2014年3月27日木曜日

肥後と豊前の城後

熊本の孫の新築祝いにでかけ山鹿温泉にとまった。
山鹿周辺の歴史めぐりで、城村城後・山鹿城跡などをみた。 
秀吉の九州平定時代に、肥後では入国した佐々成政に反抗した肥後国衆一揆がおきた。
リーダ格の隈部親永・親安父子と分家の山鹿彦次郎のもとに15000人が集まり、佐々は加藤や黒田の支援により、ようやく鎮圧され、佐々と一揆のリーダは自刃させられた。
 この一揆に誘発されて豊前の宇都宮鎮房も反旗を上げたが、やがて黒田官兵衛に謀殺された。のちに隈部親永の銅像や山鹿彦次郎の慰霊碑が建てられたが、宇都宮鎮房の方は今も何もない。






2014年3月19日水曜日

戦国末期の伊予

戦国末期の伊予は長宗我部が統一したあと秀吉により制圧されたとされている。
16世紀中期の伊予には5勢力が存在していた。東から宇摩・新居郡の石井氏、中部10郡の守護河野氏、喜多郡の宇都宮氏、宇和郡の西園寺氏、中部瀬戸内海の来島氏と村上氏である。

総大将は河野氏で本拠地は松山城の北にあった湯月城。
水軍は来島城と能島城を拠点としていた。
これらを天正時代の17年間かけて秀吉は逐次制圧しており、やっと海賊禁止令の実施を実現している。
結局伊予の宇都宮も豊前の宇都宮も秀吉により滅亡させられた。
河野や宇都宮などの中世武士団をきらった秀吉の執念である。

宇都宮鎮房の評価6

小和田先生による宇都宮鎮房の実力評価が、今日の新聞に掲載された。結構厳しい評価で、地元の人はがっかりしているかも。

転封拒否にでたのが滅亡への契機となったというが、転封先の一つといわれる伊予(大津城・大洲城)の宇都宮氏とはもともと姻戚関係もあり、この頃はすでに秀吉軍の戸田勝隆が城主であるからおかしい。
別の転封先の上筑後は場所がはっきりしないが、転封への抵抗もすくなかった筈だ。
佐々成政の失政による失脚をみた如水が、あわてて謀殺したのが真相だろう。

アフリカ大陸

友人の中島さんが南アフリカ旅行をして帰国。その話や写真で、親近感がわいた。さらに昨日BSでアフリカ縦断旅行番組があり、さらに詳細な現地の情報を知った。もう出かける体力はないが、いままで無縁の大陸だったことが惜しまれる。

2014年3月13日木曜日

注連縄飾り

一般家庭での注連縄飾りは地域によって異なるが、通常クリスマス後から28日までに飾る。29日と31日に飾る事は縁起が悪いとされ、31日に飾る事を一夜飾りといい、迎え入れる神様に失礼であるとされる。 飾りを外す日も地域によって異なり、1月7日に七草がゆを食べた後、若しくは15日の小正月の後に外すとされる。一方、三重県伊勢志摩地方などは一年中注連縄が飾られる。九州でも島原や相の島でも一年中かざられる。昨日のテレビで、島原ではキリシタンでなく神道であることを示すためだったと説明していた。

2014年3月12日水曜日

秀吉と義昭の会見〔3月12日)

 豊臣秀吉は命令に従わない島津氏征伐を決意、天正14年に先発隊を九州方面に送りました。
しかし指揮官の立場にあった仙石秀久の拙い指揮で、豊後戸次川で島津軍に大敗。
秀吉は天正15年の元旦に諸将に出陣命令を発し、弟秀長が二月十日に大和郡山から出陣したのに続き、三月一日に自ら大坂を出陣しました。 
九州征伐へ向かう秀吉が備後赤坂(福山)で前将軍義昭を謁見した日が3月12日でした。  
秀吉は六日に岡山に到着、この日備後赤坂(広島県福山市)に至り、鞆から出向いた前将軍・足利義昭を謁見しました。以前と立場が逆転した両者、特に義昭の胸の内は複雑だったことでしょう。形骸化した鞆幕府の姿でした。 
 この時秀吉の勢力圏は1332万石、動員可能兵数約33万。 
 対する島津氏は計296万石、動員可能兵数約7万4千。これではどう見ても勝てる見込みはありません。  
秀吉は三月十六日に安芸海田、二十三日に周防防府、二十六日に下関に至り、二十八日に関門海峡を越えて九州に入りました。
島津勢は局地戦は行ったものの大きな戦いには至らず、結局島津義久の降伏剃髪という形で収束しています。

2014年3月11日火曜日

英賀合戦

9日の大河ドラマで、黒田官兵衛が浦宗勝の率いる5000の兵を追い返した英賀合戦が放映された。浦宗勝はひとコマの出番で終わった。負け戦だから仕方が無い。 この戦は天正4年と5年の説があり、小和田さんは5年説である。天正4年には浦や村上の水軍が織田水軍を破って石山本願寺に10万石の米を届けている。だからその水軍の強力さを官兵衛も知っていたはずだ。ドラマではこの事件が後になっていたのは何故だろう。

2014年3月10日月曜日

足利義昭

新田さんの教えで義昭も結構苦労人であったことを知った。 若狭から越前朽木の朝倉義景のもとに移り、上洛のたすけをもとめ、その後信長によりやっと上洛し将軍となれた。しかしやがて信長と対立しまたおわれて毛利の援助をうけ鞆に落ち着いた。60年の人生。将軍在位は20年とされるが、最後はあいまいだ、

2014年3月8日土曜日

薩摩塔

久山の首羅山遺跡とその山頂にある薩摩塔を2年前に見学した。



昨日の放送大学で最近の調査結果が紹介された。
薩摩、平戸、博多周辺に多く分布しているようで、1年前の放送よりさらに新しい調査内容になっていたようだ。しかしまだ解からないことが多い。 
日本にチャイナタウン(当房、東方など)があり、その住人の信仰の対象であれば、中国にもっと同じものが残っている筈だが、本拠地での変化が激しすぎるようだ。

京都府立大学

孫娘が合格した京都府立大学。親類縁者に縁のうすい大学であるが、その前身が京都女専だったとしって、わたしの友人の姉さん、妻の友人のお母さんなどの母校であったことがわかった。九州ともむかしから縁があったようだ。

2014年3月7日金曜日

室町幕府と鞆幕府

普通の歴史書では足利幕府は、足利義昭が信長に室町(京都)を追放されて終焉を迎えたとされている。
 しかし義昭は西走して毛利輝元に庇護され、小規模ながら鞆幕府をつくっていた。毛利はこれを錦の御旗として織田軍と対抗した。
大阪の一向宗を援護するために織田水軍を打ち破った村上水軍の活躍も、鞆幕府と毛利、河野の共同作戦である。
昨日のBS歴史館の放送では、この背景が全く語られずに、村上水軍だけ詳細に描かれていた。
義昭は秀吉が亡くなる前の年まで生きていた。