2012年6月27日水曜日

長宗我部元親

長曾我部とも書くようだ。最近は漫画の主人公で人気があるそうだ。
土佐の武将で四国統一をしたが、秀吉にやぶれて土佐一国におさまり、息子の代では大阪側について滅び、山内一豊の入国で家臣は下級武士として押さえ込まれた。
曾我部、香曾我部などの家臣がいたようで、その統率者だから長がついたという。
その末裔の曾我部(会社会長)さんが刃物でさされたというニュースが昨日からながれている。
以前一緒にゴルフをしたことがある方だが、大事に至らなければと、心配している。

忘れられる権利

昨夜のNHKで「忘れられる権利」という番組があった。ネットに不利な情報をのせられ、いつまでも削除されない人の権利をあつかったものだった。
古賀の青柳宿でも、京都の或るお偉方が宿泊したが、博多で女遊びをしたツケの請求書が廻ってきて、古文書として残っている。
宝暦年間の歴史上のエピソードだが、本人は忘れてもらいたいだろう。

2012年6月25日月曜日

斉藤氏

古賀の筵内を領有していた斉藤甚右衛門は、黒田長政の家臣として筑前国いりをした。
斉藤家はもとは武田源氏の家臣だったが、信玄が死亡したあと武田家をはなれて保科家につかえ、さらに黒田家に移ったという。
甚右衛門は関ヶ原の戦のおり、大阪に人質として捕らえられていた長政夫人を後藤又兵衛と共同で苦労して救い出したのが大きな功績とされている。
関ヶ原以降は長政夫人付きの家老職をつとめたようだ。
筵内の医王寺に一族の墓があり、幕末まで黒田に仕えていたようだ。
医王寺


しかし薦野氏や米多比氏のように戦国時代から地元にいた武士ではないので、知名度が低いのはしかたがないだろう。

西郷庄の河津一族

立花城の立花道雪に強いうらみを持ち、奇襲攻撃などを仕掛けて争った福間の西郷庄の河津一族。
その祖先を調べてみたら、伊豆の伊東あたりの豪族らしい。
 その代表は伊東祐親で、源頼朝が最初にその娘に近寄ったことで知られている。
出来た子供を殺し、娘を別の豪族に嫁がせたので、頼朝が政子に鞍替えして兵を挙げて勝利したのちは自決に追い込まれた。 


 その一族の人物を頼朝は採用して、九州に派遣したという。
道雪も頼朝が派遣した大友の家臣だから、家臣同士のあらそいで、もう頼朝の統制の効かない時代になっていた。

2012年6月24日日曜日

山川健次郎

今朝の放送大学の歴史と人で、山川健次郎がとりあげられた。
会津若松の白虎隊の生き残りで、アメリカ留学後東大総長などをつとめた人物だ。



九州でも、九帝大や九工大(旧明治専門学校)の創設に貢献された人物として有名だ。







わたしも会津では白虎隊の記念館の写真や銅像をみたり、大学で胸像をよく見ていたが、若い頃の写真や兄の山川浩、妹の捨松の写真などは始めてみた。

福島と福岡の絆を深めた点では最大の貢献者であろう。

2012年6月19日火曜日

小野村と小野和泉守

古賀市にはかって小野村が存在した。
明治22年に席内村・青柳村・小野村の3村時代になり、昭和14年に席内村が古賀町となり、昭和30年に3者が合併して大型の古賀町となり、平成9年に古賀市となった。
筵内や青柳の地名は残っているが、小野の地名は消えて小野公園や小野小学校の名前しか残っていない。
明治22年以前には小野という地名はなかった。小野村という名前はどこからつけられたか謎だ。 
小山田の小と、薦野の野をとったという説があるが、小野村の村誌には何も記載されていない。
立花道雪の家臣の小野和泉守(鎮幸)がこのあたりに居住していたから小野村といわれていたという説を私はとりたい。

小野和泉守は大友家の家臣で、立花道雪と共に立花城に赴任して、宗像軍との小金原の戦で活躍したり、島津軍側の星野吉実、吉兼兄弟の追撃戦で活躍した武将であった。
立花家が柳川に移封になったとき、和泉守は加藤清正に抱えられ、彼の子供が柳川藩の家臣として移動した。
立花宗茂が失脚して放浪中は、小野和泉守が資金援助をつづけたという。
小野和泉守の子孫で有名なのがオノヨウコである。

彼女はジョンレノンをつれて柳川にきたという。お花亭の付近に小野邸跡がある。
古賀の小野公園や小野小学校も、オノヨウコがきてくれれば、話題になるのだが。

旦の原と団氏


古賀サービスエリアの近くに旦の原という地名があり、ダンノハルという。旧唐津街道が通っているから、太閤水とよばれる井戸もあり、交通の要衝だった証拠である。

旦の字は日の出をあらわし、タンと読むのが普通である。
しかし旦那はダンナだから濁音もある。旦と団は意味が違うが、音は同じだ。

この地の出身豪族に団氏がいて、かってこの地の満本城の城主であった。
薦野氏との戦いに敗れて、その後は薦野氏にしたがって立花や黒田の家臣となった。


 11代目の団尚静は幕末のころ黒田の勘定奉行までなったが、維新のころは江戸勤務であったため、黒田偽札事件には関係せずにすみ、同僚が多く罪にとわれるなかで、福岡藩から福岡県の官僚として生き残った。
筑前竹槍一揆が起こると、その事件処理に功績をあげて、県権大参事になった。
この一揆でたまたま犠牲となった3人の官吏の慰霊碑が、その場所の松崎にあり、碑の建立につくした人物名に団や藤野の名前がある。

 その子の団琢磨は藩の海外派遣員としてアメリカに渡り、鉱山学などを学び帰国した。東大の教壇にたったのち工務省の役人となり大牟田の三池鉱山の開発を担当した。鉱山の民営化で三井物産が入札したとき三井物産に天下りし、最後は三井財閥のトップとなるが、テロにあい生涯を閉じる。
団琢磨
 その子の伊能も実業家として活躍し、さらにその長男の団伊久磨は作曲家として有名人となった。
 伊久磨は団氏のルーツ探しに、古賀まで足を運んで来られたことが2回あるそうだ。その時に話しでは、ダンという地名を探して、タイやベトナムまで行かれ、団家のルーツは東アジアらしいと話されていたそうだ。古賀にはどんな感想をもって帰られただろうか。
 当時渓雲寺でとられた写真が残っている。
今は九州高速道路の古賀パーキンエリアが出来て、九州北部では人気のある場所になっている。
また小説家の檀一雄のダンとの関係も気になるところだ。

2012年6月18日月曜日

原田氏

昨日の大河ドラマ平清盛に、大宰大弐の原田氏が登場した。
郷土史でちょうど原田氏を調らべていたので、興味深くみた。
原田氏は、8世紀の藤原純友の乱のとき、征圧にきた大蔵氏が九州に住み着いて大宰府の管理者となり、その後九州糸島地方の豪族として残ったグループが平家や源氏の時代を生き延び、足利尊氏多々良の浜にも協力し、大友大内の戦国時代にも生き残り、秀吉の九州統一でやっと幕を閉じた。
原田くずれの人材は福岡県に多い。

2012年6月17日日曜日

黒田25騎の一人「菅六之助正利」と古賀

黒田25騎は播磨あたりの出身者が多く、筑前いりしても、糟屋や古賀との縁者は少ない。


一人だけ糟屋との関係記録のある人物をみつけた。
「菅(カン)六之助正利」である。
筑前いりして3000石となり、伊都郡や糟屋郡の郡奉行となる。
糟屋郡では、古賀の「新原村」の新田開発をしたという記録がある。
播磨国揖保郡のうまれで、如水のもとで若い頃から働き、初陣は17歳の時の賎ヶ岳の戦で、二人を倒して如水からほめられた。
岸和田の陣で根来雑賀衆と戦い戦功を上げた。
九州役でも築井城攻めで敗退のとき、長政を守って活躍した。
中津入りしたときは200石であった。
朝鮮の役では虎退治の武勇伝が有名である。
関ヶ原の役では小早川秀秋との連絡役をつとめ、本戦では鉄砲隊を率いて、石田側の重臣島左近を打ち負傷させた。
晩年は和泉守を名乗り、茶の湯を楽しみ、黒田長政の没後は出家したという。
古賀の新原には何も古文書や遺跡らしいものが残っていないのは残念である。
もと民主党の菅首相はこの一族の別れの末裔ということらしい。
http://harima-kurodabushi.com/?page_id=68

2012年6月15日金曜日

黒田藩の重臣と六端城



昨日は福岡市博物館の高山氏から、筑前に入国した黒田藩の防備と重臣たちの築城の話をきいた。


関ヶ原合戦後に筑前国福岡に入封した黒田長政は、国境を守る為に 六つの出城を七年かけてつくり、重臣を派遣した。 
六端城はすべて本城である福岡城より東側に設けられ、麻底良城を除いてはすべて豊前国との国境に構えられている。豊前を仮想敵国と考えた配置である。



1) 若松城:黒田二十四騎の一人三宅若狭守家義が三千六百石と代官領一万石で城主となり船手頭を務める。
 (洞海湾入口にあった島城のため、明治14年に削平され、昭和15年に爆破された。今の若戸大橋の下あたりにあった中ノ島。)
若松城模型
2)黒崎城: 黒田二十四騎の一人井上周防守之房が二万石を領して城主となる。街に近いので、今では夏に一夜城がつくられる。
黒崎城跡


3)益富城(大隅城): 黒田二十四騎の一人後藤又兵衛基次が一万六千石を領して城主となるも、その後出奔した。
(あと鷹取山城主であった母里多兵衛友信が移り益富城主となった。)

益富城跡
4)鷹取山城(直方) :黒田二十四騎の一人母里多兵衛友信が一万八千石を領して城主となる。
(益富城主後藤又兵衛基次が出奔した後は母里多兵衛友信は益富城主となり、代わって手塚孫大夫光重が鷹取山城主となる。)

5)麻底良城(朝倉): 黒田二十四騎の一人栗山備後守利安が一万五千石を領して城主となる。
麻底良城跡
6)松尾城(小石原城) :中間六郎右衛門統胤が二千五百石を領して城主となる。
松尾城跡




一国一城令がでたあとは、すべて廃城となり、荒れ果てていたが、最近草叢の中から発掘された石垣なども多い。

帰宅後に自宅の本で調べたら例外の人物がいた。
 古賀に近い津屋崎に、黒田二十四騎の一人黒田修理亮利則(養心:如水の義弟)が一万二千石で配置された。陣屋屋敷で港の管理をまかされ、如水もよく津屋崎を訪れたという。

晩年養心が体調をこわしたとき、家臣が病床の修理を元気付けようと、津屋崎の庄屋の娘お嘉代を殿の側にあげようとした。
お嘉代は恋仲だった廻船戸問屋の息子仙吉との別れをはかなみ、二人は津屋崎の海岸に身をなげた。 恋の浦の伝説をつくったのは黒田の重臣であった。
黒田養心屋敷跡
黒田養心屋敷跡説明板

2012年6月11日月曜日

西方浄土@九州: 玄界義塾

西方浄土@九州: 玄界義塾: 昨夕は玄界義塾で江戸時代の名所図会の講演をした。 50名くらいの聴講者にわたしがCGで着色した風景図を見て もらいながら、その歴史的背景の話を1時間あまり行った。

2012年6月1日金曜日

天神森古墳

福岡ICの近くにあった天神森古墳は、三角縁神獣鏡が出土した有名な古墳であった。これは京都府の椿井大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡と同じ鋳型で造られたもので、近畿の中央政権との関係がある人物の古墳と推定されるものだ。
奥村玉蘭の筑前名所図会にも江戸時代の風景が描かれている。

現在はICが出来たため周辺に蒲田住宅団地や物流倉庫などが出来ていて、古墳のことは忘れられている。
今週は倉庫に猪が迷いこんで捕らえられたとか、倉庫の一つが火災を発生したとか、ニュースになる事件が続発しているようだ。
古墳の霊に祀りを捧げなくてはなるまい。


裂田の溝

今日NHK福岡の番組で、那珂川町の裂田の溝(サクタのウナデ)の紹介があった。日本書紀にも記載されている古代からある用水路である。
若い頃一度訪れたことがある場所だが、非常に鄙びた場所であった。
きょうの画像をみると最近は遊歩道が整備されていて、訪れる人も多く歴史ガイドさんもおられるようだ。
筑前名所絵図 裂田溝
奥村玉蘭の筑前名所絵図にも描かれている風景だが、江戸時代の彼がいまの風景をみると驚くであろう。
現在の風景

玄海義塾での発表