2013年9月30日月曜日

立花城と名島城:豊臣秀吉と小早川隆景

織田信長の時代、毛利氏は尼子氏を滅ぼし、中国地方の全域を制覇して、120万石を領有をする大国であった。


秀吉が備中高松で毛利征伐の最中に本能寺の変がおこり、秀吉が和睦して中国大返しをしたとき、毛利三柱のなかで、秀吉追撃に反対したのは小早川隆景であった。


秀吉はこれを高く評価し、隆景に伊予を与え独立させようとしたが、毛利家の領地にゆずった。
その後秀吉の九州征伐では、小倉城を攻略し、朝鮮出兵でも大軍を退ける武功をあげ、秀吉の信頼を勝ち取った。



秀吉は九州出兵で島津氏を押さえ込み、九州を平定したあと、中国の毛利氏をすべて九州(筑紫・肥国)に移封しようと考えたという説があるが、結果的には毛利氏の勢力を分散するために、小早川隆景を筑前に移封した。  

しかし小早川は、筑前で大友/毛利時代に争奪戦が繰りかえされた立花城を当面の拠点にしたが、すぐに名島城の築城計画もたてていた。
その背景には、すでに秀吉の朝鮮出兵の計画があったからだという説が最近唱えられている。
名島城跡


名島城の建設は立花城の改修時とほぼ同じ時期に始まっており、織豊式の石垣による曲輪や虎口をもつ新鋭の城郭である。
さらに、瀬戸内の村上水軍を小早川配下につけたことも併せて考えると、秀吉は、来るべき朝鮮出兵に備えた兵站基地や水軍基地の構築が目的で、当初の九州での秀吉政権の柱としようと考えたようだ。
だからこの二つの城で、織豊時代の新しい築城技術を小早川軍に教え込んで、朝鮮での倭城作りの訓練をした。
立花城には2,3年しかいないのに、大改修をおこなった理由は、この訓練のためであった。

「今日は玄界義塾で、「名島城の縄張りから何がわかるのか」‐-朝鮮出兵を通じた小早川・毛利氏の近世大名への道程ーーというタイトルで、九大の木島先生の講演を聞いた。
従来の歴史書では、九州平定後に秀吉が小早川に筑前入国を命じたのは、毛利の戦力分散を考慮したとする説が多かった。
木島先生の話では、名島城の建設は立花城の改修時とほぼ同じ時期に始まっており、織豊式の石垣による曲輪や虎口をもつ新鋭の城郭である。
瀬戸内の水軍を小早川配下につけたことも併せて考えると、秀吉は、来るべき朝鮮出兵に備えた兵站基地や水軍基地の構築が目的だったようだ。
その裏付けとなる資料や古文書を多数しめされたし、レジメもいつものように多頁の立派なものであった。
秀吉は隆景を信頼していたので、自分の死後秀頼を守るための五大老に徳川、前田、宇喜多、毛利輝元とともに小早川隆景をいれた。



しかし隆景も秀吉のあとを追うようになくなった。
関ケ原の戦では、その養子の小早川秀秋が、東軍勝利の切っ掛けをつとめた。

徳川将軍家と黒田家

古賀市の清滝寺に、葵の家紋がついた位牌がある。
八代将軍吉宗は、奇跡的な幸運でえらばれた将軍職を、自分の血筋に継がせたいと思った。
そこで田安家や一橋家をつくり、今までの御三家のほかに、将軍継承の権利をつくった。
三男が一橋家を継ぎ、その四男(吉宗の孫の一人)が、黒田家に襲封して7代藩主黒田治之となった。
彼が持参した父の位牌であり、西公園の松源院にあったものが、院は廃止された時に、同じ天台宗の古賀の清滝寺に移されたものである。

2013年9月25日水曜日

蜂須賀小六ー2

黒田官兵衛と蜂須賀小六が、秀吉の軍師として活躍した。官兵衛のほうが有名だが、小六のほうが先輩せあった。 長政の妻には小六の娘がえらばれたから、二人は姻戚関係となった。 しかし関ヶ原のあと、長政に52万石の筑前領を与える条件として、家康は保科の娘を養女として長政に押し付けてきたので、小六の娘は離縁されてしまった。 官兵衛と小六の縁も薄れていっただろう。

2013年9月20日金曜日

蜂須賀小六(ころく)

秀吉との出会いは橋の上。年上なのに出世がおくれ、秀吉の部下となる。信長の側室吉乃の縁者で秀吉とむすびついた。 秀吉が琵琶湖のほとりに、初めての長浜城主となったときは、秀吉の弟秀長が8000石、蜂須賀が3000石で、実質最高の家臣となる。 しかしその後は黒田などの軍師のかげにかくれて名前が出ない存在となる。 不思議な人材である。

2013年9月17日火曜日

志賀島

こみねという割烹旅館で昼食会をした。もう50年以上も営業しているという。 金印ご膳というのが1500円で、ちょうど手ごろな昼食だった。 中学同級の上野君がやっていた松屋旅館は、彼が平成5年ごろなくなって、子供たちが経営をやめたという。 志賀島は市街化調整区域になっていて、新しい観光産業がなかなか興りにくいそうだ。

金星

松鳳山が横綱日馬富士を破った。うれし泣きの涙を流しながらの退場だった。

2013年9月14日土曜日

イプシロン

今日は無事にイプシロンの発射が成功し、衛星が軌道にのった。 イプシロンの文字のかたちが、迷走を生んだのか?

萩原重秀

貨幣の価値は金貨の質できまるか? 新井白石と萩原重秀の論争で、新井が勝利したため、幕末の開国の際に日本は大きな損失をした。 新井白石の評価を変えなければいけない。

2013年9月10日火曜日

松山のゴルフ

フジサンケイのゴルフで松山が優勝したが、きわどい綱渡りだった。 2打リードで17番のショートホールで池にいれ、プレイオフとなった。 そのため放送時間がきれてしまい、バンカーからのピンそばによせたプレイは 夜の部の放送でやっとみることができた。

オリンピック

東京でまたオリンピックが開催されることになった。 総和39年の時の特集記事を保存していたが、どこにいったか行方不明だ。 第五郎さんが組織委員長のときのものだから、廃棄したはずはないのだが?

2013年9月3日火曜日

YOUTUBEにゼロ戦の話

堀越の本をよんでいたら、たまたまYOUTUBEにゼロ戦の話が5部もあるのを知り、全部みてみた。 機体、エンジン、操縦性、銃撃性、整備性など各種の議論が出ている。 当時の技術者と操縦者の苦心がよく理解できた。

2013年9月2日月曜日

ゼロ戦の開発

堀越二郎が開発リーダーをつとめたゼロ戦の開発記録本を読んだ。 その中で振動問題を解析して名をあげた松平精の名前が何回もでてきた。 IHI時代に何回もあった方で、よく知っていたが、その内容をはじめて 詳しく理解できた。

2013年9月1日日曜日

大河ドラマのミス

「八重の桜」で山川健次郎が帰国して、アメリカの大学の卒業証書をみせた。 文学士の学位になっていたが、実際は理学士である。 大きなミスだ。