2019年2月24日日曜日

半跏思惟像(更新)




 京都 広隆寺と奈良 中宮寺(法隆寺東伽藍)に、国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像がある。広隆寺には宝冠と泣き顔と二つの像がある。
この三像はいずれも木製で国宝である。
その他に大阪 野中寺には、重要文化財の金銅製像があるようだ。
宝冠弥勒菩薩
広隆寺(京都)
国宝


泣き弥勒菩薩
広隆寺(京都)
国宝



弥勒菩薩(如意輪観音)
中宮寺(奈良)
国宝
寺伝では如意輪観音だが、これは平安時代以降の名称で、当初は弥勒菩薩像として造立されたものと思われる。国宝指定の際の官報告示は単に「木造菩薩半跏像」である

広隆寺、中宮寺は共に、七世紀飛鳥時代に創建された聖徳太子ゆかりの寺である。
広隆寺は太子が本尊として祀られており、渡来系氏族の秦河勝が創建と伝えられる。筑紫の粕屋評連の舂米連広国が献納した国宝の梵鐘もある。
中宮寺は、太子の母・間人皇后あるいは太子ご自身が創建とされている。
仏像の作者は、定かではないが、仏教伝来間もない時代なので、作者も渡来系氏族の人物かも知れない。用材は朝鮮半島から献上されたアカマツを使って、日本で彫ったものと考えられる。
 半跏思惟のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、欠かすことの出来ない地位を占める作品である。
また国際美術史学者間では、この像の顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれている。
 半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な造形は、いかにも人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえている。

斑鳩の里に伝統千三百余年の法燈を継ぐ中宮寺の、この像は、その御本尊として永遠に私たちを見守ってくださっている。
泣き顔のほうは、俗人の悩みを真剣にうけとめて、共に苦しみを分かち会ってくれている姿である。
ロダンの考える人のポーズも半跏思惟であり、テレビの健康番組によると、腰痛・冷え性・睡眠改善などの効果がある姿勢らしい。
聖徳太子信仰のわが家では、中西金作氏が昭和初期に織られた中西式電気博多織の広隆寺宝冠弥勒菩薩像を、居間にかざっている。





現在、韓国には、広隆寺の弥勒とそっくりの仏像が、ソウル中央博物館に存在する。金銅弥勒菩薩像がそれで、昭和51年に日本でも展観された。素材が木と金銅の違いはあるが、瓜二つというくらいよく似ている。

2016年、東京国立博物館4月20日に開かれた特別展主催者による記者発表会では、アジア文化芸術協会会長の大橋一章・早稲田大学名誉教授らが半跏思惟像の歴史や見どころを紹介した。


①製造年代がなぜ分かるか

韓国の半跏思惟像はソウル・韓国国立中央博物館が所蔵する国宝78号像。銅造で高さ83センチ、6世紀後半の作とされる。韓国を代表する国宝だ。

日本からは奈良・中宮寺門跡に伝わる国宝の半跏思惟像。クスノキ材で高さ約123センチ。7世紀後半の作とされる。50円切手のデザインにもなって親しまれてきた。

両像には製造年月の銘文がないのになぜ「6世紀後半」とか「7世紀後半」と分かるのか。大橋名誉教授によると、基準となる同時期の他の作例との比較などから、おおむね時期が特定されるという。

②日本でどうやってつくったか

古代の日本に仏教が伝来したのは6世紀。最近では538年説が有力だ。百済の聖明王から経典などがもたらされた。しかし、当時の日本ではまだ独自に寺や仏像を造る技術がなかった。577年、百済から技術者集団(造寺工や造仏工)がやって来る。彼らに学んで日本での本格的な仏像づくりがスタートした。「技術を習得して一人前になるまでに10年ぐらい修業しただろう」と大橋名誉教授は見る。

③どんな名前だったか

半跏思惟像という形式の仏像は、紀元1~3世紀のガンダーラ仏教のころからつくられていた。釈迦が思索する姿を表し、釈迦の名前から当時は「シッダールタ太子像」と呼ばれていた。それが、中国を経て朝鮮半島に伝わると、同じポーズの仏像が弥勒菩薩像と呼ばれるようになる。そして日本では次第に如意輪観音とか救世観音と名前を変えた。地域や時代によって名称が変化している。今回の展覧会では「弥勒」や「観音」の名は付けず、単に「半跏思惟像」と記している。

「日韓関係の新しい一歩になれば」④なぜ「広隆寺の弥勒菩薩」が出品されないか

日本で有名な半跏思惟像といえば、中宮寺のほかに京都・広隆寺のものがある。「広隆寺の弥勒菩薩」として親しまれている。なぜ今回の展覧会には出品されないのか。記者発表会ではそんな質問も出た。

主催者側の説明によると、広隆寺の弥勒菩薩はアカマツ製。当時の日本の仏像はクスノキ製がほとんどだったので、異例だ。朝鮮半島からの伝来仏ではないかという説も根強くある。

今回の展覧会は、古代の両国の文化交流を考えようというのがねらい。6世紀に韓国でつくられた像と、その影響を受けて7世紀に日本でつくられたことがはっきりしている像を並べることに意義があるという。「百済から習った仏像づくりを50~60年かけて日本化した」(大橋名誉教授)のが中宮寺門跡の像であり、両方の像を見比べながら類似や違いを味わってほしいというわけだ。

2体の「半跏思惟像」に象徴されるように、古代の日本と朝鮮半島の関係はきわめて緊密で往来も盛んだった。ところがこの数年、関係が冷えこむ。

今回の合同展のアイデアは2年ほど前から民間ベースで動き出していたという。昨年12月の「日韓合意」で交渉が後押しされたそうだ。同展の実行委員会には千玄室・裏千家大宗匠、鎌田薫・早稲田大学総長、榊原定征・経団連会長、森喜朗・元首相、宮田亮平・文化庁長官ら、政財界や文化関係の重鎮の名前が並ぶ。

巴里のブラタモリ






 






パリーの街はシテ島からはじまり、周辺に拡大していった。行政地番も螺旋状に周辺にひろがっている。世界の華の都として観光客がおとずれるので有名だ。

地形や地質の探索をするブラタモリも、地下の石材発掘跡の調査はしたが、大半は著名な観光地めぐりであった。

ただ夜の観光地であるモンマルトルのムーランルージュまでめぐって、カンカンおどりの音楽を歌ったのははじめてのことだった。

しかし今一つの名所リドの方は、シャンジェリゼの街中にあるし、外観もムードがないので、パスしたようだ。

2019年2月23日土曜日

名探偵登場のあらすじと評価




名探偵登場:1976

コロンボ刑事役で有名になるピーター・フォークが登場する映画である。

「あなたを晩餐と殺人に御招待します」という手紙をもらった世界的に有名な5人がライオネル・トウェイン(トルーマン・カポーテ)邸にやって来る。

5人はいずれも映画・小説で、おなじみの探偵のパロディ。

鼻下に美髯をたくわえた美食家ミロ・ペリエ(ジェームズ・ココ)がエルキュール・ポアロ。

警句をしじゅう口にするシドニー・ワン(ピーター・セラーズ)はチャーリー・チャン。

都会的で洗練されたディック(デイヴィッド・ニーヴン)とドラ(マギー・スミス)のチャールズトン夫婦はニックとノラのチャールズ夫妻。

トレンチコートを着て唇の端から発音するサム・ダイヤモンド(ピーター・フォーク)はサム・スペード。

お人好しのジェシカ・マーブルズ(エルザ・ランチェスター)はミス・マープルのもじりである。

彼らが落ちかかった橋を渡り、玄関まで来ると屋根から石像が落ちてきたり、呼鈴は「女の叫び声」というように「晩餐と殺人」の招待にふさわしい歓迎だ。

その上、彼らを出迎えた執事のベンソンマム(アレック・ギネス)は盲目でとんちんかんな言動をして客を戸惑わせた。

新しく雇われた料理女イエッタ(ナンシー・ウォーカー)は聾唖者だったからベンソンマムの指示が理解できず、晩餐は何の仕度もされなかった。

全員が食卓につくが料理がなく、ペリエは怒り出す。

その時、突然トウェインが現われる。彼は「12時に殺人が起きる。その犯人もこのテーブルにいる。真犯人を指摘した人に税抜きで100万ドルと、その出版権と映画化権をさしあげよう」と挑戦して姿を消す。

調理室で執事の死体が発見され、2度目に見に行くと死体がきえ衣服だけが残っている。

イエッタがロボットであることがわかる。

右往左往しているうちに12時になる。ドアがあき、背中をナイフで刺されたトウェインの死体が出現。

居間に移って議論した結果、5人はいずれもトウェイン殺しの動機を持っていることがわかる。

ディック・チャールズトンは破産してトウェインに借金がある。

サムはゲイ・バーにいた時に写真をとられ、彼の助手兼愛人のテス・スケフィントン(アイリーン・ブレナン)は姪に当る。

ワンは養子で19歳の時に東洋人であることを知ると放逐した。

マーブルズは婚約していたが、結婚前に彼がいやらしい事を求めたので破談になり、

ペリエは愛犬をトウェインに殺された。

翌朝、死んだ筈のトウェインが書斎に現われる。

ワンが彼に「君は本当はベンソンマムの変装だ」ときめつける。

マーブルズは彼を弁護士のアーヴィング・ゴールドマン、チャールズトンは会計士のマーヴィン・メッツナー、ペリエはライオネルの妹リタ・トウェイン、サムは自分は俳優のJ・J・リーミスで彼が本物のダイヤモンドだと言う。

トウェインは、「自分は本当にライオネル・トウェインだ。君たちは、小説で多くの読者を悩ましてきたが、その推理もたいしたことはない」と嘲笑する。

探偵達はたち去る。その後にトウェインがマスクを取ると、何と、そこにあらわれたのは聾唖者の筈の料理女イエッタの顔だった。邸中に彼女の笑い声がひびきわたった。...

評価1:
喜劇ということで冒頭からくだらなさが全開、しかしただくだらなくてさっぱり笑えない。唯一可笑しかったのは「まだ温かい食事も冷たい死体も用意してもらっていない」という科白くらい。当時の人々はこれを観て笑ったのかな?

物語は支離滅裂でもう無茶苦茶、何がしたいのか全然わからない。当時の人々はこれを観て納得したのかな? さっぱり面白くなかった。

評価2:
この映画の面白さの魅力は大きく分けて2つある。

先ず、よく練られた見事な脚本! 二転三転するストーリー、随所に謎解きの要素を散りばめながらなおかつそこに笑いを挟む巧みさ、あっと驚く結末等、流石ブロードウェイ喜劇の名脚本家、ニール・サイモン書き下ろしなだけはある。

そしてそれぞれの探偵を演じる役者の素晴らしさ! D・ニーヴンをはじめ、P・セラーズ、P・フォーク、M・スミス、A・ギネスと、個性的な彼ら各々の妙演が映画の面白さを何倍にも膨らませている。まさに見どころ満載といった、コメディ映画の快作。

疑問:

何故盲目の執事や、聾唖者の料理人を雇ったのか?

ただ驚かすためにそう演じさせたのか?

料理人は、トウェインにどんな恨みをもっていたのか?

セリフの何処かに言わせていたのか?

名探偵再登場:1978

ハンフリー・ボガート風を装った私立探偵が6人の美女を相手に大難事件に体当りする、従来の私立探偵映画のパロディ版。

製作はレイ・スターク、監督はロバート・ムーア、脚本はニール・サイモンで、前作「名探偵登場」のトリオ。

1940年代、第二次世界大戦のさなか。サンフランシスコの一隅に小さなオフィスをかまえる私立探偵のルー・ペキンポー(ピーター・フォーク)は、儲ってこそいないが、珍事件や難事件に追われ、多忙な毎日を送っていた。

そんな中、彼の相棒が何者かに殺され、その未亡人ジョージア(マーシャ・メイソン)の証言で、なんとペキンポーが容疑者になってしまう。


彼は早速真犯人探しにのりだした。この難事件には『12個のダイヤモンドの卵』と呼ばれる高価な美術品がからんでいることをつきとめる。それは、マルセル(ジェームズ・ココ)が経営しているカフェで、常連の小男のペペ(ドム・ドルイス)がその美術品を捜し出して欲しいと頼んできたからだった。

そのカフェで、ペキンポーは、昔、彼が恋した美しいマルレーヌ(ルイーズ・フレッチャー)に会い、彼女の夫ポール(フェルナンド・ラマス)の国外逃亡の協力を依頼される。警察に追われる身のペキンポーだったが、マルレーヌのためにナチのシュリッセル大佐(ニコル・ウィリアムソン)や歌姫のベティ(アイリーン・ブレナン)の裏をかいてポール逃亡に協力する。

モンテネグロ夫人(マデリーン・カーン)や大富豪のジャスパー(ジョン・ハウズマン)、その手下、ボーイ(ポール・ウィリアムス)、そして老人の美術収集家エズラ(シド・シーザー)や彼の若妻の美人ジョゼベル(アン=マーグレット)らの、複雑な陰謀にかかりペキンポーも窮地に追いこまれる。

その間にも刑事たち(エイブ・ヴィゴーダ)の追求の手はのびてくる。まわりはみんな怪しい人間ばかりだが証拠はない。忠実な女秘書ベス(ストッカード・チャニング)も信用できない。事件は意外な方向へと展開され、さまざまな仕掛けが用意される。

しかし、ペキンポーは、それらを突破し、ついに真犯人をつきとめるのだった。...

2019年2月17日日曜日

鹿児島県の金山

菱刈町は、江戸時代において産金地であった。
そのため、昭和40年代より金属鉱業事業団(現:独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が金鉱探査を行い、1981年(昭和56年)に鉱脈を発見した。
住友金属鉱山により1985年から採鉱が行われている。

ここにおける産金量は日本の年間国内産金量のほぼ全てを占めている。

菱刈鉱山における推定の金埋蔵量は250tと推定され、これは国内の他の主要金山全てを合計したものを上回る大規模なものである。

1997年(平成9年)には鉱山の累計産金量が国内トップ(83t)となった。

探鉱自体は継続的に行われており、2012年(平成24年)には新たな鉱脈も発見された。

その他の操業中の鹿児島県の金山は、つぎの3ケ所がある。
  1. 赤石鉱山(あけし)…金・銀(操業中)三井串木野鉱山(株)-南九州市知覧町
  2. 春日鉱山(かすが)…金・銀・銅・アンチモン(1901年~操業中)春日鉱山(株)-枕崎市西鹿籠
  3. 岩戸鉱山(いわと)…金・銀(操業中)三井串木野鉱山(株)-枕崎市

すでに閉山、廃坑になった金山跡は、つぎの16ケ所である。
  1. 大口鉱山(おおぐち)【牛尾鉱山】…金・銅・アンチモン・水銀(慶長年間~1977年閉山)鯛生鉱業㈱-大口市
  2. 王ノ山鉱山(おうのやま)…金・銀(閉山)-大口市
  3. 花岡鉱山(はなおか)…金・銀・鉛・亜鉛・マンガン(閉山)-鹿屋市花岡町
  4. 荒川鉱山(あらかわ)…金・銀(1960年閉山)日本鉱業(株)-いちき串木野市荒川
  5. 鹿籠鉱山(かご)… 金(1943年4月閉山)-枕崎市
  6. 山ケ野鉱山(やまがの)…金・銀(鎌倉時代発見?→1640年~1965年閉山)㈱島津興行-姶良郡横川町
  7. 郡ケ野鉱山…金・銀(閉山)-揖宿郡頴娃町
  8. 栗野鉱山(くりの)…金(閉山)-栗野町
  9. 谷山鉱山(たにやま)…金・モリブデン(閉山)-谷山市錫山
  10. 仁田鉱山(にた)…金・モリブデン(閉山)-屋久島
  11. 梅溪鉱山(ばいけい) … 金・鉛・モリブデン・タングステン(閉山)-熊毛郡上屋久町
  12. 大谷鉱山(おおたに)…金・銀・鉛・亜鉛(閉山)-指宿市今和泉町
  13. 永野鉱山【山ヶ野】(やまがの)… 金(1953年閉山)- 薩摩郡薩摩町
  14. 布計鉱山(ふけ)… 金(1976年閉山)ラサ工業(株)-大口市布計
  15. 入来鉱山(いりき)… 金・銀・テルル(閉山)-薩摩郡入来町
  16. 串木野鉱山(くしきの)【芹ヶ野金山(せりがのきんざん)、荒川鉱山、羽島鉱山、芹場鉱山】…金・銀・銅・鉛・亜鉛(1658年~1994年閉山・製錬のみ稼動)三井串木野鉱山-いちき串木野市

薩摩藩が、江戸時代に密輸により雄藩となったのは、この金山のお陰であったのだろう。


2019年2月11日月曜日

銅鐸の謎


日本の古代史のなかで、銅鐸に関する研究は一番遅れているように感じる。
先日のNHK番組で、珍しく銅鐸が取り上げられたたが、歴史的解析は浅いものであった。
製作技術の難しさは実験により確認されていたが、その使用目的、製作した民族、製作が中止された理由などは、表面的な解説であった。
手元の図書やネット検索で、銅鐸の謎を少しまとめてみる。

1)銅鐸の製作された時期:
弥生時代に製作されていたという文献が多い。NHKでは卑弥呼が製作を中止させたとしていたが、古墳時代まで製作されたとする説(藤森栄一、大羽弘道)もある。

2)製作の目的:
弥生時代は稲作が広がった時代で、これに関連した行事に利用されたと考える文献が多い。
日時計であった、金を精練した、さらには入浴用の湯沸しである、ユダヤの秘法に関係する……といった、珍説奇説もあるが、現在最も有力なのは、農耕祭祀(さいし)の祭器(さいき)として使われたという説である。
田植えの終わった後と、秋の収穫の後に、人々が鬼神を祭って昼夜休まずに歌い踊り酒をのんだ。このような祭で銅鐸は使われたのであろう。
鐘の音を鳴らす機能の構造だが、末期の大型のものは、絵文字による記念碑的な目的とも考えられる(大羽弘道)。

3)絵文字の解読:
稲作時代の田園風物詩、稲作作業の手順教科書などの説、豪族の歴史や業績の記録という説もある。
絵のなかには、米を保管する高床式(たかゆかしき)の倉庫、米搗(こめつ)きの情景といった農耕に関するものがあり、絵の動物の多くも稲作に関係すると考えられる。
弥生人が最も多く食べた動物はイノシシだが、銅鐸の絵画にはシカが最も多く登場する。奈良時代に編集された『播磨國風土記』には、シカの血に種を播くことにより稲がはやく発芽するという呪術的な儀礼が記されており、シカの生命力が稲の成育を助けるという信仰があった。またシカの角が毎年春に生え、夏秋と育ち、冬にはとれて落ちてしまうことを、植物の再生・成育・死と関係づけていた。



4)銅鐸を使用した民族:
銅鐸民族(中国の戦国時代を生き延びた難民)は大陸から侵入した後、縄文人の駆逐には成功したが、あくまでも銅鐸による情報伝達に固執し続け、文字文化にたどりつけなかったために、天孫族の前にあえなく壊滅したという説(臼田篤伸の説)がある。
このような一部の民族でなく、弥生民族のなかの、銅鐸信仰民族という考えが一般的である。

5)銅鐸の埋納:
銅鐸は、弥生時代末期(3世紀半ば)に忽然と消えたのはなぜだろうか。
銅鐸は、当時の集落から離れた、山の斜面のような所から特別な施設も作らずにそれだけ埋めた状態で出土することがほとんどなので、使用しない間、大地の生命力が宿るように銅鐸を土の中に埋めて保管していたと推定する研究者がいる。
銅鐸は破壊された状態で埋蔵されたものも多いので、ある時期から排斥されたと考えられている。
その後古墳時代となるが、古墳が銅鐸民族を虐げることが目的で築造されたという説もある。単なる大陸文化の流行変化への追従だとするのが一般的な考えであろう。


このように、銅鐸の祭祀や埋納についてはまだまだ不明な点が多く、これが解明されれば、弥生時代の社会のありさまが、より明確になるはずである。

宗像出身の花田勝広氏は、奈良大学で考古学を学び、滋賀県野州市教育委員会で 銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)に関わり、郷里宗像の田熊石畑遺跡の保存運動にも積極的に参加し、「古代の鉄生産と渡来人」という著書などもある考古学者である。一度地元で話を聞きたいと思う。

https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/銅鐸
https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/45dotaku.html

2019年2月6日水曜日

徳島城と阿波おどり






徳島城は豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜り、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した城。
以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。
城は明治維新後に破壊されて以前訪問したときは、御殿跡が徳島城博物館となっていたが、昨日のテレビでは昔の幻の天守が3DのCGで再現されているそうだ。
城下町はどこも城の復活に努力をしている。

今日のブラタモリでは、徳島の阿波踊りが盛んになった歴史を調べていた。
徳島市は吉野川の河口付近のデルタ―地帯にあり、川や橋が多い。
江戸時代には、武家屋敷の面積が広く、町人の街は狭かった。
藍が特産品で、藍商人が街の活性化のため盆踊りをはじめたが、広場がないので通路や橋の上を利用した行列踊りになったという。


2019年2月3日日曜日

巨大古墳の時代(更新)


下の新聞記事のように、近々、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録されそうであり、仁徳天皇陵は2018年の歴史ニュースの1位だったので、その歴史的背景をまとめてみる。

左:百舌鳥古墳群;右:古市古墳群

応神・仁徳天皇陵は伊勢神宮と明石海峡を結ぶ一つの直線上にある。

大形古墳は、4世紀には大和盆地内の柳本古墳群、佐紀古墳群からはじまる。
しかし5世紀から大阪平野(和泉・河内)にうつり、古市・百舌鳥古墳群に移動する。倭五王が活躍した時代である。
 
王墓の移動の意味については二つの説がある。

1)巨大古墳は本来その勢力の本拠地に造営するのが原則という説。

奈良盆地の勢力に替わって、大阪平野の勢力が、ヤマトの王の地位についたとみるのが、自然である。
 その勢力は、河内南部と和泉北部の連合勢力で、交互にその盟主についたと考えられる。
①②③は古墳の大きさの順位
2)王墓の位置は政治的拠点を意味しないという説。

大阪平野には、政治拠点となる王宮の遺跡が見当たらず、大阪平野の勢力は、生産機構の勢力の活動舞台であったらしい。
のちの継体朝の成立時に、継続されていた奈良王朝と婚姻関係を取り結ぶのは、畿内や列島各地の首長層の承認をうるためであったと考えられる。
白石太一郎氏は、邪馬台国が東遷した当初から、ヤマト王朝は河内と奈良盆地の領域を勢力範囲にしていたという考えだ。
王宮は守りの堅い奈良盆地に置いていたが、四世紀後半になると、朝鮮半島情勢の変化で、河内の勢力が大きな役割をはたすようになり、勢力を拡大した。
しかしヤマト王朝は、伝統的な鏡や玉の製作や宗教的行事などを、奈良盆地で継承していた。
政権の移動ではなく、政権運営の分担分離という見方である。
これが妥当な見方であろう。しかし倭五王が宋書によると、高句麗の南下を防いでくれた功績により、安東大将軍などと持ち上げられた。
最後の武王(雄略)は、驕りをもって独裁権力を握ろうとする暴君の姿で、記紀に描かれている。ヤマト王朝との対立が全くなかったわけではなさそうだ。
https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2019/02/blog-post_39.html

2019年2月2日土曜日

「倭武王」と鉄器と古墳

仲哀ーー応神ーー仁徳ーー履中ーー反正ーー允恭(済)ーー
安康(興)ーー雄略(武)ーー清寧ーー

と、皇室系図はつづく時代である。

この時代の古墳は、平安時代の延喜式に、下図のように、百舌鳥・古市古墳群の天皇陵とが記されているが、現在の考古学研究による築造順と、系図順が整合していない。


島泉丸山古墳(雄略陵)


武(ぶ)、または倭 武(わ ぶ)、「倭王武」ともいう。
5世紀後半(古墳時代中期)の王である。
倭の五王」のうち、「讃」と「珍」については「宋書」と「記紀」の伝承に食い違いがあるため、様々な説があるが、「済」・「興」・「武」については研究者の間でおおむね、

(允恭天皇)の子、(安康天皇)の弟で、「倭の五王」の最後の1人「武」は、第21代雄略天皇に比定する説が有力視される。


記紀では允恭天皇・安康天皇が相次いで死去する伝承が記されており、武の上表文に「奄喪父兄(にわかに父兄を失う)」という記述と対応するからである。

辛亥年(定説は471年)作の稲荷山古墳出土鉄剣銘文「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」や,江田船山古墳出土鉄刀銘文が、雄略天皇の和風諡号「オオハツセワカタケル(大泊瀬幼武/大長谷若建)」と対応する人物とされている。


471年のワカタケル大王の実在・在位が確実視されている。(ただし稲荷山古墳では追葬の可能性があり、鉄剣は注意が必要な資料になる)。
「武」という名は実名の「タケル」を漢訳したものと考えられる。
武の遣使年次が記紀の雄略天皇の年次と合致しないが、武は珍・済の時のように吏僚の任官を求めていないこと、武以後に倭からの遣使が途絶えることなどから、武の時代には倭が冊封によらず王権を維持することが可能となったと考えられる。

武光誠は、ワカタケル(=雄略天皇)が中国南朝との交渉の場において、「若武(ワカタケル)」と名乗らなかったのは、若いの語が国内では勇敢の意味であっても、漢字的には「若い」という語感によって外国君主から軽く見られかねないため、避けたと考察している。
江田船山古墳の鉄剣


五王の時代は、百舌鳥・古市古墳群のような巨大古墳が築かれた時代にあたる。これは国内で鉄器の利用が進み、大陸と対等の外交渉をするために築かれたと思われる。
その末期になる武王の古墳(雄略天皇陵)は、堺の大仙陵古墳(仁徳陵)より小さくなっている。宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に治定されている。遺跡名は「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」で、直径75メートルの円墳・一辺50メートルの方墳の2基からなる(古墳2基を合わせて治定されている)。
この時代は倭国で本格的な鉄器生産が発達して、国内勢力の統一や、海外への派遣も可能になった時代でした。
だから大陸に対抗して、巨大古墳をつくる必要性がなくなっていたと考えられる。
その後仏教が伝わり、権力争いも続き、古墳よりも仏閣造りの時代にかわっていく。
https://ereki-westjapannavi.blogspot.com/2019/02/blog-post_3.html

2019年2月1日金曜日

箱崎宮周辺の昔写真のカラー化

箱崎宮周辺の昔の写真を、九大名誉教授藤野清治氏がAIでカラー化して、箱嶋邸で展示会をされた。

藤野名誉教授





私の稚児写真も幼児時代の微かな記憶をたよりに、CGでカラー化してみた。





父の箱崎尋常高等小学校卒業式(明治42年3月21日)の写真が残っている。
小学生にしては少し大人っぽいが、当時は小学校4年、高等小4年で、いまの中学2年生。高等小は粕屋郡では、箱崎と青柳の2校のみの時代であった。
男子は皆正面を向かず、はらばらなのが面白い。カラー化は省略。