2016年6月29日水曜日

渋田見主膳の子孫

単行本
先日元職場のOB会で渋田見君と久しぶりにあった有名な小倉小笠原藩の白黒騒動で、藩主を老中に推進する家老で、反対派に暗殺された渋田見主膳のご子孫である。
家に伝わる日本刀剣類、鎧類、古文書、家系図などを、アイパッドにいれて綺麗に整理しているのを見せてくれた。歴史愛好家にはみのがせない写真ばかりであった。
同じ職場だった興膳君がこの物語を単行本にしている。
渋田見の前の姓は仁科で、そのルーツは武田勝頼の弟で、高遠城主となった仁科五郎盛信だという。ここから数えると30代という長い歴史。
たしかに小笠原氏の家臣には、仁科氏の一族で、穂高・沢渡・渋田見・古厩・日岐・小宮が仕えたことが文献にも明記されている。


毛利元就の連合の知恵

毛利元就は地方豪族の連合体の盟主で、唐傘連判状で豪族群をまとめていった。唐傘とは笠状に名前を書いていき、円形だから上位、下位の分け隔てがないことを表している。
この形式を考案したのは、彼が家督をつぎ、毛利一族をまとめていくまでの苦難が背景になっている。


毛利元就は明応6年(1497年)3月14日、安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男としてうまれ、幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は少輔次郎(しょうのじろう)という。
元就の妻
元就の系図

文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去する。

松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。
この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」と書き残している。

永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因はやはり酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。
家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。

その毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良ら重臣達の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。
この頃、吉川家から妻妙玖を娶り、家政をまかせる。
しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。
その後も異母弟との争いがあり、数年間は一族をまとめるのに努力している。
子供たちに諭した「三本の矢」のまえに、多くの矢をまとめる苦労が続いていた。

しかし彼の死後の毛利家にうけつがれたこの連合思想は、関が原の時に弱点をあらわした。 元就の先見性があってはじめて連合運営は成り立っていたのだ。

2016年6月27日月曜日

東南アジアの初期国家形成


アジア大陸を横断するシルクロードは有名で、仏教もこの道を通って日本に伝来した。


しかし西にローマ帝国、東に漢王朝が栄えていたBC100年からAC100年の時代には、西域(シルクロード)の反抗もあって、東西間の海上交通が盛んになり、交易の中継地点に多くの港湾国家が形成された。
海上交通はじまる


現在のカンボジアのプノンペンあたりに扶南という港湾国家が形成されていた。
港湾国家より献上
この地区からは、交易につかわれた各種のコインや商品の荷札などが発見されている。
各種のコイン
荷札
当時は沿岸航行であったから、マレー半島をまわらずに、陸路で横断したようだ。
マレー半島陸路の記事
また出土品には、文化的は鏡や仏像などもふくまれている。
カンボジアの歴史資料館で、これらが見られるらしい。
仏像

朝鮮総督府庁舎の一生

旧朝鮮総督府庁舎(中央博物館)

景福宮模型

旧朝鮮総督府庁舎は景福宮の宮殿正面に1926年(大正15年)につくられました。

ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが基本設計をおこない、日本人建築家(野村一郎、國枝博ら)が完成させました。4階建てで中央に大きな吹き抜けを持っていました。
中央ドームのステンドグラス


 朝鮮総督府庁舎の建築場所は、宮殿正門の光化門の近くのため、光化門を移築して保存し、正殿の勤政殿や慶会楼などの象徴的な建物は保存されることとなったが朝鮮王朝の正宮だった景福宮の付随的な建物の多くは破却しました。(一説に8割以上とも)
前にあった光化門を移築


しかし、宮殿の前面に朝鮮総督府庁舎が建てられ、以後ここが朝鮮における行政の中核地となると、街から宮殿はみえなくなり、朝鮮民族にとって総督府庁舎は屈辱的な歴史の象徴ともいわれるようになりました。これも現在まで続く反日感情の一因であるとみられています。
 1948年8月、大韓民国政府の樹立にともない、旧総督府の庁舎は、政府庁舎として利用され、中央庁と呼ばれました。大韓民国の成立宣言も、ここでおこなわれました。
 その後、韓国内では、旧植民地の遺構として撤去を求める意見と、歴史を忘れないため保存すべきという意見があり、議論がおこなわれましたが、一時期は韓国の国立中央博物館として利用されることになりました。

 わたしも中央博物館時代に、2回ほど見学したことがあります。

しかし、国民にとっては、屈辱の歴史の象徴であることには変わりはなく、保存か解体かの論議がしばしば再燃しました。
 最終的には、かつての王宮をふさぐかたちで建てられていることから、撤去が決まりました。
王宮を塞ぐ博物館

 1995年に尖塔部分のみを残して庁舎は解体され、現在、尖塔部分のみ残されて天安市郊外の「独立記念館」に展示されています。ソウルから南へバスやタクシーを使って2時間以上かかる場所です。下の写真がそれで、この展示の仕方には、崩壊・犠牲・鎮魂・再生などのさまざまで深い意義が込められているように感じられます。

尖塔部の展示

 庁舎の跡地には庁舎建設によって取り壊された王宮の一部が復跡元され、現在は同宮の正面入口となっています。
正面入り口

2016年6月24日金曜日

幻の指月伏見城の発掘


指月伏見城の石垣発掘
伏見城は三度に渡って築城されており、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。 このとき築かれたものを指月伏見城とよび、後に近隣の木幡山に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別される。
さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる

1593年(文禄2年)に入り、との講和交渉が動きはじめ、明の使節を迎え日本の国威を見せつける目的と、同年8月3日に拾丸(豊臣秀頼)が産まれ、拾丸に大坂城を与えると想定したことで、秀吉の隠居屋敷は大規模な改修が行われることになった。



文禄3年(1594年)10月頃より宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導き、城の外濠とするとともに、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池には小倉堤を築きその上に街道を通して新たな大和街道とするなど大規模な土木工事が行われた。
また宇治橋を移して指月と向島の間に架け豊後橋としたとの伝えもあり、都から大和・伊勢及び西国への人の流れを全て城下に呼びこもうとした意図が伺える。

築城は1594年(文禄3年)から本格的に始まり、普請奉行佐久間政家が任命され、石材讃岐国小豆島から、木材土佐国出羽国からも調達され、同年4月には淀古城から天守が移建された。同年10月には殿舎が完成した。

1595年(文禄4年)に秀次事件が起きると、同年7月には破却された聚楽第からも建物が移築され、宇治川の対岸にある向島にも伏見城の支城、向島城が築城された。

翌文禄5年(1596年)閏7月12日深夜から13日にかけて地震が起こった。このころ近畿地方から九州にかけて大小の地震が頻発しており、秀吉も「なまつ大事」とし伏見城の地震対策に力を入れていたが、のちに「慶長伏見地震」と呼ばれることになるこの地震はそれを上回る大地震となり、天守の上二層が倒壊する大きな損害を受けた。
この時秀吉は伏見城におり、『当代記』によると女﨟73名、中居500名が死亡したが、秀吉は無事で、建物としては台所施設が健在だったらしく、そこで一晩をすごした。(このとき真田信繁が秀吉のそばにいたか肥前にいたかは不明)
夜が明けて指月伏見城から北東の1kmにある高台、木幡山に仮の小屋を造り、秀吉もそこで避難生活を送っている。
この地がのちの木幡山伏見城となる。なおこの災害を契機としてこの年10月27日には「慶長」に改元された。
したがって指月伏見城の詳細は、不明で幻の城とよばれている。
最近その跡地が判明し、発掘調査が行われている。
大きな石垣や鯱の瓦や金箔の瓦などが出土しているので、天守などは豪華なものだったと推定されている。

指月伏見城の絵図は無く、洛中図の一部に描かれているのは木幡山伏見城である。

晩年の秀吉はあいついで築城したために、周辺の批判も起きていたようで、落書もいくつかあったようだ。
「いしふしん 城こしらへも いらぬもの あつち(安土)お田原 見るにつけても」

名護屋城(肥前)と唐津城

対岸の展望台より一望できる
大河ドラマの影響で最近はよく、肥前名護屋城がテレビで紹介される。
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を行った。

名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90メートルほど)を中心に170,000平方メートルにわたり築かれた平山城の陣城である。

五重天守や御殿が建てられ、周囲約3キロメートル内に120ヵ所ほどの陣屋がおかれた。 城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄した。
真田丸の一族もこの地に滞在した。
天守閣と諸侯の陣屋配置図
秀吉の死後、大陸進攻が中止されたために城は廃城となったと考えられており、建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わる。

唐津城


石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却され、現在は部分が残る。
歴史上人為的に破却された城跡であり、破却箇所の状況が復元保存されている。
現地の風景
大正15年(1926年11月4日、「名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)」として国の史跡に指定される。
昭和30年(1955年8月22日特別史跡に指定された。

この頃はじめて現地を訪れたが、石碑のみで、詳細なガイド図などは不明であった。
平成18年(2006年4月6日日本100名城(87番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
絵図・地形・発掘・出土品
近年跡地の地形の精密計測と発掘調査がすすみ、また名護屋城絵図の発見があって、これ等のデータを総合して、CGによる復元がすすんで、現地ではスマートフォン・タブレットによるバーチャル体験ができるようになっている。。

CGによる復元城郭
現実の山里丸の跡は、芝生の庭であり、井戸の跡も存在している。

特に秀吉は天下統一後の戦には、城郭の周辺に茶室や能舞台を設けており、これらも絵図にえがかれているので、CG化されている。