2018年7月31日火曜日

安曇族の歴史(その二)

志賀島の安曇族が、信州に移動したことは知っていたが、最近NHKテレビで、信州の安曇族の遺跡や神社、信仰行事などを詳しく紹介していた。
安曇市や上高地の明神池には、昔でかけたことがあったが、当時は安曇族との関係には無知であったので、あらためたまとめてみた。

「穂高見命」を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にある。
その奥宮は、北アルプス穂高岳のふもとの上高地の明神池の近くに祀られておる。


嶺宮は、北アルプスの主峰奥穂高岳の頂上に祀られている。


穂高見命は海神族 (かいしんぞく)の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)である安曇族は、もとは北九州(志賀島など)に栄え、主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であった。

醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に選定された延喜式の神名帳には、名神大社に列せられて古くから信濃における大社として朝廷の尊崇篤く殖産興業の神と崇め、信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられている。

穂高神社の御船祭(御船神事)は、毎年9月 に行われ、船型の山車に穂高人形を飾った大小5艘のお船が笛や太鼓の囃子(はやし)にのり、氏子衆によって神社へと曳き入れられる。境内を練り、神前を曳き廻るうちには、お船が激しくぶつかりあい、その壮大な迫力は、観衆を圧倒する。


 お船の起源は穂高神社の祭神が安曇族の祖神(おやがみ)である海神をお祀りし、司っていたこと、大将軍安曇比羅夫の船師を率いての百済教援、又氏族の朝廷での活躍などで、平安時代の標山、室町時代の神座の山車等に原形を見ることができるという。


全国に展開している安曇族の活動は、徐福伝説と通じるものがある。

令和4年11月に、ブラタモリでも安曇の歴史で、安曇族が九州から北上してきたことが紹介された。

2018年7月29日日曜日

縄文時代の土偶や土器

NHKで縄文時代の土偶の解説を試みていた。
その美を、死者が再生するという信仰の世界で意義付けしていた。
しかし土偶の殆どが女性像であり、女体の魅力をあらわす造形がおおく、性器や妊婦などもあって、中には妊婦の腹の中に子供をいれたものもある。死者の再生というよりも、子造りのための儀式を連想させられる。
旧人類の人骨は、ネアンデルの谷(タール)で発見された人骨だから、旧人類にこの名前がついた。

その後、旧人類から新人類(ホモサピエンス)に交代していった真相を追究する大プロゼクト研究(約100名)が続けられた。



その結果、原人時代にはいり、アフリカからアジア、欧州にひろがった旧人と新人が、微妙にわかれて進化したが、旧人は滅亡していったことがわかった。



その原因は、新と旧で、学習能力の差にあったこと、そして、旧人は20人位の集団生活だったが、新人は150人位の大集団生活だったのが学習能力の差となったことなどが、このプロジェクト研究で、結論付けられた。
青森県風張1遺跡
長野県棚畑遺跡
群馬県東吾妻町

山形県舟形町



日本の縄文人は、ホモサピエンスだったが、島国で大集団で生活できる環境がなく、小集団の生活を強いられていた。

総人口26万人くらいで、九州、中国、関西、関東、青森など文化の地域性が強く、各地域に、血縁性の強い集団が住み、祖先を崇拝する神話的宗教、文化が育っていた。
そのため、1万年もの間、農耕などの新技術をしらずに、原人時代以前の古い生活を続けていたのだろう。
子供の死体は土棺に収め、再生を願って埋葬されていただろうが、土偶は、さらに子孫絶滅を防ぐための、女性の祈りの儀式や祭りのために、つくられたと想像できる。
実用的な金属はの道具や武器の開発はできなかったが、人間的な土器や土偶の制作にたいする美術的なすぐれた感覚は習得していたことがわかる。
縄文土器や土偶の展覧会が、国内やフランスで開かれ、大きな関心を持たれていることは、嬉しいことだ。





2018年7月25日水曜日

百武源吾

百武 源吾1882年明治15年)1月28日 - 1976年昭和51年)1月15日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大将佐賀県出身。

兄・三郎と源吾は海軍兵学校を首席卒業し、ともに海軍大将となった日本海軍史上唯一の兄弟である。

第7代九州帝国大学総長

百武源吾は、昭和20年3月から10月まで九大総長をつとた異例の海軍大将である。

この年4月に入学したわたしは、2回ほど総長の訓話を聞いた記憶がある。国民服姿の単身赴任であった。

軍隊と異なり大学では、総長が研究室を視察して回っても、研究員は知らん顔をしている。そこで教職員用の瀬戸物バッジを作らせ、挙手の礼を実行させようとした。

また、学生は将校の候補生だから、軍刀の用意をする必要があると、講話された。これを父親に話したら、早速一刀を購入してきたので驚いた。

西部軍では、協定を破って医学研究者の召集を行っていたので、軍人総長は西部軍と折衝して復学させたという。

それ以外は、短期間で敗戦となり、研究費や研究資材の増加などの貢献をみることはなかった。

昭和20年4月から、夏休みなしで講義はつづけられたが、8月15日の敗戦後2ケ月くらいは休講状態で、退任の挨拶もなかった。

百武大将は、海兵30期首席卒だったが、開戦反対派だったため「恐米病者」とみられ、昭和13年から予備役に編入されていたという。

前の荒川総長がクリスチャンで、戦争非協力者の印象が強かっため、任期満了にあたり、本土決戦下の大学で、異例の軍人総長がえらばれたようだ。

しかし退任後は、大学総長の経歴を一切消去して、郷里の佐賀で、農業生活に専念し、93歳の長寿を全うされた。


百武源吾(ひゃくたけ・げんご)海軍大将の経歴:
佐賀・海兵三〇首席・海大一一・海軍大学校兵学教官・大佐・装甲巡洋艦「春日」艦長・教育局第一課長・フランス出張・国連海軍代表・少将・海軍大学校教頭・軍令部第一班長・第五戦隊司令官・中将・軍令部次長・海軍大学校校長・練習艦隊司令官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・艦政本部長・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・高等技術会議議長・予備役
・九州帝国大学総長・正三位・勲一等・功五級
佐藤三郎(海軍中将)の義兄にあたる

2018年7月23日月曜日

権力者の晩年の不運


1)平清盛
清盛は、50歳で太政大臣となり、出世の頂点に達する。
その後、高倉天皇を擁立し、安徳天皇が生まれる。
60歳のとき、長男重盛、次男宗盛を左大将、右大将に任命させる。
しかしこれからが不運の連続である。
62歳で長男重盛が病死し、世論は平氏の横暴に反逆しはじめる。
以仁王の反乱、源頼朝の反乱、平氏軍の敗北とつづき、
64歳で清盛が高熱の病に倒れ、死亡する。

沖学園

学校法人沖学園は、昭和16年、沖四郎により開かれた「興亜珠算道場」をルーツとしている。
この道場は、住吉神社の近くの管弦町にあった。
うちの家内は、小学生のころ、沖先生に珠算を習った記憶があるという。
戦後は「博多経理専門学校」を経て、昭和33年、優れた博多商人を育てたいという初代校長の沖四郎先生によって「博多商業高等学校」が創立された。
博多商業高等学校では、知・德・体の全人教育を通して豊かな人間形成を行ってきた。
その後、昭和62年に校名を「沖学園高等学校」と改め、普通科を開設し、平成4年には、中高一貫校の「隆徳館」を開校した。
さらに、平成9年には、新しい時代のニーズに応えて社会総合学科を開き、文武両道の校風の下、産業界をはじめ、文化、スポーツ各分野において、多くの逸材をこれまでに輩出している。
最近は、野球やゴルフ選手の出身校として有名で、今年の高校野球では、福岡県の南福岡地区の決勝戦を制し、甲子園出場を勝ちとった。
創立者・沖四郎の言葉「四心必不可忘」は、今なお校訓として生き続けている。 
四心とは、

一、「ありがたい」という感謝の心
一、「はい」という素直な心
一、「させていただく」という奉仕の心
一、「すまなかった」という懺悔(ざんげ)の心

2018年7月14日土曜日

博多山笠の歴史と古島一雄

博多山笠の歴史をみると、明治31年に中止させられそうな危機があった。
当時、新任の県知事曾我部道夫が、山笠を中止するよう福岡市議会に申し渡した。
理由は、山笠がたびたび電線を切る事故が起こる、半裸の男が町を練り歩く、冷酒をガブガブ飲み非衛星的など。
この頃は官選の知事で政府の威光で、強気だった。
博多っ子は対抗策を求めて、玄洋社社長進藤喜平太(一馬の父)が、九州日報の主筆,古島一雄に助けを求めた。
継続の趣旨に賛同した古島は、翌日から山笠擁護キャンペーンをはじめた。
博多っ子も連日櫛田神社にあつまり、県庁まで廃止反対の陳情に押し掛けた。
この世論の勢いに負けて、当局も古島に仲裁方を申し入れてきたという。これで山笠中止はまぬがれ、行事の在り方が改善されたという。
写真の前列右端が古島一雄で頭山のとなりに座っている。
その後古島は政界で活躍し、戦後、幣原内閣が組閣された際、入閣を要請されたが固辞する。また、昭和21年(1946年)5月に日本自由党総裁の鳩山一郎が公職追放となった際に、後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳に就任を懇請されるも、これも老齢を理由に固辞し、幣原内閣の外相だった吉田茂を強く推薦した。以後、占領期の吉田の相談役となり「政界の指南番」と称された。昭和27年(1952年)5月26日、死去。享年81。
https://ja.wikipedia.org/wiki/曽我部道夫
https://ja.wikipedia.org/wiki/古島一雄

曾我部道夫
前列:犬養・頭山・古島

2018年7月12日木曜日

水攻めされた備中高松城

備中高松城周辺の地図

倉敷市真備町の水害地区と高松城
平成30年の西日本の豪雨被害で、町が水没し多くの死者がでた倉敷市真備町。
高梁川と小田川の合流地点で、ウオーターバック現象がおきて、小田川が氾濫し、町の30%近くが住宅の2階まで浸水したという。
その東北方向に十数キロの所に、戦国時代に秀吉が水攻めした備中高松城がある。
こちらは、人為的に堤防を築いて水を堰き止め、城を水没させたのだが、時期や地形の類似性を感じる。