2014年10月27日月曜日

四角錐の墓とピラミッド

以前に斉明天皇御陵が八角形ということを書いた。
その半分の四角形の墓が、奈良明日香村の都塚古墳や奈良市高畑町にある「史跡 頭塔(ずとう)」などで、奈良のピラミッドとも言われている。
奈良のピラミット(頭塔)
エジプトのクワ王のピラミッドは巨大で、その造成方法が不思議がられているが、奈良の頭塔をみると、造成のプロセスが解かりやすい。
ピラミッドの正四角錐は、傾斜が54°14′で、どの様にしてこの角度を計測したのか?と皆不思議がっている。
これを明確に書いた本が見当たらないので、ここに説明しておく。
正四角錐の平面図を折りたたんで、正四角錐にした時の高さは、下の図に示すように、水平の一辺の距離の2aに対して、垂直の高さは√2aになるので、この定規を使って造形していけば、54°14′の角度で正四角錐が完成できる。
(数十年ぶりに三角関数の計算をしてみたが、間違いないかな?)
古代エジプトでは幾何学や三角関数の研究が進んでいたので、容易に造形出来たであろう。

高さの計算図
この角度の実験的確認は、写真の様にゴルフボールを積み上げてみれば、簡単に理解できる。
四角錐の模型

2014年10月25日土曜日

多良岳の鳥居

 雲仙多良岳中腹の登山道入り口にある鳥居が、紅葉の季節を前に新しくなったという。
 多良岳は標高1076メートルの経ケ岳(きょうがだけ)を主峰に「太良岳大権現」として山岳信仰と真言密教の聖地とされてきた。
 鳥居は中山キャンプ場(546メートル)のそばに立ち、高さ約2・7メートル、横約2メートル。
 この山頂近くの山腹で、叔父が戦争末期の航空事故で死亡した時の墓があり、お参りしたので、よく憶えている。
   地元の建設会社の元社長で7年前に亡くなった山口萬吉さん(享年94)が最初の鳥居を建立し、18年前にまちづくりグループが鳥居を交換。3代目となる今回の鳥居は、山口さんの長男で会社を継いだ山口渡さん(71)が、仲の良い町議や農家、漁師などに呼び掛けてこしらえたという。
 麓のお寺は古賀の長勝寺と縁が深いという。 多良岳では例年、11月初旬から中旬にかけて紅葉の見頃を迎えるはずだが、もう出かける体力もないので、ブログでお祈りするだけである。
多良岳の鳥居

2014年10月19日日曜日

安曇族の歴史: 宮地嶽神社と安曇族(改訂版)

昨日宮地嶽宮司 浄見譲(キヨミユズル)氏の「宮地嶽の神様と安曇族」の講演をきいた。私見をまじえて纏めてみる。
当神社は、全国に鎮座する宮地嶽神社の総本宮で、創建は、約1600年前。
ご祭神は「神功皇后」(第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君)。
記紀では、渡韓の折この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとある。
その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」としてお祀りしている。
津屋崎に勝浦や勝島の地名があるのは、勝村・勝頼大神の縁である。
中世から戦国末期まで、宗像氏が宗像郡を支配し、宗像大社の末社のような風評が定着している。
しかし宗像三女神の存在も記紀にはじめて出てくる神で、田村円澄先生も、神功皇后の渡韓説話の頃より始まると推定されているから、創建は同じ頃であろう。
宮地嶽神社の地には、創建以前に全長23m(日本2位)の巨大石室古墳があり、国宝に指定されたものが20点も発掘され、地下の正倉院と別称されている。
特に3mの黄金の太刀やペルシャ風デザインの馬具などの存在は、大きな権力者の存在が覗える。最近復元された太刀が、九州国立博物館に常設展示されている。
(3mの太刀については、復元を担当された赤司氏より詳細な説明がされた。)
従来この古墳は胸肩君の墓であろうといわれていたが、その後古墳の年代がさらに古いことがわかり、最近元九大の西谷先生はこの説を否定された。
このことから、磐井族の葛子の後裔説が強くなり、古賀の船原古墳の馬具出土と関連付けて、津屋崎や糟屋の出土品の再調査がはじまっている。
磐井族は有明海に近い八女を本拠地にしているが、有明の大川市の風浪宮の宮司は阿曇姓で、安曇族と磐井族の縁は有明海沿岸でも絆があったようだ。
大川の家具が有名だが、もとは舟の造船技術が基礎となって発達したものである。




宮地嶽神社は地区としては宗像郡だが、津屋崎古墳の石の玄武岩は、宗像地区と異なり、津屋崎大峰山や志賀島のものと同質だから、志賀島や大岳を発祥の地とする安曇族が宮地嶽まで勢力を広げていたと考えられる。
海人が住むこの地区の海岸線に樹齢2000年の松の木が多いのは、彼らが船の木材、松明、墨、イレズミなどに活用していた名残だろう。
イレズミに必要な水銀を求めて、安曇族は山奥まで移住していくことがあった。
宮地嶽神社につたわる筑紫舞の始祖は阿曇磯良翁で、志賀海神社の御祭神を祖にされる方である。その縁で、宮地岳神社宮司の一族から,いまの志賀海神社宮司に養子にはいられた。
九大のヨット部が、日本でもっとも早く創設され、福岡県セーリング連盟が戦後から現在でも一番活躍しているのは、安曇族の発祥の地だからであろうと、現在の話題にもつながれた。ヨット部のOB としてはうれしい話である。
質疑では、宗像族支援者からの反論も出されたが、糟屋郡族としては興味新たな話であった。

シンポジュムの講演者
古墳から出土した大太刀
筑紫舞

参考:安曇族の歴史(その一):
http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2014/10/blog-post_11.html



最近宮地岳古墳の調査で、シュメール文字が発見されたり、九州の縄文土器が古代欧州でみつかったしているそうだ。
安曇族は古代イスラエル人ではないか?という説までとびだしている。




カタカムナ文字に記載された「宇宙すべてを理解したアシアトウアンはその理をここに残した」というアシアトウアンはアジア族のことで、東アジアの海洋民族で、倭国では安曇族のことではないかという歴史家の話とも何処か類似している。
https://www.youtube.com/watch?v=-9WQEvLmWpQ


九大ヨット部


2014年10月16日木曜日

八角形の斉明御陵

歴史秘話ヒストリアの番組は近頃俗説をかき集めたような内容が多かった。しかし昨夜の奈良の古墳の話は最近の研究成果が盛り込まれていて、興味深かった。
斉明(皇極)天皇は、桜井市の段ノ塚古墳(舒明天皇御陵)に合祀されているというのが、現在までの歴史的定説であった。
昨夜の番組では、飛鳥の牽牛子塚古墳に埋葬されているだろうという新説がだされた。これは国史跡ではあるが、あまり有名な古墳ではなかった。
どちらも八角形の墳丘墓で、七世紀中葉から八世紀初頭までに即位した大王に限って八角形が採用されている、数少ない形である。
私が読んだ伊達宗泰、白石太一郎氏などの本には牽牛子塚古墳が斉明御陵の可能性があることなど記載されていない。
昨夜の話では牽牛子塚古墳の石室は、凝灰岩の巨石をくりぬいて二室が構成され、床面には棺台が彫りだされ、二重の閉塞石をもつ横口式の石槨で、高級な副葬品の破片がみつかったという。
一方段ノ塚古墳は江戸時代のスケッチ図が残っていて、石室は一室だったらしい。これは日本書紀の記述の二室と異なるので、牽牛子塚古墳のほうが斉明天皇の御陵に近いということを主張していた。
斉明天皇が巨石加工を好んだことが話しの主流だったが、飛鳥の地は斉明天皇が愛した地だから、本人の希望をかなえるのなら、飛鳥の牽牛子塚古墳のほうがふさわしいだろう。
その他にも、この近くの岩屋山古墳説、高取町の車木ケンノウ古墳説などもあるので、真相解明はいつになるかわからない。
九州朝倉の地でなくなったので、朝倉にもその御陵という丘があるが、仮の埋葬場所だったのだろう。

2014年10月11日土曜日

安曇族の歴史(その一)

安曇族は古代日本を代表する海民族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。
安曇族(阿曇族)の存在を示すアズミの地名は、九州から山形縣まで、16ヶ所ほどある。
「海民」といわれているが、山梨、長野、岐阜県など海の無い場所にも点在している。
日本列島の海民は、縄文時代から、海をこえて大陸と交渉した形跡が残されており、また南方系海民の人骨や文化遺品が西日本では出土している。


金印が奴国の王墓でなく、安曇族の拠点といわれる志賀島で出土したことから、安曇族は奴国の有力な氏族だったことがうかがわれる。
志賀島の志賀海神社には阿曇磯良が祀られており、筑紫舞の祖といわれている。
日本書紀によると、安曇族の始祖、安曇大浜宿禰が273年海人の宰に任命され、海人たちの統率者となった。この時期は安曇族の初期全盛期であったといえる。
{大浜宿禰は応神天皇3年各地の海人(あま)がさわいで命にしたがわなかったのをしずめた­という。以後海人の統率者となった。福岡市の海の中道北端に大岳丘陵があり, ここには、筑前風土記逸文に出てくる大浜宿禰を祀る大嶽神社が鎮座している。)
海の中道の先端の志賀島の志賀海神社には、阿曇磯良宿根が祀られており、筑紫舞の祖といわれている。その境内から海の中道塩屋崎・新宮・古賀・津屋崎方面の海がみえる。
北部九州の海民としては、安曇族、宗像族、住友族が知られているが、全国規模からみると、もとは同族だと考えられる。
安曇族はその後、九州から次第に東遷して活躍の場を全国にひろげる。
日本書紀によると、その後401年に履中天皇の即位問題にからみ、阿曇連浜子が住吉仲皇子のクーデタに加担して捕らえられ、罰せられた。この事件以後の約200年間は中央政治の舞台からは姿をけして、安曇族の衰退期となる。
推古天皇の時代になると、蘇我氏との結びつきが強くなり、日本書紀でも、多くの安曇族人が登場して膳部や法頭として活躍する。第2の全盛期で、特に阿曇比羅夫が外交官として大活躍する時代である。この頃の安曇族の活躍拠点は北部九州から近畿地方にうつっている。
{安曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)は、7世紀中頃の外交官・武将。舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐を自分の家に迎えている。
661年高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡り、大錦中に任じられた。
663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。
長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。
安曇族の活躍はその後も続くが、桓武天皇の792年に安曇宿禰継成が佐渡に流罪となり、以後は中央政界から姿をけしてしまう。
{延暦11(792)年3月18日、内膳奉膳であった継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れ、勅命を承けず人臣の礼無しとして、絞刑に処せられるべきところを特旨をもって死一等を減ぜられ、佐渡に配流された。}
地元の宮地嶽神社との直接の縁はあまり知られていないが、宗像大社との縁は古くから深い。
『日本書紀』天武天皇二年(673)に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、この古墳に埋葬されているのは徳善だろうという説が有力であった。これが安曇族と宗像族の縁を示す一例であろう。
宗像族は朝臣、安曇族は宿禰の冠位だったが、日本書紀には安曇族のほうが多く記載されている。
3年前に安曇族のシンポジュームを聞いたことがあるが、今週のシンポジュームでさらに詳しい話が聞けた。
つぎのブログでその内容を示す。
http://ereki-westjapannavi.blogspot.jp/2014/10/blog-post_19.html

また安曇族はRKBラジオでも放送されたことがある。塩の道から空の道という60周年記念番組で、日曜の夕方のシリーズ番組だった。
そのディレクターの津川さんが古賀の玄界塾で講演をされたこともある。
信州の安曇からみて九州の安曇族との関係をさぐる番組で、九州の磐井君との関係がかなり深いことがいろいろ立証された。

安曇族のイメージとしては海の民であり、本来は磐井君の配下で玄海を制覇していた。
 造船技術、操船技術、製塩技術、砂鉄精錬などが得意なうえに、海外との交易がうまく、日本側の輸出品としては塩やヒスイをとりあげ、韓国側の鉄鋼石や鉄製品を輸入していた。

磐井の乱の敗戦で九州を追われ、ヒスイのルートを経て信州に定住した。信州での安曇の名前は650年頃の大和の文献ではじめてみられるという。
九州と関連する地名、仏像、伝説、食べ物など沢山の事例がで
てきた。

 石川県の志賀町の名前のいわれはいろいろあるが、一説には金印で有名な九州の志賀島とのつながりが言われている。

 

 安津見に鎮座する奈豆実比咩神社は安曇連の祖豊玉比咩命を祭るが、安曇連は北九州の志賀島を本拠地にする。志賀は安曇連の日本海における拠点をなしていた。(志賀町史による)



安津見に鎮座する奈豆実比咩神社


奈豆美比咩神社祭神伝説の地(石碑の文書)

 

 われら住民が、おたびと尊称するこの地は上古、安曇氏の祖神、豊玉比咩命が来臨せられし所なり、と社伝は伝えている。

 西北方に望む宮山大御前は、もとの御本殿跡地であることから、祭礼の神輿渡御にあたっては、まず最初にこの地に渡御し、大御前の方向に神輿を据え神祭をつとめ、その後氏子内を渡御する慣行が、今も継の椨の承されている。

 巨大な神木タブの老株が臥龍の状を呈しているのを始め、姫榊・﨔・杉など長い歴史を物語っている。

 奈豆美比咩神社ハ、古く延喜の式内に名をとどめ、この地もまた旧石造鳥居など貴重な遺構があり、祭神伝説地として神跡深遠であり昭和48年10月23日志賀町文化財史跡に指定された。

 われら住民こぞってこの地を貴重な神域として顕彰するものである。

    

       奈豆美比咩神社宮司 田中外余成 謹書


最近志賀町に原発が建設されたが、地震その他の事故が多く、運転停止しているそうだ。
「君が代」の発祥の地は、志賀海神社という説。
 君が代の歌詞は志賀海神社の神楽です。明治になり、国歌として採用されたのが志賀海神社の神楽です。
 君が代の「君」とは、この地を治めていた安曇氏のことです。安曇氏とは、海の神様である綿津見の子孫とされ、志賀海神社は海の神様の総本社です。綿津見の娘の玉依姫は、初代神武天皇の母です。
 君が代は、安曇氏の双六歌と言われています。
 千代に八千代にの千代は、博多区千代で、千代の松原です。
 さざれ石は、伊都国の王族の墓の場所で現在の細石神社
 いわおは、伊都国の中心地、
 苔のむすまでは、糸島志摩の苔むす姫に会いにいった。




西方浄土筑紫嶋: 安曇族の歴史(その二) (ereki-westjapannavi.blogspot.com)安曇の地名分泌図

2014年10月6日月曜日

黒田節の由来

昨日、博多の那能津会(博多古謡愛好会)の会長をされている岡部定一郎さんから、黒田節の由来を聞いた。
雅楽の越天楽のメロディーにさまざまな歌詞を当てはめて歌う越天楽今様が元になっている。元々は「筑前今様」と呼ばれた。七五七五七五七五の歌詞が基本となっている。
 いろんな歌詞があり、博多商人や福岡藩の武士たちに歌われていたが、黒田長政公の家臣・武将母里太兵衛が福島正則邸で、殿様に酒を勧められ、見事飲み干してしまい、褒美に殿様自慢の槍を貰うという逸話に基づいた歌詞が、代表的に有名になった。
  「筑前今様」と呼ばれていた頃の歌詞は、高井知定の作詞で、「のめのめ酒を 呑みこんで 我が日の本の その槍を 取り越しほどに 飲むならば これぞ真の 黒田武士」という。
 地元の清酒「萬代」のCMソングとして類似の歌詞のものもできたらしい。
ちなみに、2番で唄われる「皇御国の武士は」の歌詞は加藤司書の作詞である。
 那能津会には明治初期うまれの人が唄った声が録音されているが、今より抑揚が少なく地味である。
昭和3年の暮れ、NHK福岡放送局の前身「演奏所」の時代に、赤坂小梅さんの唄声で放送されたとき、「筑前今様」ではわかりにくいので、この題名を「黒田節」と井上精三さんが名付けた。
その後この人気芸者歌手の赤坂小梅によってレコード化され、1942年(昭和17年)5月20日にコロムビアレコードから発売され全国的に有名になった。 戦時中は「黒田武士」というタイトルで吹込まれ、戦意高揚うたとされた。
  戦後1950年(昭和25年)5月20日に歌詞を一部変えて再発売された。吹込んだものは総て「黒田節」の題である。
戦後、福岡県出身の藤堂輝明の詩吟・浪曲入り黒田節が出て、戦後の普及版となった。



2014年10月1日水曜日

岐阜の地名

市の名前で「福」がつくのが7市ある。(福岡、福津、福山、福知山、福井、福生、福島)
七福神にならって、連携運動をはじめたらと提案したが、一向に動きがない。福はありふれていて、まだ増えるかも知れないからであろう。
珍しいほうから考えると、岐阜市の名前である。常用漢字にもない文字がはいっている。
美濃という古い地名を捨てて岐阜にしたのは、織田信長という。
稲葉城を攻め落とした信長が、これを岐阜城と改名した理由はつぎのように言われている。
岐阜の岐は「周の文王が岐山より起こり、天下を定む」という中国の故事より、また
岐阜の阜は孔子の生誕地「曲阜」から、太平と学問の地となるよう願って命名したという。
いかにも天下布武をめざした信長らしい話で、生まれた播磨から福岡という地名をもってきた黒田とは大きな差がある。
その他にも説がある様だが、地名としては高級な由来の部類だろう。
岐阜城

イコモス「明治日本の産業革命遺産」

「明治日本の産業革命遺産」は、北九州の官営八幡製鉄所,大牟田の三池炭鉱,鹿児島の旧集成館などと,山口、静岡、岩手など8県にわたる23の遺産で構成されていて、2015年の世界文化遺産への登録を目指し政府が推薦しています。
この現況を調べるためユネスコ諮問機関イコモスのオーストラリア人調査員が9月30日、北九州市八幡東区の八幡製鉄所関連施設(旧本事務所や修繕工場など4か所)を訪れ、担当者の説明を聞きながら保全の状況を重点的に確認したということです。
イコモスは10月5日まで日本での調査を続けた後、その評価をユネスコに勧告する予定です。
イコモス(国際記念物遺跡会議)は文化遺産保護にかかわる非政府組織(NGO)でフランス・パリに本部があり、ユネスコ世界遺産の審査を担当しており、最終的には、2015年夏にドイツで開かれる世界遺産委員会で「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録が決定される予定です。
これが実現すると、沖の島よりもはやく、わが家に近い世界遺産となります。