2012年10月26日金曜日

門司城の攻防戦(10月26日)

 永禄4年(1561)毛利元就と大友宗麟が門司城で激戦を展開。10月26日大友軍は退却を決定しました。
 
 門司城(北九州市門司区)は早鞆の瀬戸を望んでそびえる古城山(標高175m)の山頂にあり、防長二国を固めて九州進出を目論む安芸の毛利氏と、豊前~筑前を支配下に置こうとする大友氏の間で、天文23年(1554)の戦いを皮切りに幾度となく争奪戦が繰り広げられていました。
当初門司城は大友氏の属城で奴留湯主水正(ぬるゆ・もんどのしょう)が城代を務めていましたが、毛利元就は吉川元春と小早川隆景を派遣して攻撃させ、城を落としています。

 さて、この年(永禄4年)の6月に大友宗麟は三万の兵を率いて北上し、門司城を攻撃しました。
しかし急峻な坂道のため攻め上る大友勢は苦戦、そこで宗麟は一計を案じ、当時滞在していたポルトガル船の船長に海上から大砲で支援攻撃をするよう命じました。
 こうして8月、陸からは吉弘加兵衛尉らの一万五千で、海からはポルトガル船の砲撃で一斉に攻撃をかけました。
 城内は前代未聞の攻撃に大混乱となりますが、元就もすぐさま嫡子隆元と小早川隆景に一万数千の兵を付けて救援に向かわせる一方、北九州の土豪たちに再度蜂起するよう画策しました。

 この戦いにおいて宗麟に不運だったのは、ポルトガル船に十分な弾薬が用意されていなかったため海上からの砲撃は尻切れ状態となり、加えて9月からは能島村上氏が毛利氏に加勢したため、大友氏は押され気味になりました。ちなみに村上水軍は翌年正月まで門司周辺の海域を押さえ、海陸の戦いとも抜群の軍功を挙げたと伝えられています。

 10月2日、総攻撃を決意した宗麟は城の麓に進出、10日に城攻めを開始すると同時に各所で毛利勢と戦いが起こりました。激戦となりますが結局宗麟は城を落とせず、この日に行われた戦いでは毛利氏が勝利しました。

 宗麟は結局10月26日に門司城の攻略を断念、11月5日に撤兵しています。
信州では上杉と武田が川中島で激突した年でした。

2012年10月19日金曜日

転落事故

染五郎さんが大転落事故のあと、やっと記者会見できるまでに回復された。右側の頭、肩肋骨などの負傷で、まだ11月の舞台復帰は延期され、来春からになるらしい。
先週類似の小連絡事故をおこし病院通いをしている私としては、この記者会見に共感をおぼえた。多少の痛みをこらえても来週のゴルフにでたいという思いをこらえて、ドクター指示に従い月末の脳の再CT検査まで安静にすごすことにした。

著名人になる文学者

泉鏡花は9人兄弟姉妹で、その中には当時は有名な探検家や音楽家がいた。しかし現在では鏡花の名前だけが広く知られている。
童話のグリム兄弟も9人くらいの兄弟がいて、画家などもいたそうだが、やはり文学分野の兄弟だけが世界的に名を残している。
わたしの旧制高校の同窓会誌でも、作家の壇一雄が有名人のトップである。 文学の世界が多くの人の心に一番近いのであろう。

2012年10月10日水曜日

近代産業遺産

福岡県には、かって九州の主要産業だった炭鉱跡を近代産業遺産としようとする動きがある。筑豊地区、三池地区を含めて調査されているが、現在残されている遺跡も次第に減少しているようだ。
佐渡金山は1601年から平成元年まで400年間も操業され、現在近代産業遺産として登録され、整備されている。
その紹介番組をみたが、江戸時代から、明治、大正、昭和の時代の歴史的変遷が良くうかがえる。手掘り時代の木製構造物、それをコンクリートでカバーした時代、さらに鉄骨に変化した建造物。
明治時代の輸入電機品、大正時代の国産電機品(奥村電機などの懐かしい名前も)なども残っている。

江戸時代の奉行所も復元されているが、福岡ではこれほと幅広い史跡の保存は無理であろう。

2012年10月8日月曜日

島国の歴史

日本の古代史は文字情報がなく詳しいことが不明だ。
ハワイの歴史も14世紀くらいまで文字情報がなく、口伝えの歴史だという。
10~30万人代の人間社会では、文字がなくても社会生活できたという証拠だろう。
大航海時代となり、外部からの船の往来がはじまり交易をはじめると、多くの渡来人が住み着くようになる。すると外来病により先住民の数は1/7に激減してしまったという。その間に経済的基盤が外来人により抑えられてしまい、その結果ハワイ独立王国はクーデターにより消滅した。
沖縄の歴史もハワイと良くにており、日本の古代でも同じようなプロセスがあって原住民が減少し、天孫降臨の伝説のような渡来人国家が成立したのだろう。

2012年10月1日月曜日

毛利の厳島の決戦と浦宗勝の活躍

今日10月1日は安芸厳島にて毛利元就が奇襲で陶晴賢を破り、晴賢が島内大江浦で自害した日。

当時、元就は兵力面で晴賢に大きく劣っており、単独で戦うには無謀の状態。そこで元就は晴賢を何とか厳島におびきだして戦おうと考え偽の情報をながし、さらに厳島で決戦するにしても水軍力が不十分だった。
元就は毛利水軍を率いる三男・小早川隆景に属す浦(乃美)宗勝を使者とし、村上水軍の将・村上(能島)武吉のもとに派遣して加担を要請、武吉を味方に付けることに成功した。
宗勝寺
この浦宗勝は小早川隆景が立花城から名島城に移ったあとの立花城城代となり、今その山麓(原上)の宗勝寺に眠っている。