2013年3月28日木曜日

やませ(山背)

やませ(山背風)とは、春から秋に、オーツク海気団より吹く冷たく湿った北東風または東風(こち)のこと。特に梅雨明け後に吹く冷気を言うことが多い。
 やませは、東北地方の太平洋側に吹き付け、海上と沿岸付近、海に面した平野に濃霧を発生させる。やませが長く吹くと冷害の原因となる。天明の大飢饉のときもやませが吹きつづけたという。白河藩では松平定信が天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。これがのちに老中昇進の道となった。
道真は、東風吹かば思い起こせよ梅の花、主なしとて春なわすれそ
とよんだが、春を忘れさせる風である。
古代の山背王子の悲劇を連想させる名前でもある。

2013年3月27日水曜日

領土問題

日本政府は「尖閣諸島の領土問題はありえない」と、いつも同じことをいっているだけで、論理の展開をする知恵が無い。
シンガポール在住の義弟の話では、現地でメディア放送を見ていると、中国側の放送は流暢な英語を話すアナウンサーが、東南アジアの歴史から説き起こし、尖閣諸島は中国の領土であることを毎日のように主張しているという。
これに対して日本側の放送は、NHKの英語の下手なアナウンサーが原稿を棒読みするかたちで、領土問題はありえないとばかり繰り返しているそうだ。
シンガポールや東南アジアの庶民たちは、当然中国の主張にひかれているようだという。
日本外交の拙さは戦前からいわれてきたが、現在でも同じレベルで行われているようだ。
白髪三千丈の国と対抗する手法をもっと考える必要がある。

龍造寺隆信の首

島津義久・義弘らが龍造寺隆信の首実検後これを佐嘉に送り届けるが、その子龍造寺政家達が首の受け取りを拒否した日が天正十二年(1584)三月二十七日。
 天正十二年三月二十四日、肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信は、沖田畷の合戦で有馬・島津連合軍に敗れて討死しました。
 その直後のこと、隆信の子・政家の使者として大熊安芸守、守葉次郎右衛門が八代の陣中にいる島津家久を訪ね、隆信の首に拝謁したい旨を申し出ました。家久がこれを許すと次郎右衛門は隆信の首に向かって恭しく拝礼した後、憤然と語りかけます。
 「さてさて、不甲斐なき有様かな。鍋島殿の諫めを聞かずこのようになり果てたること、今更悔やんでも仕方がありません。この上は鍋島殿をはじめ政家公の御供をして薩摩に攻め入り、潔く弔い合戦を致す所存であります。薩摩の者共は老若男女を問わず撫で切りにして首をはね、黄泉の鬱憤をお晴らしいたしましょう」
 この後二十七日、島津家から河上助七郎という者が龍造寺家への使者として隆信の首を持参、筑後榎津というところまで船で来てその旨を龍造寺家へ連絡しました。すると鍋島直茂は「これは我が国の国情の強弱を偵察しに来たに違いない」と察し、大隈安芸守にこう言わせました。
 「隆信の首を送っていただいたお気持ちは非常に有り難く存じますが、このような不運の首を此方が貰い受けても仕方がないので、どこへでも捨て置き下され」
 策は鍋島直茂から出ているものの、これは龍造寺家が公式に首の受け取りを拒否したことになります。助七郎はそう言われてはどうしようもなく、首を持ち帰って高瀬の願行寺というところに葬ったのち帰国しました。
 沖田畷の合戦では龍造寺家の主立った者が悉く戦死しており、正に御家滅亡の危機にさらされていました。
 しかし鍋島直茂がこのような強気の態度で出たことにより、島津軍が佐嘉に攻め込むことはなかったと伝えられています。そして龍造寺家もやがて鍋島家に政権を移すことになります。

2013年3月25日月曜日

宇都宮氏の家宝公開

鎌倉時代から戦国時代にかけて豊前地域を治めた豪族、宇都宮氏の菩提(ぼだい)寺、天徳寺(築上町本庄)の本堂で30、31の両日、同氏ゆかりの寺宝の一般公開が行われる。
 豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛に娘や一族と共に謀殺された最後の当主、宇都宮鎮房(しげふさ)の兜(下の写真)や肖像画、同氏の祖、藤原宗円(そうえん)が後冷泉天皇から与えられたというカエルの形をした香炉(町指定文化財)、鎮房が奉納したという十六羅漢図など計11点が展示される。
 肖像画は、愛知県に住む同氏の子孫が昨年12月に寄贈し、制作年代は不明。香炉は大人の手のひらに載る大きさで、菊の御紋入りの木箱に納められている。
 寺宝の一般公開は昨年に続き2度目で、両日は、近くの大しだれ桜の周りで祭りも開かれる。
 住職の溝口浩久さん(65)は「来年は官兵衛が主人公のNHK大河ドラマも放映される。宇都宮氏への関心が高まれば」と話している。
 開場は午前10時~午後4時。無料。問い合わせは同寺(0930・54・0258)へ。


2013年3月20日水曜日

阿弥陀仏

阿弥陀さまの仏像(阿弥陀如来像)が多くのお寺の本尊として祭られている。浄土宗では本尊としている。
お釈迦さまの弟子の一人と思っている人が多いし、私もかってはそう思っていた。
阿弥陀如来像
しかし南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ、南無阿弥陀佛南無阿彌陀佛)の、「南無」はnamo(sanskrit)の音写語で「わたくしは帰依します」と意味しており、また「阿弥陀仏」は、そのサンスクリット語の「無量の寿命の大仏(amitaayus)」「無量の光明の仏(amitaabha)」の「はかることのできない」という部分のamita(sanskrit)を略出したものである。
「無量の寿命の大仏に帰依します」というお祈りの言葉である。阿弥陀如来像は、無量寿如来像像ともよばれる。
一遍上人は最初に
「唱えれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏の声ばかりして」
と教えたが、更に信仰を深めて
「唱えれば仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
と教えた。念仏の声が聞こえるあいだは、まだ我が消えていないから、無心に念仏をとなえるところまでになれ、ということだ。
仏像としては、釈迦如来と同じレベルの阿弥陀如来として位置付けられている

黒田如水の命日:3月20日(改訂)


黒田如水

慶長九年(1604)三月二十日、黒田官兵衛孝高(如水)が山城伏見で没す。(没地は筑前博多という説もある)
享年59歳。
 
卓越した軍略で竹中半兵衛重治とともに秀吉を助け、後に豊前中津城(大分県中津市)主となる。大河ドラマの主人公にもなった。
黒田官兵衛は、天文十五年十一月二十九日、播州御着城(兵庫県姫路市:当時は福岡村)の城主小寺政職の家老・黒田職隆の嫡子として姫路に生まれた。
父職隆は滋賀県の黒田村の出身で黒田姓でしたが、敗戦で播磨の福岡村にのがれて、小寺氏に仕えて家老まで昇進した。
官兵衛も小寺氏に仕えて、いち早く毛利から織田信長につくように進言し、その後は秀吉の軍師となった。
 豊前中津から筑前に移封になったとき、城の名前を福岡城としたのは、故郷の地名をえらんだものだ。

令和5年3月20日に、旧筑前黒田藩歴代藩主の功績を顕彰するための団体「藤香会」による黒田官兵衛公の420回忌が黒田家の菩提寺の崇福寺で行われた。東京から黒田長高氏を招いての会であった

1600年に藩主長政公が名島城に入り、その後福岡城を築き、官兵衛公の屋敷も城内にあって、59歳で亡くなった。
解体された名島城の城門も崇福寺に鎮座している。
崇福寺
  • 山門
    県指定有形文化財。かつて福岡城の本丸表御門であったものを、1918年大正7年)に陸軍により払い下げられ、崇福寺境内に移築された。二層造で本瓦葺の切妻造

黒田家の墓(崇福寺)黒田家歴代墓所
黒田孝高(如水)や正室の櫛橋光(照福院)、長政、弟の黒田熊之助をはじめ、4代藩主・綱政、6代藩主・継高、7代藩主・治之、9代藩主・斉隆、10代藩主・斉清の墓碑がある。藤水門で仕切られた一郭が黒田家の墓所となっている。


右奥が名島門
  • 唐門
    県指定有形文化財。名島城遺構を移築したもの。



2013年3月18日月曜日

箱崎と広田弘毅の縁

箱崎の一光寺にあるわが家の祖先の墓石を制作したのは、広田弘毅の弟の広田徳右エ門であり、その名前が刻まれている。

弘毅の父徳平は箱崎の生まれで藤野姓であったが、広田石材店の徒弟として働くうちに見込まれてその養子となり石材屋となった。

箱崎の生家の藤野家は、わが家と同じ一光寺の檀家であるから、明治時代には一光寺の墓石の制作をてがけていたようだ。弘毅は東大卒業後外交官となり、石工店は弟の徳右ェ門がついだ。

弘毅の伝記をよむと、50歳くらいまでは外務省の主流派は幣原、吉田などのグループで、広田は主流からはずれた道を歩んでいた。

奥さんは東京での下宿先の娘さんだったと聞いていたが、よく調べると福岡の玄洋社の世話で東大に進学しており、玄洋社の幹部の月成功太郎
の次女静子さんが、東京の玄洋社育英会館(浩浩居)の世話をするために上京していたそうだ。
二人は福岡時代からの顔見知りで、玄洋社がとりもつ縁談だったようだ。別に三菱財閥の令嬢との縁談もあったようだが、あっさり断っていたようだ。

月成功太郎は来島恒喜と大隈外相を襲撃計画をたてていたが、単騎襲撃に及んだので、心中穏やかならぬものがあった。警察は関係者の一斉捕縛に踏み切った。このとき、福岡では平岡浩太郎、進藤喜平太をはじめ、的野半介、岡喬、林斧助らの玄洋社社員とともに、杉山茂丸も拘引された。頭山満は大阪で拘引され、東京では月成功太郎、月成勲、月成光、浦上正孝らが捕縛された。

 月成功太郎らは、獄に繋がれること半年に及んだが、遂に警察は来島以外の連累者を見出すことができず、拘引された容疑者はすべて放免された。

弘毅は長男で苦学タイプのまじめ人間であり、外務省同期の吉田茂は四男で吉田家に養子にだされた腕白息子で、牧野伸顕の娘と結婚しているから、性格的には全く異なるタイプである。

日米関係の悪化によって政治的立場が逆転して、吉田より先に広田が外務大臣、首相となったが、結果的には悲劇のA級戦犯となったのは、残念なことである。




広田弘毅の書。政治の世界は「誠」だけでは通じなかった。
所謂「東京裁判」の被告として広田弘毅が起訴されるに至り、妻の静子は昭和二十一年五月十八日払暁、服毒自殺を遂げた。











2013年3月17日日曜日

戸次道雪の誕生日

永正10年(1513年3月17日:大友家の勇将・戸次道雪が生まれる。

父は戸次親家。 戸次家は源平時代の豊国の緒方家の末裔といわれる。
 大友家の勇将として軍政両面で宗麟を支えた戸次道雪は、この日戸次常陸介親家の嫡子として豊後鎧岳城(大分市/豊後大野市)麓の藤北館で誕生しました。幼名八幡丸、のち孫次郎と称しますが、母の正法院(由布氏)は八幡丸誕生の翌年に亡くなっています。
 孫次郎は十四歳の時に元服、当時の大友家当主・義鑑の一字を拝領して戸次鑑連(べっきあきつら)と名乗りました。
ちなみに鑑連は、元亀二年(1571)・五十八歳で出家し、名前も道雪と号し、筑前立花城(福岡県新宮町)主となってからは立花道雪の名で広く知られるようになりましたが、本人は立花姓をきらいました。

道雪とは、路傍に降り積もった雪が露となって消え去るまでの間を、潔白な武士の節操に例えて名付けたものと伝えられます。
彼はその名に恥じず、七十三歳で筑後北野の陣中で病没するまで、大友家の柱石として活躍しています。

2013年3月12日火曜日

古賀市の広報誌と市政と市長

古賀市の広報誌の委員をしていた時、郷土史の記事が殆どないので、掲載するようように意見をだしたことがある。その後吉住市会議員からも同じ意見が出されているが、まだ実現していない。
福岡市の広報誌をよみだして感心したことは、郷土史の記事が毎月掲載される。とくに東区のスペースにはボランティアの方が交代で記事を書いているし、J-COMのテレビでも放送されてる。
各種の行事予定表でも、春の花見シーズンとなって、郷土史案内が各地区で計画されれており、その案内先をみるだけでも結構知らない史跡を発見できる。
両市の歴史と文化の遺跡の大きな差を感じさせられる。
早速4月上旬の名島城周辺めぐりの会に参加を申し込んだ。
市長の歴史:

2013年3月7日木曜日

宗勝の肖像画(更新)

浦宗勝
今朝の新聞によると、唐の原にある宗勝寺所蔵の肖像画などが、福岡市の文化財に指定されたという。宗勝寺には何回か行ったことがあるが、所蔵品まで拝観したことはなかった。
乃美宗勝(浦宗勝ともいう)は小早川隆景の重臣で、隆景とともに筑前に赴任し立花城にはいったが、名島城に移ったあとの立花城代として活躍した。当時の名島城の地図に宗勝屋敷が記載されている。
この地でなくなり、宗勝寺に葬られてた。
かってそのご子孫(香椎駅東に在住のかた)の講演を聴いたことがある。
また最近黒田官兵衛の本をよんで、黒田がまだ播磨時代に織田信長方についた当初、小早川軍が浦宗勝をリーダーとして播磨攻撃をしかけた。黒田は機先を制して宗勝水軍の上陸を防ぎ撃退したことを知った。
西国戦乱時代の有名な毛利側の軍師だったようだ。

2013年3月3日日曜日

切腹の指令

秀吉は晩年よく親しい仲間に切腹指令をだした。
有名なのは利休の切腹で、秀吉は後悔していたという。

如水も朝鮮出兵から無断で帰国したため厳重処分の謹慎を命じられ、切腹の指令を覚悟していた。息子長政の助命嘆願で、ようやく切腹をまぬかれ剃髪して隠居した。

2013年3月2日土曜日

言葉の力

漢字は文字だけで一つの単語で意味をもち、力をもっている。
言葉はその組み合わせで、意志を伝えて力となる。
孔子の論語では、文字や単語の意味を主に解明して人生の生き方をといている。
猪瀬の「言葉の力」では、言語の組み合わせかたや、論理の展開の仕方を重視して、政治や経済の問題を説いている。
孔子は政治家には敬遠されたようだが、猪瀬は官僚に敬遠されているだろう。