2018年5月28日月曜日

大村藩の維新三十七士碑(円融寺跡の庭園)と

大村市地図(上方が東)
幕末維新150年の年で、マスコミの歴史番組に、各藩の功労者の名前が報じられているが、大村藩は小藩のためか、殆ど名前が出てこない。
通常、維新の功労者は、薩・長・土・肥といわれるが、大村藩は小藩ながら戊辰戦争に新政府軍として13隊を編成して活躍したので、明治新政府は、薩摩、長州(十万石)、土佐(四万石)についで、4番目に多い賞典禄三万石を大村藩主に与えた。肥前は二万石だった。

その大村藩の功労者三十七士の碑が、大村市旧円融寺跡の庭園に建立されている。



大村藩三十七士の碑






  • 松林 飯山  梅沢 武平  大村 太左衛門   朝長 熊平   福田 弘人

  • 村山 興右衛門  松田 要三郎   山川 清助  常井 邦衛  根岸 主馬

  • 浜田 弥兵衛   藤田 小八郎  加藤 勇  中村 平八  長岡 治三郎

  • 十九 貞衛  久松 源五郎  土屋 善右衛門  小佐々健三郎  楠本正隆

  • 北野 道春  渡辺 清  中尾 俊輔   針尾 九左衛門   中村 鉄弥

  • 根岸 喜多  山川 宗右衛門  沢井 六郎太夫  大村 歓十郎  稲田 東馬

  • 野沢 門衛   柴江 運八郎  浅田 千葉之助   渡辺 昇  原 三嘉喜

  • 長岡 新次郎  戸田 圭次郎



  • 佐幕派に対抗する尊王派のリーダーだった松林飯山が暗殺され、その跡を継いだ渡辺昇が、改革同盟(37士同盟)を組織し、藩権力を掌握した。渡辺は坂本竜馬と薩長同盟を画策し、奇兵隊のような、大村13隊を編成し、いちはやく戊辰戦争に参入した。
    明治時代には、東京府知事に楠本正隆、大阪府知事に渡辺昇、福岡県令に渡辺清などが任命され、かつやくした。
    また長岡治三郎の子息は長岡半太郎という有名な科学者となった。
    その後、平成8年に、戊辰の役の戦没者23人の碑も追加された。
    大村藩の玖島城跡の堀は、菖蒲の花の名所である。

    城下街には武家屋敷の跡が、沢山残っており、楠本正隆の屋敷跡は公開されている。


    リーダの松林飯山の出生地は、〒819-0038 福岡県福岡市西区羽根戸373であり、犬養毅の書で記念碑がたてられている
    早良郡田隈村の医師、齊藤義氏が1929年(昭和4年)私費を投じて建立した。
    松林飯山の父祖は久留米の権藤延陵(日田の廣瀬淡窓と関係があります)グループの医療者集団の末裔と言われいる。
    父は
    大村藩医松林杏哲だが、養父という説もある。
    飯山は、筑前国早良郡羽根戸村に生まれ、やがて大村藩領蠣浦に移った。
    幼少の頃から神童の誉れが高く、郡奉行に見出され、嘉永3年(1850年)、12歳のときに藩主大村純熈唐詩選を進講した。これをきっかけに藩士に取り立てられ、藩校五教館の表定詰となった。

    文久3年(1863年)10月、 五教館の祭酒となった。また、この頃から学問だけでなく、藩政へも参加するようになった。同年12月頃、渡邊清左衛門渡邊昇楠本正隆らとともに勤王派を結成したが、これが後に大村三十七士と呼ばれる同盟に発展する。

    慶応3年(1867年)1月3日、飯山は自宅近くで襲われ、絶命した。

    筑前との絆があったことは、あまり知られていない。

    昨日の「家族に乾杯」では、大村市の玖島城に、城好きの高橋英樹が登場した。きれいな石垣を背景に城の魅力を語っていたが、事前の調査不足らしく、幕末の戊辰戦争で大村藩が活躍し、薩摩、長州、土佐のつぐ功績をあげ、肥前以上の評価、表彰されたことを知らなかったようだ。刀鍛冶の場面では、金属学者の長岡半太郎の出身地であることも知らせてもらいたかった。

    2018年5月23日水曜日

    能面の眼と表情


    能面は人間の顔より、抽象化され強調化されている。
    和辻哲郎は、「面とペルソナ」で、「能面は実際に生きている人間の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎能面の側に自然のままの人の顔を見出すならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかと痛切に感じざるを得ないであろう。」と述べている。
    寺田寅彦も、能や人形浄瑠璃を見たときの感想を「生ける人形」で書いている。科学者らしく、観客と舞台の距離を考慮した抽象化や強調化が必要だろうと述べている。
    彼は、「相撲と力学」では、相撲も力学の広い縄張りにいれて、「複雑な梃子の組み合わせで、四十八手の力学の分析を、学者によって明らかにしたいものだ。」と述べているが、その後相撲の解析記事はみあたらず、さらに能面の芸術の分野までは深入りしていない。

    以前、能面の角度によって表情が変わることを、写真撮影で比較したことがあったが、ここでは寅彦流に、能面の眼の動きと人間が感じる眼の形を、少し科学的に分析してみる。

    ある平面上の図形を、他の平面上の上に移しかえるのに、等角写像法という技術があり、流体力学で、飛行機の翼断面などの設計に使われている。理論の詳細は省略する。

    図の基本円を能面の丸い目とし、人間が見る等角写像図をえがくと、動きによって変わる拡大率によって写像図は円になったり、直線になったりする。下図はその中間の例である。

    上に示した各種の事例の図は、もと同僚の柳井田教授の発表図から引用している。

    芸術家は、このような幾何学的な原理を理解していたのではないけれど、経験的に眼の形と動きの組み合わせによって、いろいろな表情を見せることを、体得していたのであろう。

    世界には多数の表情の面が存在するが、日本の面は抽象化されたものが主で、動きを意識してつくられたようだ。




    2018年5月15日火曜日

    薩摩藩と近衛家

    現在の大河ドラマ「西郷どん」でも、幕末時代の薩摩藩と近衛家の深い関係が描かれているが、戦国時代に直接薩摩まで下ってきていた人物がいたことを、今日のラジオで初めて知った。

    その人物は、 近衛 信尹(このえ のぶただ)である。


    天正5年(1577年)に元服
    天正8年(1580年)に内大臣、天正13年(1585年)に左大臣となる。
    次の関白の位をめぐり、五摂家の二条昭実と争いになっていたが、菊亭晴季の蠢動で、豊臣秀吉が関白に就任してしまい、さらに次の座を秀次に奪われる。
    秀吉が関白職を巡る争いに介入し、近衛前久猶子となって関白宣下を受けられたうらには、本能寺の変で、近衛家屋敷を明智軍が利用した事実を不問にするという裏取引があったという。

    このため、秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと、文禄元年(1592年)12月に信尹自身も朝鮮半島に渡海するため肥前国名護屋城に赴いた。

    後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めた。

    信尹は薩摩国坊津に3年間配流となり、その間の事情を日記『三藐院記』に詳述した。京より45人の供を連れ、坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯)に滞在、諸所を散策、坊津八景(和歌に詠まれた双剣石一帯は国の名勝に指定)、枕崎・鹿籠八景等の和歌を詠んだ。

    地元に親しみ、書画を教え、豊祭殿(ほぜどん・毎年10月第3日曜日・小京都風十二冠女)の秋祭や御所言葉、都の文化を伝播。
    鹿児島の代表的民謡『繁栄節(はんやぶし)』の作者とも伝えられる。
    配流中の世話役であった御仮屋守(あつかい)・宮田但馬守宗義の子孫は「信」を代々の通字としている。

    現在、近衛屋敷跡は公園となり、近衛文麿に依る碑も建立、手植えの藤は季節に花を咲かせる。


    遠い薩摩の暮らしは心細くもあった一方、島津義久から厚遇を受け、京に戻る頃には、もう1、2年いたい旨書状に残すほどであった。
    慶長元年(1596年)9月勅許が下り京都に戻る。

    慶長5年(1600年)9月、島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴い、枕崎・鹿籠7代領主・喜入忠政(忠続・一所持格)も家臣を伴って従軍したが、9月15日に敗北し撤退を余儀なくされる。

    そこで京の信尹は密かに忠政・家臣らを庇護したため、一行は無事枕崎に戻ることができた。
    また島津義弘譜代の家臣・押川公近も義弘に従って撤退中にはぐれてしまったが、信尹邸に逃げ込んでその庇護を得、無事薩摩に帰国した。

    信尹の父・前久も薩摩下向を経験しており、近衛家は関ヶ原で敗れた島津家徳川家との交渉を仲介し、家康から所領安堵確約を取り付けた。

    慶長6年(1601年)、信尹は左大臣に復職。慶長10年(1605年)7月23日にはやっと念願の関白となる。

    翌11年11月11日に関白を鷹司信房に譲り辞するが、この頻繁な関白交代は秀吉以降滞った朝廷人事を回復させるためであった。

    慶長19年より病に罹っていたが、11月25日1614年12月25日)に薨去、享年50。 山城国京都東福寺に葬られる。

    信尹には庶子しかいなかったので、後陽成天皇第4皇子二宮を後継に選び、近衛信尋を名乗り継がせ、自身の娘(母は家女房)を娶らせた。近衛家は天皇家の血筋となった。

    2018年5月12日土曜日

    黒田氏家紋の諸説

    黒田の家紋は、藤紋という説が一般である。わたしの手元の図書やネットでも「左三つ藤巴」の図を載せているものが多い。
    左三つ藤巴紋
    しかし黒田官兵衛のような波乱万丈の人生をおくった人物には、家紋にも多くの説がある。

    官兵衛の父、黒田職高が小寺家に仕官したとき、小寺家の家紋「橘藤巴」をもじって、「藤巴」を家紋にしたという説がある。
    橘藤巴紋


    有名なのは、荒木村重を説得するため有岡城に乗り込んで捕らえられ、獄中生活のなかで藤の花の生命力に勇気づけられて、藤巴を家紋にしたという説である。この説では「一つ上り藤」である。
    一つ上り藤巴紋

    その事件の時、竹中半兵衛が、官兵衛の無実を信じて、息子の命を救ってくれたことに感謝し、竹中半兵衛なきあとは、竹中の家紋「黒餅紋」を黒田家の「おもてもん」とし、その後、分家の秋月藩の家紋を「三つ藤巴」とした。

    黒餅紋
    左三つ藤巴紋

    竹中半兵衛の家紋は、「九枚笹」であったが、あるとき鏡餅を懐に入れて出陣したところ、矢が飛んできてあたったが、餅のおかげで怪我しなかった。これを記念して「黒餅紋」に変えたという。
    九枚笹紋

    明治維新となり、日本の国旗が日の丸となったので、黒田家の家紋「黒餅紋」が国旗とまぎらわしくなったので、藤巴紋を「おもてもん」に変更した。
    その他、時代は不明だが、歴代藩主の時代には、「三つ橘」や「永楽通宝」の家紋も使用された。
    以上手元の本から、家紋をピックアップしました。



    三つ橘紋
    永楽通寶紋








    2018年5月7日月曜日

    風の方位と強さの名前




    風の方位の名前は、磁石が導入されてから、東西南北が標準になっているが、昔からの十二支による表現がまだ残っている。
    その他に、船乗りや季節と地方による独特の表現が、いまだに多く使われている。

    北風 (きたかぜ) 北から吹いてくる冷たい風。
    朔風  (さくふう) 朔は月の初めで北風の意。

    戌亥は、あなぜ。
    丑寅は、北ごち。

    あい(あゆ)の風  春から夏にかけて、日本海沿岸で吹く、北ないし北東の風。 
    あなじ、あなぜ(乾風)  冬に近畿以西で吹く、船の航行を妨げる強い北東風

    筑波東北風(つくばならい)  筑波山の方から吹いてくる北風。[つくばならひ・つくばならい]

    あおぎた(青北風)  西日本で8月から9月ごろにかけて、晴天の夜間急に冷えて吹く北風

    雁渡(かりわたし)  雁が渡って行く初秋のころに吹く北風
    陰風  陰気、不気味な風。冬の風、北風、朔風





    東風(はるかぜ、うふう、こち)

    こちの風  東の方から吹いてくる風。特に春の東風
    丑寅は、北ごち、あい、やませ。 
    卯はまごち。
    辰巳はこちいなさ。いなさ
    梅東風(うめごち)、桜東風(さくらごち)、雲雀東風(ひばりごち)など。
    朝東風(あさごち)  春の朝に吹く東風。
    強東風(つよごち)  春、東から吹く強い風。
    谷風  春先、東方から吹いて万物を生長させるという風。東風。穀風。また、谷を吹く風。谷底から吹き上げる風。たにかぜ。
    まつぼり風  阿蘇の火口原にたまった冷気が外輪山から熊本平野へ吹き出す東の強風。(まつぼりは余分、へそくりなどの意味)

    佐保(さお)風  奈良の佐保辺りを吹く風。また、東風をいう。[さほかぜ]

    星の入東風(ほしのいりこち)  中国地方で陰暦10月ころ吹く初冬の北東風。明け方昴(すばる)が没する時刻に吹きやすいという。
    黄雀風  陰暦5月に吹く東南の風。(くわうじやくふう)



    西風 金風 にしかぜ いり。寂しい秋の風。
    西北の季節風。あなぜ。あなじ。ゆに。
    未申は、西まぜ。
    酉は西風。
    戌は西あなぜ。

    いなさ  東日本、関東で海から吹く南東ないし南西の強風。雨の前兆とされる。

    高西風(たかにし)  関西地方以西で10月ころ急に強く吹く西風、北西風。


    束風  →玉風

    玉風  東北・北陸地方の日本海沿岸で、冬に北西から吹く暴風。たばかぜ,たまかぜ。


    岩おこし  広島県で3月頃吹く西風。[いはおこし」


    鹿の角落とし  山口県で2~3月の晴れた日に吹く南西風

    高西風(たかにし)  関西地方以西で10月ころ急に強く吹く西風、北西風。



    南風
    はえの風 

    みなみ  夏の季節風。南風
    巳午は、こちようづ。
    午は、ようづまぜ。
    午未は、やまぜ。


    西日本一帯で南または南寄りの風のこと。
    青嵐(あおあらし)  5~7月の青葉のころに吹くやや強い南風。せいらん

    鹿の角落とし  山口県で2~3月の晴れた日に吹く南西風


    しゆたらべ  喜界島で梅雨の前に吹く湿気を含んだ南風。

    おぼせ  淡路、伊勢、伊豆などで4月頃の日和の時に吹く南風



    凱風  やわらかい南風。初夏のそよ風。

    白南風(しろはえ、しらはえ)  梅雨明けの頃、南から吹く風。しろはえ。

    油風(あぶらかぜ)  4月ころ吹く南寄りの穏やかな風。油まじ。油まぜ。

    野分の南風(のわきのはえ)  雨の少ない南の強風


    ひかた  日のある方から吹く風の意味。広く日本海側一帯でいわれる夏の南寄りの強い季節風

    まじ(真風)  西日本で南または南西の風をいう。桜まじ、油まじなど。まぜ。

    南東風(みなみごち)いなさ  東のやや南寄りから吹く風。

    下り  日本海沿岸、特に北陸地方以北でいわれる南寄りの風。京都から下るのに好都合な夏の季節風。
    逆は上(のぼり)。



    黒南風(くろはえ)  梅雨入りの頃、どんよりと曇った日に吹く南風。

    風の強さの表現 (ビューフォート風力階級)

    12 台風(颱風)颶風(ぐふう)    
    11 暴風 烈風       
    10 全強風  
     9 大強風   
     8 疾強風  
     7 強風  
     6 雄風   
     5 疾風   
     4 和風  
     3 軟風  
     2 軽風  
     1 至軽風  
     0 平穏 静穏

    2018年5月2日水曜日

    川上音二郎 承天寺に眠る

    生い立ち


    1864年(文久4年)、筑前国博多中対馬小路町(現在の福岡市博多区対馬小路)に生まれた。
    福岡藩黒田氏郷士及び豪商・川上専蔵の子。
    論語孟子を学び、旧制福岡中学校の前身に進学するが、継母と折り合いが悪く、1878年(明治11年)、家を飛び出し大阪へ出て、さらに出奔し東京へ行った。
    (明治38年12月、鶴乃子本舗石村萬盛堂は、川上音二郎が所有していた中対馬小路の実家の一角を借りて誕生した。)
    福岡中学の前身の場所

    増上寺の小僧をしていた時に、毎朝寺に散歩に来る福澤諭吉と出会い、慶應義塾学僕(雑用を手伝いながら勉強する生徒)・書生として慶應義塾に学び、一時は警視庁巡査となる。
    その後反政府の自由党壮士となった。1883年(明治16年)には立憲帝政党員となり、旧福岡藩士を中心にした玄洋社の結成にも参加。

    オッペケペー節

    1883年頃から、「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行った。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。

    やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、1889年(明治22年)から1894・95年(明治27・28年)の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。 

    川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。東京でもオッペケペー節が大流行した。
    川上は1893年、フランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。

    川上音二郎

    1894年、郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)と結婚した。 伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきた。
    音二郎・貞奴


    戦争劇・新派劇

    1894年、日清戦争が始まると、いち早く戦争劇「壮絶快絶日清戦争」を仕立てた。続いて川上は朝鮮半島に渡って戦地の状況を実見し、それをもとに「川上音二郎戦地見聞日記」を上演。これらの戦争劇は大評判となった。
    同年末には、泉鏡花の小説を舞台化した「滝の白糸」を浅草座で上演。この作品は新派劇の代表的な演目になった。

    海外興行・翻訳劇

    1899年(明治32年)、渡米して現地で興行を行う。このとき、妻・貞奴が舞台に立つことになった。シカゴボストンサンフランシスコなどで甚五郎や道成寺などを披露し、東洋の珍しい演劇として話題を集めた。
    ニューヨークでは、アルフォンス・ドーデ原作の『サッフォー』を日本版に翻案した芝居も演じた。貞奴は貴婦人協会に招かれ、女優クラブの名誉会員に選ばれた
    1900年(明治33年)には、日本通で知られるロンドンアーサー・ディオシーの歓迎を受け、彼の友人の舞踏家ロイ・フラーや女優サラ・ベルナールに紹介され、フラーの支援を受けて パリ万博で公演し、米国興行に続いて人気を博した。
    欧米巡業中、1902年(明治35年)11月1日に日本の俳優として初めて勲章を授与される。フランス大統領エミール・ルーベより官邸のエリゼ宮殿にて、オフシェー・ド・アカデミー三等勲章((外国人に贈られる最高章)を授章した。
    1903年以降、『オセロ』『ハムレット』『ヴェニスの商人』など翻訳劇を積極的に上演し、メロドラマ中心になった他の新派劇と一線を画そうとした。
    1908年(明治41年)興行師として成功し、現在の大阪市中央区北浜四丁目に洋風の劇場・帝国座を開場する。同時に帝国女優養成所を創設。
    1911年(明治44年)、急性腹膜炎により11月4日から昏睡状態となり、11月11日に貞奴の願いにより運ばれた帝国座の舞台上で死去]。享年48。

    音二郎の遺跡
    「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言により、当時博多駅が近くにあった承天寺に葬られる。
    福岡市営地下鉄「中洲川端駅」音二郎像


    音二郎は1月1日に生まれ、11月11日に亡くなり、そして、今年は111回忌。(2021)


     近代演劇の川上音二郎ですが、自由民権運動の旗手でもあるのです。宮崎滔天が浪曲師となって、無学文盲の庶民に自由民権を鼓舞した如く、音二郎はオッペケぺー!で、議会制民主主義の底の浅さを揶揄しました。明治時代のパロディは、そのまま、現代にも十二分に通用します。
     代表作『博多っ子純情』で知られる漫画家の長谷川法世さんが、体調不良の中、挨拶をされました。しかし、声が切れ切れで、切なくなるほどでした。


    マスコミ各社が多数きていましたが、博多市民センター(読売新聞)が、来月、法世さんにインタビューするとのことでした。
     法要は承天寺(福岡市博多区)の仏殿で行われたのですが、仏殿の写真を撮影したら、各所に大きなオーブが映っていました。音二郎を慕った役者さんたちなのか、はたまた、貞奴さんが「派手に、音二郎さんを供養しなくちゃ!」と呼んできた見えない方々なのか?。







    神奈川県茅ケ崎市にある川上音二郎の別荘跡は、現在、茅ケ崎市美術館になっている。

              萬松園(川上音二郎邸跡)

    別荘跡
    東京の泉岳寺にも墓碑があり、銅像もあったが、芸人風情が・・・ということで、銅像は谷中に移された。
    海外公演での招魂碑は、泉岳寺にでようやく、立て直した。(不要なら、神奈川県茅ケ崎市が引き取ると言っていた。)

    2018年5月1日火曜日

    藤の花

    私の名字は藤野、生まれは5月上旬。
    行く春のうしろを見せる藤の花(一茶)
    藤は春と夏の境に咲く。

    「藤」の姓名は、西日本では福岡県北部の筑前、対馬、香川県の讃岐、徳島県の阿波、兵庫県の日本海側である但馬などに多く、関東では群馬県の上野などにみられる。
    私の小学校には大きな藤棚があった。
    福岡地区の藤棚はあちこち見物に出かけた。
    はじめての持ち家では、駐車場の屋根を藤棚にした。
    4,5年で綺麗な花が咲くようになったが、あとの手入れが大変で、10年程で撤去してしまった。
    その後古賀の周辺で藤の名所といえば、浄光寺、八所宮位である。河内公園や、武蔵寺なども出かけた。