2014年9月30日火曜日

壬申の乱(改訂)

壬申の乱は日本古代史のなかで最大の内乱であり、その原因は奥が深い。
最近きいたラジオ番組の話しと、関裕二・松本清張の著書や磯田道史の説などから、原因と経過を列挙してみる。
1)天智・天武の兄弟は異父兄弟で、実は天武が兄で高向王(反雄略の蘇我系)の子、天智は欽明天皇(雄略系)の子という説もある。天智には娘が多く、4人を天武の后とした。
2)額田姫をめぐっての恋敵。これは良く知られている。
3)天智と鎌足で蘇我入鹿を倒し、強力だった蘇我氏の勢力をおさえた。天武の周辺には蘇我氏の残党が多く集まった。
4)天智と鎌足で百済支援偏重の政策をすすめ、白江村の惨敗を招く。鎌足は百済系の人物らしく、親百済の政策をすすめ、天武は親新羅派であった。百済滅亡後は、天智は唐、新羅に、中立を保った。
5)天智は近江(大津)に遷都を強行し多くの豪族の反感を招いた。
6)天智は天武への譲位の約束をしながら、おそく妥女にできた実子の大友皇子への譲位を模索する。暗殺の計画があることを、蘇我安麻呂からしらされ、天武は出家して吉野へのがれる。
7)天智の死後、大友皇子(弘文天皇)の挙兵を予知して、天武は吉野より東国の尾張へ出て、尾張宿禰大隅のもとに行き、多くの兵が集まって、大津へ進軍する。ここで壬申の乱となる。大友皇子の挙兵は、唐への援軍派遣のためだったとも考えられる。当時は唐と新羅が対立していたので、大友は唐を支援し、親新羅の天武と対立した。これが壬申の乱の主原因であった。
両軍の動き
8)近江の正規軍の将を蘇我果安が殺害し、正規軍の統率はみだれて、各地で惨敗する。天武が短期間に3万の兵力を集め得たのは、唐への派遣予定の軍隊が、派遣反対の豪族の意向を利用して、反大友軍に変化させたと考えられる。
9)勝利した天武は都を蘇我氏の地盤である飛鳥にもどし、親蘇我派の皇親政治を実現した。唐は新羅におされて、倭国への干渉はおさまった。
10)しかし天武の皇后の持統天皇「鸕野讚良(うののさらら)」は天智の娘であり、日本書紀は天武のために書かれたように見せかけながら、実は天智や持統のために書かれているふしがある。
編纂の主役が藤原不比等であり、天武の周辺の蘇我氏の人物を記載せずに、鎌足を英雄視してかいている。

この乱は九州とは直接の関わりが薄いが、二人の母の皇極(斉明)天皇は、白村江の戦のとき九州まで出陣し、朝倉の宮で崩御されている。ここは後の黒田騒動の栗山大膳がいた麻天良山城の麓である。
また胸形徳善の娘、尼子姫が天武天皇の妃となったのは、白村江の戦のおり、天武もまた九州まできており、宗像氏との接触があったのが縁である。
その子の高市皇子がこの壬申の乱の戦では大活躍して、天武時代には第3位の地位を獲得していた。

2014年9月27日土曜日

黒田騒動の実態(改訂版)

先日九州大学の木島孝之先生の「黒田騒動とは」という講演をきいた。
実際は森鴎外の小説に描かれたような忠臣栗山大膳の物語ではなく、本格的な分裂騒動だった。
21歳で家督を相続した忠之藩主及びその新参出頭人衆と、古参の大身家臣団との根深い対立が10年つづき、いろんな権力闘争の末、栗山大膳暗殺計画がすすめられた。
栗山側はこれを察知してお家存亡をかけて、城内自邸(三の丸)に立て籠もり、忠之を「天下への謀反の罪状」で公儀へ上訴した。
栗山側には本拠地の麻天良城への立て籠もり計画もあったが、これは謀反とみなされる恐れがあり、城内自邸への引きこもり策をとったという。
一方忠之側は大膳の武力討伐の許可を公儀へ申請したたため、公儀裁定の事件となった。
栗山側は三の丸自邸に700人の兵士、鉄砲200丁、大筒6丁を備えて対抗したので、忠之側は2,3度包囲したが、突入までは出来なかった。
忠之側が突入を強行すれば、城外への発砲などで博多の街まで戦火が及び、黒田家の取り潰しになるおそれがあったからだ。
これらの記録は黒田藩にはなく、隣の小倉細川藩の密偵が探った記録に残っているそうだ。
福岡城の地図
右(東)側の突出部が三の丸で、栗山側の拠点。規模は東西123m、南北95m。北・東・南の三方は幅50~120mの水堀に囲まれ、西側だけが石垣で本丸側と隔たれていた。(もと裁判所のあった場所)

盛岡藩預かりの身となった大膳でしたが、幕府から生涯150人

扶持ふち 、五里四方出歩き自由とされ、南部家からも厚遇さ

れた。大膳は茶の湯にも造詣が深く、盛岡城下の文化興隆に

寄与したといわれている。

官兵衛が死に臨み利安に長政を託して下賜した「 ぎん 白檀

びゃくだん ぬり 合子ごうす なり かぶと 」が、もりお

か歴史文化館に保存されている。現存する官兵衛唯一の兜で

ある。

注)森鴎外は、大正14年の「歴史其儘と歴史離れ」といういう随筆で、

「栗山大膳」の作品の経過をのべている。

【執筆当時は健康がすぐれず、また多忙だったため、単に筋書きをしたためた

のみの物になっている。

それで太陽の某記者に渡す時、小説蘭に入れずに、雑誌様のものに交ぜて出して

もらいたいといった。某はそれを承諾した。

さてそれが例になく私の校正を経ず太陽に出たのをみれば、総ビルを振って、

小説蘭に入れてある。

殊にそのビルは、数人手分けでして振ったものとものと見えて、二、三頁ごとに変

わっている

鉄砲頭が、鉄砲のかみになったり、左右良の城が、さうらの城になったりした処

もある。

「栗山大膳」は、森鴎外の正規の作品ではなかったようである。


栗栗山家ゆかりの子孫の話 白木大五郎

白木家ご先祖、栗山備後利安は、小生の遠いご先祖様に当たります。

そもそも白木家のご先祖様は、越前福井の国主、朝倉義景の弟、朝倉景遠(越前國細呂木3万5千石)ですが、織田信長に一乗谷の戦いに破れ、越前福井白木谷に落ち延び姓を白木と改めました。白木家三代目の白木甚右衛門は、更に信長の追手を逃れ、叔母が嫁いでいる備前岡山の黒田家家老の栗山善助(後の黒田藩筆頭家老、栗山備後利安)に禄高三百石にて使えました。その後、縁あって備後利安の次女を娶り栗山家一門となりました。
備後利安の死に際しては、事前にお許しを得て、即日殉死(切腹)。白木甚右衛門のお墓は、福岡県朝倉市の備後利安の菩提寺「円清寺」の墓所に備後利安と一緒に並んで祀られています。
因みに、小生は、白木家15代目に当たります。




2014年9月25日木曜日

金の歴史と産業遺産


日本最古の金製品で、日本最古の国宝は、志賀島から出土した金印である。
日本の古代史上最も著名な五文字「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」が印面に刻まれている。
後漢の初代皇帝光武帝(こうぶてい)が倭(わ)の奴国王に金印を与えたという『後漢書』の記載から、中国製である。
鈕(ちゅう)はとぐろを巻く蛇をかたどり、その鱗(うろこ)は魚々子(ななこ)技法で表されている。
国産の金製品は、古代では各地で砂金などから採取して作られ、中世では金鉱の発見・採掘が東北地方、中部地方などで行われて、仏像や金貨、金製品が普及していったが、各地の金鉱山遺跡の保存はほとんど行われていない。
現在では経済産業省指定の近代産業遺産として、佐渡金山の遺跡が最も古く最も良く保存されている。
佐渡金山は1601年から平成元年まで400年間も操業され、戦後、近代産業遺産として登録され、整備されている。江戸時代の奉行所も復元されている。

江戸時代から、明治、大正、昭和の時代の歴史的変遷が良くうかがえる。
手掘り時代の木製構造物、それをコンクリートでカバーした時代、さらに鉄骨に変化した建造物。
明治時代の輸入電機品、大正時代の国産電機品(奥村電機などの懐かしい名前も)なども残っている。次男の義父は京都の奥村電機のエンジニアであった。

最近石炭産業の遺跡などを近代化世界遺産に登録しようとする運動がおきているが、福岡周辺ではこれほと史跡の保存が出来ているところななさそうだ。
(佐渡金山の遺跡)
佐渡の産業遺産

2014年9月17日水曜日

宇佐 弥勒寺

◎弥勒寺諸仏・堂宇
金堂本尊薬師如来坐像などは大善寺に、講堂本尊弥勒菩薩・大貳堂本尊阿弥陀如来坐像は極楽寺に遷座・現存する。
◆宇佐大善寺
 ※金堂本尊薬師如来坐像:重文、鎌倉期。丈六仏(高さ3.15m)。弥勒寺金堂本尊。
脇侍には日光・月光菩薩を配し、さらにその左右に不動明王・愛染明王を配す。日光・月光菩薩、不動・愛染も弥勒寺から遷すとの情報もあるので、これら4躯も弥勒寺の故仏であろう。慶応3年神仏分離の際、当寺が買い求めると伝える。
 大善寺薬師堂:この堂に弥勒寺金堂本尊薬師如来坐像を祀る。但しこの堂自体は弥勒寺とは無関係と思われる。
神宮寺観音堂:明治4年宇佐宮神宮寺(観音堂の元位置は良く分からない)から移建と云う。但し平成3年頃復元新築と云う。その折、正面桁と彫刻は当時(江戸期)の部材を使用すると云う。  神宮寺観音堂1     神宮寺観音堂2     神宮寺観音堂3     神宮寺観音堂4 大善寺は呉橋から寄藻川上流150mほどにある。曹洞宗。
 宇佐大善寺全景
◆宇佐極楽寺
 講堂本尊弥勒菩薩坐像:丈六仏、県文。 弥勒寺講堂本尊。
 極楽寺弥勒堂:この堂に弥勒菩薩坐像を祀る。
 ※大弐堂本尊阿弥陀如来立像:鎌倉期と推定。明治の神仏分離で大弐堂は破壊、本尊は近くの松に吊るされていたと伝える。なお大弐堂跡には現在絵馬堂が建つと云う。
 大弐堂弥陀三尊円額模刻:円額も極楽寺へ遷されると云う。
 ※奥氏漆島門:現在極楽寺山門となる。元は宇佐宮神官である奥氏漆島並継の屋敷の表門と云う。    →※印写真3点は他のサイトからの転載
 極楽寺:真宗本願寺派、宇佐宮昭和の大造営(昭和8~昭和17年、国家神道もしくは天皇教の狂気によるものであろう)で宇佐宮境内(明治の神仏分離後も初沢池付近にあったと云う)から現在地へ移転と云う。
宇佐神社と大善寺

関ヶ原のあとの佐和山城戦


石田三成は有名だが、その父や兄の存在はあまり知られていない。今日はその記録をしらべた。
関ヶ原で勝利した東軍が、石田三成の父・正継の守る近江佐和山城へ攻め寄せる。
石田正継
 関ヶ原の戦いで大勝した徳川家康は、その日(九月十五日)は大谷吉継が布陣していた藤川台で宿営しました。
大谷吉継は小早川の松尾山の隣の藤川台に布陣
関ヶ原で唯一自決した大谷吉継の墓
そこで東軍諸将から戦勝の祝賀を受けますが、一人家康の前になかなか姿を現そうとしなかった武将がいました。自らの寝返りにより東軍大勝のきっかけを作った小早川秀秋です。
 家康は村越茂助に命じて呼びに行かせたところ、秀秋は家老の稲葉正成や脇坂安治らとともにようやくやって来ました。
 秀秋は寝返る時期が遅かったことに後ろめたさを感じており、家康の姿を仰ぎ見ることが出来なかったと伝えられます。
しかし家康は彼の労を謝すと、脇坂らも含めて佐和山城(滋賀県彦根市)攻めの先手を命じました。
 十六日、家康は軍を三つに分け佐和山へと向かいました。
一番隊は小早川・田中・福島・藤堂・池田・脇坂・小川・朽木ら(これは前日に進発)、
二番隊は細川・黒田、 三番隊は堀尾・浅野、
四番は井伊・石川らといった順で進発、三方から佐和山城を目指します。

東軍勢はこの日に佐和山北東麓の鳥居本に到着して攻撃部署を定め、篝尾(かがりお)口へは小早川・脇坂・朽木・小川ら、水之手口へは田中・宮部(長熙)らと決まります。
家康は近くの平田山に本陣を置いて軍を指揮、正午頃には城を包囲しました。そして真っ先に攻めかかったのは小早川隊の先鋒・平岡頼勝でした。
 戦場を脱出した石田三成は当時近江伊香郡の山中を彷徨っており、まだ帰城していませんでした。
城では三成の留守を父・隠岐守正継と兄・木工頭正澄らが二千八百の兵とともに守っていましたが、正継は徹底抗戦の腹を決めると、東軍勢に猛烈な射撃を浴びせます。
平岡らは切り通しから攻め上りますが、城方の津田清幽・重氏父子が必死で防戦、小早川勢は多数の死傷者を出して苦戦します。
しかし兵力差はどうしようもなく、やがて池田隊が裏手の柵を乗り越えて城内に侵入、小早川勢も続いて二の丸へと侵入し、ここで城方と激戦が展開されました。

 残るは本丸のみとなったとき、家康は城方に関ヶ原の結果を伝えるとともに講和の意を伝えました。城方は戦意を完全に喪失し、正継は一族の自刃と引き替えに城兵や女子供を助命することを条件に開城を決意します。
家康はこれを認め、翌日に正式に城の引き渡しというところまで決まったとき、異変が起こりました。
 十八日早暁、突如として水之手口の田中勢が攻め上り、城内に乱入したのです。結果的には連絡の不徹底だったのですが、城方は当然騙されたと思ったでしょう。
 やがて本丸から火の手が上がり正継父子は自刃、三成腹心の家臣土田桃雲は三成の妻を刺し殺した上で正継らの遺骸に火薬を撒いて火を付け、自らも十文字腹で果てたということです。
 生き残った城兵らは助命されましたが、城は後に家康の手で跡形もなく破壊されました。
石田一族の菩提寺寿聖院

城の崎にて

志賀直哉といえば鎌倉を連想し、城の崎とは伊東の城ヶ崎海岸と思い込んでいた。
昨日のテレビで、城の崎温泉で直哉が逗留した旅館の紹介があり、但馬のキノサキ温泉だったことをはじめて知った。
直哉の文集をみると、大正2年に東京で省線電車にはねられて怪我をし、その治療のためにはるばる但馬の温泉に出かけたようだ。
その記憶を大正6年に短編「城の崎にて」として発表している。
洪水や地震の被害が多かった温泉らしいが、その旅館は今も存続し、隣室のない見晴らしのいい2階の部屋はそのまま存在していた。

2014年9月15日月曜日

宇都宮鎮房と四国

大河ドラマで謀殺された宇都宮鎮房。
四国への転封拒否にでたのが滅亡への契機となったというが、転封先といわれる伊予(大津城・大洲城)の宇都宮氏とはもともと姻戚関係もあり、この頃はすでに秀吉軍の戸田勝隆が城主であるから、その配下になることらしい。
戦国末期の伊予は長宗我部が統一したあと、秀吉により制圧されたとされている。
16世紀中期の伊予には5勢力が存在していた。
東から宇摩・新居郡の石井氏、中部10郡の守護河野氏、喜多郡の宇都宮氏、宇和郡の西園寺氏、中部瀬戸内海の来島氏と村上氏である。
総大将は河野氏で本拠地は松山城の北にあった湯月城。
水軍は来島城と能島城を拠点としていた。
これらを天正時代の17年間かけて秀吉は逐次制圧しており、やっと海賊禁止令の実施を実現している。
結局伊予の宇都宮も豊前の宇都宮も秀吉により滅亡させられた。
河野や宇都宮などの中世武士団をきらった秀吉の執念で、殆どの中世武士団がほろぼされ、豊後森に移った来島氏だけが江戸時代をいきのびた。
佐々成政の失政による失脚をみた黒田氏が、あわてて謀殺したのが真相だろう。

宇都宮鎮房と天徳寺

宇都宮 鎮房(きい しげふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊前国の戦国大名。城井氏16代当主。城井谷城主。怪力無双の人物で強弓の使い手であったとも伝わる。 天文5年(1536年)城井長房の子として誕生。はじめ、貞房を名乗った。 父・長房が本家筋の下野宇都宮氏の内紛への介入に熱心であったため、領国の管理を早くから任されていたという。
最初は大内義隆に属していたが、義隆が陶隆房の謀反で殺されると、豊前国に支配権を確立した大友義鎮(後の宗麟)に服属。正室に義鎮の妹を娶り、義鎮から一字拝領し、鎮房と名を改めた。しかし、大友氏の勢力が天正6年(1578年)の耳川の戦い以降衰退すると(耳川の戦いには城井勢も参戦していた)、今度は薩摩国の島津義久に属するという巧みな処世術を見せている。
 
その後、宇都宮鎮房は秀吉の九州征伐に協力し、本領安堵を約束されていたが、九州平定が終わると秀吉はその約束を破り、伊予への転封(領地替え)を命じた河野や宇都宮などの中世武士団をきらった秀吉の執念で、殆どの中世武士団がほろぼされ、豊後森に移った来島氏だけが江戸時代をいきのびた。
そこで秀吉に反旗を翻し、城井谷に籠った宇都宮鎮房でしたが、黒田官兵衛の策略の前に降伏してしまう。
その時に和睦の証として黒田家に入ったのが娘のお鶴であったが、結果的に長政が宇都宮鎮房、官兵衛が宇都宮鎮房の息子・朝房を暗殺することになった。その場所は、中津城とされていたが、最近では馬ケ岳城ともいわれている。
 

馬ヶ岳城跡への登山口



城井谷の天徳寺に、二人の墓があり、静かに眠っている。
宇都宮鎮房の墓
 

天徳寺には鎮房の兜(下の写真)や肖像画、同氏の祖、藤原宗円(そうえん)が後冷泉天皇から与えられたというカエルの形をした香炉(町指定文化財)、鎮房が奉納したという十六羅漢図など計11点が保存されている。

 
 肖像画は、愛知県に住む同氏の子孫が昨年12月に寄贈し、制作年代は不明。香炉は大人の手のひらに載る大きさで、菊の御紋入りの木箱に納められている。






月光山天徳寺の縁起 説明板

宇都宮鎮房の長男朝房は肥後で加藤清正軍に殺されたが、清正はその地に宇都宮神社を建立している。


平成25年10月12日に求菩堤温泉にとまり、13日にそこの歴史資料館で如水の書を見る。

その後32号線で城井谷にでて、城井上城の巨岩をみる。3丁弓岩なども迫力があった。

東に下って天徳寺で宇都宮鎮房らの墓をおがむ。

さらに松丸の宇都宮館あとをみた。
宇都宮館跡

その近くに蔵内館があり、観光コースになっている。
蔵内は宇都宮の家臣であったことをしる。

豊津(みやこ町)にでて、馬ヶ岳の登山口まで行った。

この時の写真を整理した。

城井ノ上城跡への登り口

宇都宮鎮房の旗

三丁弓の岩

城井谷の古地図

2014年9月14日日曜日

朝日新聞離れ

慰安婦、原発事故などの騙し記事で、読者離れが進んでいる朝日新聞。
わたしは昭和50年代まで朝日一辺倒だったが、61年の記事(私がいた大学の紹介)以来、朝日を離れた。
当時人気のロボット研究室の私の授業風景などを取材した記事で、見出しタイトルが、「生徒が来ん!」。
60年4月には朝日は私のロボット研究室の設備を「ロボット新時代への飛躍元年」と紹介してくれたのに、1年後には国立離れの学生集めのための道具の一つとして記事にされた。

2014年9月10日水曜日

国東半島 六郷満山




国東半島には3回ほど旅して、両子寺や富貴寺はお参りしていたが、昨日のテレビで、六郷満山文化の詳細な紹介をみて、仏教の深い史蹟や仏像の多さを再認識した。

国東半島には、中央にそびえる両子山(ふたごさん)から放射状に伸びる谷筋に沿って、武蔵(むさし)、来縄(くなわ)、国東(くにさき)、田染(たしぶ)、安岐(あき)、伊美(いみ)の6つの郷が開け、六郷と呼ばれている。

六郷には神仏習合とゆかりの深い宇佐神宮と三十三力寺霊場があり、観光スポットをすべてを巡るには3~4日かりそうだ。 挑戦してみたいが、体力が問題だ。

2014年9月3日水曜日

徳川信康の死

徳川家康の長男信康の死は、織田信長の命令によりやむなく切腹させられたというのが今までの定説であった。
先日のテレビで、静岡大学名誉教授の小和田さんが新説をだされた。

「家康が浜松城に移り、20歳の信康を岡崎城の責任者としたが、両城の家臣団の間に意見の相違がおこり、対立関係が生じた。
武田信玄が父親を追放したように、信康も父親を排除しようとする動きが生じたので、家康はいちはやく信康を幽閉し、やがて切腹に追い込んだ。」
「今までの説は、江戸中期以後の文献に出てくる話で、家康を東照権現として神格化するために創られた話である。」

戦国史を専門とする一級の学者の説なので、間違いないであろう。