2015年1月23日金曜日

寅の年、寅の月、寅の日は三寅(改訂)


平成23年9月に福岡市西区の元岡古墳群で見つかった刀のさびを取り除く作業が進み、刻んだ部分に金を埋め込む「金象眼」という高い技術で記された19文字が、確認されました。
刀の背面に刻まれた19文字の「金象眼」の文字は、「寅の年の寅の月、寅の日に作られた」と記されていて、今からおよそ1400年余り前の西暦570年に作られたとみられます。
この文字を詳しく調べたところ、すべて95%前後の高い純度の金で、文字は、タメやはらいがある書体になっていて、豊かな表現できるほど、精巧な技術が使われているということです。
古代の刀に詳しい奈良大学の西山要一教授は「非常に美しい文字が出てきた。国内で作られたのか、大陸から渡ってきたのかはわからないが、高い技術を裏付けるもので、国宝級の発見だと思う」と評価しておられました。
寅の年うまれの私ととしては、うれしいニュースで、是非埋蔵文化財センターに見に行きたいと思っています。
金象眼の刀
そういえば今から1400年の昔、聖徳太子が信貴山で戦勝祈願されたとき、毘沙門天が現れて大支援をいただいたのが寅の年、寅の月、寅の日であったと謂われています。

また空海(弘法太師)徳川家康など歴史上の偉人達の生誕の日も寅、寅,寅の日であったと謂われています。

鎌倉幕府の4代将軍藤原頼経も幼名は三寅で、2歳で将軍に任命されました。





有名な寺田寅彦は1878年の寅年生まれで、寅彦と名付けられている。(11月28日生まれ)

わたしの友人の溝口君も1926年のこの日のうまれで、虎彦と名付けられました。

学生時代に広島で少し原爆被害を受けながら、その後4元気にすごし、財界や教育界で活躍して、先年勲3等の叙勲をうけられました。また母校の百周年記念碑の設計製作にもリーダー役をつとめてくれました。寅・寅・寅の活躍です。
彼は寅のマークのはいったネクタイピンを作成し、多くの関係者に配布して、毘沙門天の庇護をいただけるよう願ってくれました。
溝口君のネクタイピン


これは金像眼の太刀と同じ価値がありそうです。
ちなみに私は同じ寅年うまれだが、寅・辰・酉とバラバラの生まれで、平凡な人生ででした。

来年2022年は、五黄の寅とゆうことで、36年ごとに金運のいいとしらしい。
九星気学は、神様の作られた学問と言われ、自力で運を上げる方法の一つです。
九つの大きな宇宙エネルギーを『精気』といいます。
『精気』には、「一白水星」「二黒土星」「三碧木星」「四緑木星」「五黄土星」「六白金星」「七赤金星」「八白土星」「九紫火星」と9種類あり、これを九星といいます。
われわれの1926年は、八白の寅。ネット検索によれば下記のとおり。
★ この年の生まれの人は、実行力があり、まじめで苦労を厭わず良く働き、才知に優れ高尚な精神を持つタイプの人です。

★ 反面、面倒見が良い割には疑い深く、負けず嫌いで競争心が強いため、他人にすべて任せることができず、摩擦が生じる場合もあります。

★ 今年は、変化運となり、思惑通りに進展しない現状に焦りや不安が募り、打破しようと試行錯誤する年回りです。無計画や短絡的な思考で大きな変更や力量以上の改革を試みても、出費や苦労が増えることになります。

★ 不平不満は抑え、多角的な見方で冷静に状況を分析し、軌道修正しましょう。相続や親戚に関して問題発生の暗示があります。

2015年1月16日金曜日

天下とり

織田信長は天下布武、天下静謐(せいひつ)のスローガンで、天下とりを目指したといわれている。
毛利元就は天下のことにはかかわるなと、子孫に告げていたという。
戦国時代は、足利幕府の政治権力失墜ではじまった。
長年の応仁の乱で、中国の大内一族は故郷の勢力を近畿にさかれて、次第に自滅していった経過を見ていた元就は、複雑怪奇な畿内の動きに拘わりたくないと考えたのであろう。
信長も最初は足利義昭をかついで上洛したが、数年後には義昭と対立し、周辺の国情も変化したので、ついに自力での天下とりをめざした。
昨夜のテレビでは、信長の選択の変化を細かく調べ上げて、解説していた。
信長は、鎌倉幕府や足利幕府を超越した政治組織をめざして、失敗してしまった。
家康はそこを心得ていて、江戸幕府体制を確立し、260年の政権の基礎を固めた。
天下の範囲が、国内から海外に広がった時代には、徳川の幕府体制も通用しなくなった。

2015年1月7日水曜日

宇都宮鎮房の屋敷跡

昨年のNHK大河ドラマの後半で、黒田長政に謀殺された宇都宮鎮房の寒田屋敷跡が、ドラマの後の史蹟紹介で放映された。(9月21日)
家内の叔母の家が寒田にあり、家内もその家に似ているなと一瞬思っていたらしいが、そのままに終わっていた。
正月に兄弟姉妹が集まった時にこの話がでて、叔母の子の報告で、やはり叔母の家だったことがはっきりした。
叔母夫婦は10年位前に他界して、家は古民家のまま放置されているのだが、寒田の郷土史研究家が、このあたりに宇都宮館があったらしいとでも言ったらしい。
叔父・叔母は祖先が宇都宮の家臣だったらしいことは聞いていたが、文書などの資料は皆無で、確証はなにもないし、子供たちは皆都会に出ていて、空き家のままである。
それがNHKで史蹟として放映されたのには、いささか驚いた。
じつは築城町の教育委員会は、少し下流の松丸に宇都宮氏館跡があり、中世では九州最大級であると、数年前発表していた。私も2年前その館跡にでかけたことがあるが、発掘調査跡は埋め戻されて、普通の畑になっていた。
NHKも、ここでは館跡の映像にならないとと考えたのであろう。