようだ。
彼はパソコン(パーソナルコンピュータ)をはじめて開発した人物の一人である。

Macintosh(マッキントッシュ)はアップルが開発したパーソナルコンピュータで、この開発に関係していた。 ビルゲイツのWindowsは彼の後発である。

写真のような初期のMac機種がわが家の倉庫にも眠っている。そのうち歴史的評価がついて、オークションで売れるかも。

昨日はジョブズの回顧番組が放送された。マイクロソフトを真似会社と扱き下ろしていた彼も、癌にかかった晩年はビルゲイツとも和解して、二人の公開テレビ番組にも出演していたようだ。

彼の若い頃を調べていたら、つぎのようなエピソードがあった。

「1968年、ジョブズが13歳のとき、あこがれのヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。・・・・・
ジョブズは、周波数カウンタの部品を欲しいとお願いすると、部品をくれるばかりか、夏休みにアルバイトをしないかと持ちかけられた。
そこでもらった仕事は、ヒューレット・パッカードの社内で、周波数カウンタをつくっているところだったという」

私はこの1968年にはじめて渡米し、パロアルトのPH社を訪問し、研究開発の話を聞いた。丁度初期の電卓を開発した時の苦労談を紹介された。
その頃彼が工場内でアルバイトとして働いていたとは知る由もなかったが、こんなエピソードがあったとは、懐かしい話である。

彼は大変な苦労人で、その評価もいろいろあるようだ。宋文洲さんのツイッターではつぎのようなことが書かれていた。

①私生児として産まれた彼は、貧乏な養父母に養子として出された。
②いま数億ドルを持つジョブズだが、養父母に上げた75万ドルは、一生で人に上げた最大な金額。デパートでは、自分が山ほどシャーズを買っても、彼女がほしいと言ったスカートからすぐ逃げた。
③ジョブズは黒も白と言い張って信じさせる才能を持つ。青年時代から常に天才的技術者にを製品を作らせてうまくうまく売りさばいてきた。
④「私は週90時間働くのが好きだ」。これがジョブズが社員達に着せたTシャーズに書いてあるスローガンだ。
⑤ジョブズは完璧主義者。家の洗濯機を決めるのに奥さんと何週間も渡って夕食を挟んで議論する。
⑥自分が両親に捨てられたが、ジョブズ自身も最初の子供を拒否した。
⑦ジョブズはイスラム教でもなく、キリスト教でもなく、仏教を信じていた。結婚式も日本人のお坊さん乙川弘文氏が取り仕切った。
⑧「来世を信じたいが、人生はスイッチのように一瞬で消されるだけかもしれない」。



自分が立ち上げたアップル社を追い出され、幾つかの新会社で新製品をつくり、iPHONの構想で再起した頃には、人間的にも幅が広がってきたようだ。
自分の信念をまげない

技術提携も視野にいれる

広報活動も積極的に

独創的アイディアを

 Windowsなどが増やした膨大なIT人口がなければ、Googleなどが広げた広大なネット空間がなければ、FIXCONなどが作った巨大な工場がなければ、デザインとマーケティングのパートナーがいなければ・・・一つでも欠ければアップルの成功はありえない。
その閉鎖性と嫉妬心から脱却してはじめて、かれの強烈な個性が偉大な業績につながったといえる。

http://heaaart.com/post/143107 最後の言葉のサイト

ライバルのビル・ゲイツは、日本好きで良い逸話がある。
マイクロソフト日本社屋のトイレで、掃除のオバサンとすれちがったとき、ソーリーといったら、オバサンは「ひげソリ?」とつぶやいたので、大笑いとなった。
その後ビル・ゲイツはパーティに、掃除のオバサンたちをみんな招待して、社員達にその働き振りを賞賛したという。

高地天文台と地球物理(物質生成の秘密をさぐる)

チリの高山に大型電波望遠鏡が多数設置されていることを最近知った。

東京大学アタカマ天文台で、~世界最高地点の天文台~としてギネスに認定されたそうだ。

世界各地の高地点の天文台一覧

地域標高天文台(群)主な天文台
1チリチャナントール山5,640m東京大学アタカマ天文台mini-TAO
2ボリビアチャカルタヤ山5,200m日本・ボリビア空気シャワー実験BASJE
3チリアタカマ高原5,000m電波望遠鏡群ALMA, APEX, ASTE, なんてん
4アメリカハワイ・マウナケア山4,200mマウナケア天文台群すばる, Keck, Gemini, UKIRT, CFHT, IRTF, CSO
5南極ドームA4,090m中国科学院国家天文台CSTAR
ハワイ島の天体望遠鏡群の基地は現地まで行き、見たことがあるが、チリのほうは最近知ったばかりだ。30年まえからの計画だという。

地上からの天体観測は、天体からの光が地球大気によって吸収・散乱されたり、大気そのものの放射によって、感度が低下する。
そこで上空大気量が少なく、乱れのより少ない高地に天文台を設置することで、高感度で精度の高い観測を 行うことができるようになる。
標高が高くなるにつれて大気圧が下がり、2,000mでは地表の80%、5,000mでは地表付近の約半分になる。
(観測者にとっては過酷な条件となる。)

すでに宇宙からの電波で有機物質の存在が明らかになったという。そのうちアミノ酸などの生命体に関係する物質がみつかれば、宇宙の生物の起源がわかるかもしれない。

他方、地球上の研究でもDNAやRNAなどの研究がすすみ、自己再生形の物質の研究で、アミノ酸などからの生物ができた過程の実現も近いといわれている。
宇宙の神秘、生命の神秘を人類が解明できる日も近いのかもしれない。

また東北の大地震で、地球のプレートの移動や地震の予報などが注目されている。
あらためて地球物理学の本を開いてみると、最近の研究では内部の構造や内部物質の循環などが解明されてきているようだ。

内部は単純に溶融マグマと思っていたが、表層マグマ、深層マグマ、内核などに分離されている。

地上からの水分がマグマのなかにOH基となって含まれて、いろんな岩石の種類が形成される循環システムも解かりはじめている。
内核では高温で高圧だからダイヤモンドが形成され、それが短時間で地上に出てきたものが宝石のダイヤモンドで、内核からの手紙と考えていいそうだ。

二人の小説家

今朝の新聞では、わたしと同年代の二人の小説家の名前がでている。
北杜夫は訃報であり、丸山才一は文化勲章受賞の朗報である。
対照的な二人であり、対照的なニュースである。
私には北杜夫のほうがなんとなくなじみ易い作家であった。
たしか一度大病をされたあと回復され、今月1日にトークショウをした時までは元気だったが、23日に体調を崩して入院したそうで、急な旅立ちだった。
たまたま二人が敗戦の日8月15日の記憶をかいている本をよんだ。

 北杜夫は旧制高校生で、学徒動員さきの職場で王音放送をきいた。
敗戦ということがおぼろげに理解できて、肩をたれうつむいてぼんやりしていた。職場の仲間のなかから突然万歳の声が湧きあがった。職場で働いていた朝鮮人労働者のあげた叫び声だった。同胞であると信じていたのに、唖然として悔しさわきおこってきたという。

 丸山才一は歩兵砲大隊の兵隊として、青森の部隊で王音放送をきいた。
隊員の理解がまちまちで、ますます頑張れという説、まだどうなるか解からないという説、アメリカが日本人を蹂躙するという説など乱れとんだ。
才一はきれぎれのラジオの言葉から、日本が負けて日本軍がなくなったことを解説し、言葉が過ぎたため、下士官からさんざん殴られたという。

二人の対照的な作品の姿がこのころから滲んでいるような記録である。

2011年10月23日日曜日

人命と経済

 「経済」とは経世済民の短縮語で、民衆を救済するための論理である。
しかし利益追求のために、民衆に犠牲を払わせるような論理がよく出てくる。  
 人の命と「経済利益」を混同して起きた1970年代のフォード・ピント事件がある。
 フォードがはじめて小型車の分野に参入し、その第1号がピントという車で、それまで小型車なるものを設計経験がなく、後ろのトランクに置いたガソリンタンクの設計が悪く、追突されると火災を起こし、数人が焼死した。
 フォードの社内で緊急会議がもたれ、ピントをリコールして修理するか、このまま放置するかが議論された結果、リコールするとお金がかかり、このまま放置して数十人の死者がでて補償金を払ってもその方が安いということになり、放置することになったという。
 現実には次々と死者がでてフォードは社会的に非難されて、結局リコールしたということになったそうだ。

 寝たきりになった老人はある意味では人間社会の重荷になるかも知れない。そして医療費が増え、社会はその負担に耐えられなくなる危険性がある。
 だからといって寝たきりになったら終わりになってもらうことは人間にはでない。経済思想の言葉では、実証はcool headで、規範はwarm heartであれというそうだが、どのようにバランスよく判断するかの論理は明確ではなかった。
 医療の進歩と経済の矛盾をどう分析し、解釈するかが現代社会の大きな命題である。

コンピューター言語の歴史

アップル社のスチーブ・ジョブズの死は大きく報道されたが、10月中旬にはC言語やUNIXの開発者デニス・リッチーの死が小さくとりあげられている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111014-00001491-techcr-sci
ベル研究所での研究者だったし、70歳という年齢だから、ニュース性は少ないだろう。

この機会にコンピュータ開発初期の言語関係の人物を少ししらべてみた。
フォートランはIBM社で開発した言語だが、技術者向けの言語で、リーダーはジョン・バッカスという。
パスカル開発の基本はニコラス・ビルトによるが、パソコン用は米インプライス社のターボパスカルが有名である。

C言語(1972)の前にB言語があり、ケン・トンプソンが開発者であった。
ベイシック言語(1964)の開発者の一人ジョン・G・ケメニーは福岡にも来たことがあり、講演を聴いた記憶がある。(1992没)

当時の本を開いてみると、いいかげんなものもあり、東大の先生の監修なのに、フォートランやベイシックの開発者をビル・ゲイツと書いているのを見つけた。(正確にはビル・ゲイツが1980年前後にパソコンにベーシックを使って普及させた事との混同で、別のテキスト・資料でも同じミスを書いているのがあった。)

ビル・ゲイツ(本名はW.H.Gates)はまだ健在であるが、コンピュータ初期の研究開発者はもう皆晩年をむかえている。

主なプログラム言語の一覧表

 言語名   大型機用   開発者        パソコン用    開発者       特徴

FORTRAN    1954        IBM                    1      977      マイクロソフト社     技術用              
           (ジョン・バッカス)
COBOL       1959     米政府主導                       1979      マイクロソフト社     事務用        

BASIC        1964  ジョンGケメニー                     1975      マイクロソフト社     教育用         

Pascal        1971  ニコラス・ビルト            1978   ケン・ボールズ     教育用                   
                             米インプライス社
PL/ I         1966       IBM                                               1980     ディジタルリサーチ社

PL/ M      ------------------------------                       1973    ゲリー・ギルドール

B言語       1970   ケン・トンプソン          .-----------------
           AT&T
C言語     1972   デニス・リッチー        1980 レオ・ゾルマン       ツール作成
          AT&T
LOGO    1970    MIT          1983   …………                            CAI

LISP    1962 ジョン・マッカーシー    1979 ソフォトウエアハウス社  人工知能

Prolog    1970 アラン・コマーラ      1982              言語解析

FORTH   1968 チャールズ・ムーア     1975   FORTH社      制御用

Modula-2  1981 ニコラス・ビルト      1983  Modula・3      制御用

Ada     1980  米国防省                         総合形

2011年10月10日月曜日

戦国筑紫の女将たち(3)  松東院メンシア

平戸に昔の海外貿易遺跡の商館が復旧され、新たな観光拠点ができた。
この平戸領主松浦久信の夫人となった松東院メンシア(実名不詳)は、松浦氏と大村氏の貿易戦争の和睦のあかしのため、大村氏から嫁いできた。
大村純忠はキリシタン大名で、全領民を改宗させ、80以上の教会を建立したほど熱烈な信者であった。一方では南蛮貿易で財力を蓄えていた。
当時隣国龍造寺らが貿易独占をはかって長崎港などを要求されることを恐れて、長崎や茂木の地をイエズス会に寄進していた程である。
松浦氏との貿易争いも続いており、早岐、針尾、佐世保などを侵略されていた。
父大村純忠がその五女メンシアと松浦久信との婚約をしたのは、これ等の土地を化粧料として割譲する条件での和睦だったが、メンシアがまだ3歳のときだった。
松浦鎮信の方はこの結婚によって宣教師たちの信頼をえて、貿易を拡大しようと考えていた。
それから10年後、秀吉の九州征伐が始まる頃は、純忠は病床に伏せていたが、大村と松浦が共に秀吉の島津攻めに参加することを誓うため、かねてからの婚約を実施した。
ただし、すでにキリスト教に入信していたメンシアの信仰を守らせることを条件に、松浦鎮信の嫡男松浦久信の嫁となった。時に久信16歳、メンシア13歳であった。婚儀のときには父純忠はすでに帰らぬ人となっていた。

秀吉は九州平定のあと、キリシタン禁令を発したのは有名な歴史である。
結婚の条件にメンシアの信仰を許していた松浦家であったが、生活習慣の差からその信仰に反感をもっていた。
そこに秀吉の禁令がだされたので、さっそくメンシアに強く棄教をせまった。しかし
棄教よりは離縁をえらぶというメンシアの意志の強さにおされ、一族の一部にも理解者がいて、離縁は留められた。
やがて長男を出産し、義祖父と同じ名前の隆信(宗陽)と命名して、一家はしばらくは平穏に過ごしていた。
やがて朝鮮出兵がはじまり、鎮信と久信は小西行長の指揮下で出陣した。その頃
長男の重病があったり、次男信清の誕生があったりして、秀吉の死亡の翌年に義祖父も亡くなった。
朝鮮からの帰国後も義父鎮信は領内のキリシタン禁止を進めてたが、メンシアに対しては、長男の宗陽のこともあるので、強制しないまますごした。
関ヶ原の戦で西軍が敗れ、キリシタン大名の有力な味方だった小西行長が消えた。その2年後メンシア夫人の理解者だった夫久信が37歳で急死した。
平戸では藩主に義父が返り咲き、キリシタンの弾圧を強化していたが、やがて65歳で世をさり、メンシアの長男宗陽がやっと藩主となることができた。
しかし江戸幕府のキリシタン前面禁止時代となり、全国的に多くの殉教者がでた。松浦藩では洗礼を受けなかった次男の信清が表面にたって、キリシタン弾圧の役目をはたし、生月島などで多くの殉教者の血がながされた。
メンシアの実兄の大村喜前も信仰と棄教の狭間に悩みながら死んでいった。
このような世の中で、メンシアの信仰は密に継続されていたようで、「平戸の藩主とその母がイエズス会パピストであり、その兄弟姉妹もキリシタンである」ということが、英国商館長の日記に記録されているようだ。
遂に66歳のときにメンシアは江戸幕府から呼び出され、松浦家の江戸菩提寺の孝徳寺に隠居するように命じられる。ここには次男信清がすでに葬られており、その7年後には長男の宗陽も葬られることになる。
宗陽の死後、松浦藩を追い出された浪人が、前藩主の母がキリスト教徒だと評定所に訴えた事件があったが、幕府は取り上げなかったという。
このような計らいを幕府が行った裏には、生前の宗陽が、毎年商館長に指示して莫大な贈り物を将軍や幕閣に届けさせていたからであろうと言われている。
メンシアは信仰を守りつづけながら、また子供たちをともらいながら、85歳まで存命であった。まさにキリシタン禁令の時代に強い信仰の一生であった。

2011年10月2日日曜日

IFの歴史

前に「関ヶ原でもし西軍が勝っていたら」というブログを書いた。
昨夜は同じようなIFの歴史番組のテレビが放映された。
1)本能寺の変がなくて信長がいきていたら。
 国内制覇をして海外進出を成功させて、アジヤ広域に勢力をのばしていたかも。 
2)関ヶ原で西軍が勝っていたら。
 伊達政宗がスペインと組んで全国制覇をしていたかも。
3)坂本龍馬がピストルを使って逃亡に成功していたら。
 大きな商社をつくり、西郷隆盛を説得して西南戦争は起こらなかったかも。

伊達政宗の活躍予想は私のブログと大きくちがっていた。