2024年7月30日火曜日

伝来工房:1200年の長寿企業

京都市南区、桂川にほど近い工業エリアの一角に、平安時代から1200年続く傳來工房があります。平安時代は京都に都がおかれ、遣唐使によって大陸からさまざまな文化や技術が日本に伝わった頃で、まさにその遣唐使の一員であったのが、真言宗の開祖として知られる弘法大師(空海)であり、西暦805年に弘法大師によって密教とともに持ち込まれたのが仏像や仏具などの青銅鋳物、すなわち当時最先端の蝋型鋳造法でした。

その高度な技術を会得した優れた職人「御鋳物師」たちにより発足したのが、鋳造技術集団「傳來」です。

なかでも最高の技量の持ち主であると認められた一番弟子によって「傳來」の銘は受け継がれ、それが今日の「傳來工房」の礎となっています。

  • 弘法大師(空海)
  • 「傳來」
  • 「伝来型」仏具





1200年の長きにわたり研鑽を積み重ねてきた「伝来型」という仏具の形式名は、“大陸風の古典的な様式”を指す言葉であり、銅器の本流を受け継いできた「傳來」と語源を同じくするものです。

鋳造技術は時を経て、意匠の変化や様々な技術的分流を生み出してきました。そんななか、傳來工房では長年培った蝋型から、その後鋳造の技術をもとに建築分野へ進出し、材料に新たにアルミを用いることで軽量化や自由な加工性を実現し、皇居、官庁、文教施設などの意匠金属工事のほか、重要文化財の復元工事なども数多く手掛けてきました。

 さらに近代的な機械部品の鋳造や現代的な美術工芸品や建築金物の製造へと進出し、昭和47年には建築物の大型キャスト製品の受注生産に対応するため、新鋳造技術・Vプロセスの設備を業界でいち早く導入しました。

国内屈指の規模を誇るこのVプロセスラインにより、これまで蝋型鋳造で培ってきた原型技術・木型技術を近代建築の場で生かすことが可能になり、村野藤吾、岡田新一、黒川紀章ら著名建築家をはじめ、彫刻家、デザイナーらのイメージを忠実にかたちにするVプロセスの登場は、まさに美術としての鋳物が私たちの手に届く素材になった証でもあります。
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  • 2024年7月29日月曜日

    ヤマザキ製パンの創業者 飯島藤十郎

    玄界義塾で山崎製パンに企業説明を拝聴したが、創業者の話はなかったので、検索してみた。


     飯島 藤十郎(いいじま とうじゅうろう、1910年11月7日 - 1989年12月4日)は、日本実業家山崎製パンの創業者である。

    来歴・人物

    東京府北多摩郡三鷹村に生まれる。16歳で父親を亡くし、旧制中学を中退して新宿中村屋へ勤める。1931年に中村屋を辞して、現在の東京学芸大学にあたる東京府豊島師範学校二部に入学する。後に、中村屋の店主相馬愛蔵の影響でクリスチャンになる。

    師範学校卒業後、東京市内の小学校教員を経て中等教員検定試験に合格し、東京府立航空工業学校体操教師になる。1941年に陸軍から召集されて高射砲兵になる。陸軍少尉に任官。国府台の陸軍部隊に所属した。

    復員後軍隊時代に過ごした千葉県市川市中国分の練兵場跡へ入植し、東台農事実行組合を設立する。1947年のキティ台風時に、被災製紙工場の濡れ藁と小麦30俵以上を交換入手し、製パン業を興すきっかけとする。

    1948年には市川市京成国府台駅前に山崎製パン所を開業した。

    飯島は東台農事実行組合でもパン製造を営んでいたため、食糧管理制度下で製パン業が厳しく統制される中で「飯島」の名前では認可が下りなかったため、未亡人となっていた妹の嫁ぎ先の姓である「山崎」で認可を得て商号を山崎とした。

    当時パンを入手するには地方食糧営団指定の配給パン工場へ行き配給切符で購入するか、家庭に配給された小麦粉を委託加工所へ持参して加工賃を払い、数日後にパンを受け取る方法があり、飯島は後者の事業から身を興している。

    まずはコッペパンの製造を手掛け、次いでロシアパン菓子パンジャムあんクリームパンなど[2])に進出している。1949年に和菓子、1950年に洋菓子の製造を開始した。

    WIKIより:  以下省略

    2024年7月25日木曜日

    現代の矛盾

     【この時代に生きる私たちの矛盾】

    ビルは空高くなったが     人の気は短くなり
    高速道路は広くなったが    視野は狭くなり
    お金を使ってはいるが     得る物は少なく
    たくさん物を買っているが   楽しみは少なくなっている
    家は大きくなったが      家庭は小さくなり
    より便利になったが      時間は前よりもない
    たくさんの学位を持っても   センスはなく
    知識は増えたが        決断することは少ない
    専門家は大勢いるが      問題は増えている

    飲み過ぎ吸い過ぎ浪費し    笑うことは少なく
    猛スピードで運転し      すぐ怒り
    夜更かしをしすぎて      起きたときは疲れすぎている
    読むことは稀で テレビは長く見るが 祈ることはとても稀である
    持ち物は増えているが     自分の価値は下がっている
    喋りすぎるが 愛することは稀であるどころか 憎むことが多すぎる
    生計のたてかたは学んだが   人生を学んではいない
    長生きするようになったが   長らく今を生きていない
    月まで行き来できるのに    近所同士の争いは絶えない
    世界は支配したが       内世界はどうなのか
    前より大きい規模のことはなしえたが より良いことはなしえていない
    空気を浄化し 魂を汚し
    原子核を分裂させられるが 偏見は取り去ることができない
    急ぐことは学んだが 待つことは覚えず
    計画は増えたが 成し遂げられていない
    たくさん書いているが 学びはせず
    情報を手に入れ 多くのコンピューターを用意しているのに
    コミュニケーションはどんどん減っている
    ファストフードで消化は遅く 体は大きいが 人格は小さく
    利益に没頭し 人間関係は軽薄になっている
    世界平和の時代と言われるのに 家族の争いはたえず
    レジャーは増えても 楽しみは少なく
    夫婦でかせいでも 離婚は増え
    家は良くなったが 家庭は壊れている

    忘れないでほしい 

    愛するものと過ごす時間を それは永遠には続かないのだ
    忘れないでほしい すぐそばにいる人を抱きしめることを
    あなたが与えることができる この唯一の宝物には 1円もかからない
    忘れないでほしい

    あなたのパートナーや愛する者に「愛している」と言うことを 心を込めて
    あなたの心からのキスと抱擁は 傷をいやしてくれるだろう

    忘れないでほしい

    もう逢えないかもしれない人の手を握り その時間を慈しむことを
    愛し話し あなたの心の中にある かけがえのない思いを 分かち合おう
    人生はどれだけ 呼吸をし続けるかで 決まるのではない
    どれだけ 心のふるえる瞬間があるかだ
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    アメリカのコメディアン「ジョージ・カーリン」が、
    彼の最愛の妻が亡くなったときに、
    ボブ・ムーアヘッド牧師の説教を引用し、
    友人に送ったメールの一部抜粋だそうです。
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    今の世相をとても反映している詩ですね。
    一つ一つが胸にこたえてしまいました。
    ※思わず涙する感動秘話より
    🔵他の投稿をページ「あいことば」に載せてます。m(_ _)m

    2024年7月23日火曜日

    辞世の句

     人生最後の短歌 辞世の句は、おおくの有名人が残している。

    著名人が遺した辞世の句/ホームメイト (touken-world.jp)

    この中では、庶民から天下人になった秀吉の句が、なじみやすくて良い。

    「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことも 夢のまた夢」

    私もその時期に近づいているので、参考のため読みなおしてみている。

    最近は平安時代のものがTVでよく紹介される。



    この上の句と下の句をあわせれば、

    「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間に 今日を限りの 命ともがな」

    かなしい 辞世の句となる。

    2024年7月21日日曜日

    フランスの大地の変遷

     フランスの自然を描いた名画をもとに、その場所の実際の調査と、そこの地質を専門家による説明で詳細に紹介したTVをみた。


    モネ、セザンヌ、ミレー、マティスなどの名匠が、心をとらわれて描いた風景の有名な場所は、数億年前から数千年前の欧州大陸の形成と火山などの活躍や海水面の上下動による地層の変動でできた風景であり、その地形や断層がや岩石の内容が詳細に調査されていた。

    2024年7月15日月曜日

    2024年7月13日土曜日

    東京都知事選:石丸旋風

     無党派層、若者層の標を獲得して、2位に躍進した石丸伸二氏。


    多くの候補者と顔を合わせるため、1ヶ所での街頭演説は15分以内で
    要点をのべ、あとはwebでという作戦をとり、200か所で演説をした。


    安芸高田市長辞任後、東京都選挙の事前活動ではネットをフル活用し、
    知名度をあげて、多く支援資金やボランチアをあつめた。


    ネットに潜む影もちらほら。


    2024年7月9日火曜日

    NHK党の損得

     東京都知事選で,56人も候補者がでたが、その元凶はNHK党である。

    19人を公認するなど計24人の関連候補を擁立した「NHKから国民を守る党(NHK党)」。

    一人当たり300万円の供託金計7200万円は先行投資。

    24人を合わせての得票数が、有効投票総数の10分の1以上にならなければ、没収される。24人いれば大丈夫と考えたらしいが、得票数は11万2081票と7位相当で有効投票総数の10分の1に達せず、没収された。

    24人分のポスターの枠を一般に売却する案で収益をあげることを考えた。

    NHK党は今回、都知事選のポスター掲示板に24人分のスペースを確保したので、一定額をNHK党に寄付すれば、都内約1万4000カ所にあるポスター掲示板のうち1カ所で、寄付者が独自に作成したポスターを最大24枚貼れるという活動を展開した。

    1か所1万円とすれば、1億4000万の収入になる。党の候補者のポスターは作らなくてすむ。

    そんな胸算用をしたのだろうが、結果は24人を合わせても得票数は11万2081票と7位相当で、有効投票総数の10分の1に達せず、一人当たり300万円の供託金計7200万円は没収となる

    ポスターの掲示枠を販売した結果は、立花氏が6月21日の記者会見で売却したのが1000~1500カ所程度だったと説明。

    最終的に「利益」は出ていないとみられる

    こんな政党の存在を許す選挙法の早期改正が必要である。

    最近のNHKーTVも、試験電波だけや、同じ番組のチャンネルが多すぎる。

    八ヶ岳高原音楽堂

     

    文化施設情報

    八ヶ岳高原音楽堂ヤツガタケコウゲンオンガクドウ

    「世界でも通用するような建物を」というスヴァトスラフ・リヒテルと武満徹の助言が生きた八ヶ岳高原音楽堂。日本モダン建築の巨匠吉村順三の設計により、自然と環境に調和した美しい建築物として「1989年毎日芸術賞」「1989年東京クリエイション大賞環境賞」を受賞した。音響面では主に室内楽の演奏を想定し、理論に基づく実験と確認を繰り返し、小ホールとして理想的な残響1.6秒を得た。運営する八ヶ岳高原ロッジが主催して、宿泊とコンサートをセットにした「八ヶ岳高原サロンコンサート」を年間65回程度開催。また、2018年には開館30周年を記念し、川上村産樹齢110年のカラマツから誕生した「八ヶ岳カラマツチェンバロ・コンサート」を定期的に開催している。その他、レンタルホールとして、ブライダル会場、ファンクラブイベント、各種撮影、セミナー・講習会等の用途でも使用されている。

    音楽堂の全景

    舞台や観客椅子は移動式で、発表内容により自由にに変更出来る。

    舞台背景に富士山


    中央に舞台

    舞台背景の高原の林


    2024年7月7日日曜日

    初期の飛行機(複葉機)と古賀の飛行場

     

    歴史的経緯

    WACOのスポーツ機YMF F5C

    ライト兄弟により開発された頃は、複葉機であった。

    飛行機の揚力は速度の2乗、密度、翼面積に比例するが、飛行機の開発当初においてはエンジンが非力で速度が小さく、そのため機体を飛ばすのに必要な揚力を確保するには翼面積を大きくする必要があった。

    だが当時の翼は布張り木製で強度がなかったため、短い翼を上下に配置しその間に桁やワイヤーをめぐらすことで、強度を保ちつつ翼面積を大きくすることに成功した。

    しかし、複葉翼は上下の翼間において流れの干渉が起こるため単純に翼2枚分の揚力は発生しないうえ、上下の翼をつなぐのに使用されるワイヤーの抵抗が大きく(抗力係数が翼型の数倍~数十倍)、効率が悪かった。

    そのため飛行機の速度性能の向上や製造技術の向上に伴う翼の強度の向上とともに欠点が目立つようになり、1930年代後半には金属製の単葉機が一般的となる。

    しかしながら上下の翼の干渉は両翼を前後にずらすことにより、空気抵抗はワイヤーの本数を減らすことや、ワイヤーを廃し空気抵抗をできるだけ小さくした桁のみで主翼を支えることで、ある程度の解決はできた。

    一方で単葉機の側も初期の頃は洗練がなされず、必要な強度を確保するため主翼を厚くして空気抵抗を増して失敗した例もある。

    そのため1920年代から1930年代は、単葉機と複葉機が併用された時代であった。

    例えば1925年シュナイダー・トロフィー・レースでは、複葉機のカーチス R3C-2が単葉機のマッキ M.33に対して勝利している。

    日本での開発

    日本での飛行機の開発は、会式一号機で、「会」とは「臨時軍用気球研究会」のことである。

    この研究会は、1909年(明治42年)7月30日付の勅令(第207号)により、気球飛行機の軍事利用の研究のため 当時の陸軍帝国大学中央気象台のメンバーらにより設立された 国内最初の航空機に関する公的機関である。

    翌年の1910年(明治43年)、同会のメンバーの一人だった徳川好敏(当時 工兵大尉)が飛行機操縦技術を習得するためフランスに派遣され、帰国後の12月19日 代々木練兵場にて、同じくドイツに派遣され帰国した日野熊蔵陸軍歩兵大尉と共に日本国内初の公式飛行に成功、1911年(明治44年)4月1日、日本で最初の飛行場が所沢(当時埼玉県入間郡所沢町)に開設された。

    開設当初の所沢飛行場に在った飛行機は、フランス製「アンリ・ファルマン」(ファルマンIII)複葉機 ・「ブレリオ」(XI-2 bis)単葉機 、ドイツ製「ハンス・グラーデ」単葉機 ・「ライト」型複葉機 の全4機の輸入機だけで、頻繁に練習が始まるとこの4機は酷使されすぐに飛行機が不足した。このため1911年(明治44年)4月、同研究会の事業として新しい飛行機が製作されることになった。

    初飛行まで

    前述の日本初飛行の公式記録を持つフランス製1910年式アンリ・ファルマン複葉機を参考に設計されたが、ここまで同機を何度も操縦していた徳川大尉によって翼断面の形状・面積の変更と、各部を流線形にして空気抵抗を減らすことなど幾つかの変更が加えられ、機体の強度と上昇力・速度の向上が図られることとなった。材料などは全て国内で調達されたものの、当時の日本の工業水準はまだ低く充分な加工機材も無かったため製作は主に等による手作業で進められた。

    初飛行の様子

    製作は同1911年7月より所沢飛行場の格納庫内で開始され、10月初め頃に完成、 同10月13日、大尉自らの操縦によりテスト飛行が行われ、高度50mで 時速72km/h,(最高高度は85m)と良好な成績を記録し、操縦性もファルマン機より高く評価された。
    設計・製作段階から徳川大尉の功績が大きかったため、当時一般には「徳川式」 と呼ばれ、その後は主に操縦訓練や空中偵察の教育などの目的で使用された。

    会式二号 - 四号機までは、同じく徳川大尉の設計で一号機を改良した飛行機だった。1912年(明治45年)3月に完成した会式二号機は会式一号機の準同型機で、翼間支柱の構造などが一号機と異なる。

    会式二号機は1912年(大正元年)10月24日、徳川大尉の操縦で所沢から代々木練兵場へ飛行し、これは陸軍機による初の「帝都訪問飛行」とされている。

    ちなみに、アンリ・ファルマン複葉機の当時の姿を撮影したガラス乾板写真(喜多川秀雄が所沢飛行場にて撮影)のうち今日もっとも広く使用されている1枚には、その後方にブレリオ機と並んで会式二号機が写っているものがある。

    1913年大正2年)、臨時軍用気球研究会は会式四号飛行機に続く新型航空機の開発に着手した。制作担当は四号機までの徳川好敏陸軍大尉から沢田秀陸軍中尉と長沢賢二郎陸軍中尉に代わり、彼らの手による設計図を元にして、臨時軍用気球研究会と陸軍砲兵第一方面内砲兵本廠で一機ずつ製作を行うこととなった。

    機体は木製骨組に羽布張りの推進式複葉機で、会式四号機の設計を元にしているが、翼は当時輸入・国産化が行われていた安定性に優れるモーリス・ファルマン MF.7(モ式三年型)のものを参考に設計されており、設計は会式とモーリス・ファルマンを折衷したものとなった。その他、操縦席を覆うナセルの設置や燃料タンク容量の増加などの改良が加えられている。エンジンは砲兵工廠で試験的に国産化されていたノーム製のものを搭載していたが、モ式三年型が装備する国産化されたルノー製エンジンに比べて信頼性が低かったため、会式二年型の製造は五号機と六号機の2機のみとなった。

    五号機と六号機はともに1913年秋に完成。陸軍によって偵察機などとして使用された。同年11月にはモ式三年型4機とともに名古屋地区で行われた陸軍特別大演習に参加したが、徳川大尉が操縦する会式五号機はエンジン故障に伴う不時着の際に大破した。

    徳川大尉と同乗者1名は無事であり、その後機体も修復されている。

    福岡での飛行

    まだ飛行場らしきものものが無い大正初期。

    大正5年に福岡で行われた陸軍大演習では、古賀の前田に臨時飛行場がつくられ、福岡の城外練兵場(今の護国神社付近)との間で往復飛行が行われました。

    当時の絵ハガキ


    会式2年型

    会式2年型




    当時の写真大演習の絵ハガキや鹿部山発掘50年企画展)から、令式二年型の5号機、6号機と思われます。当時は福岡からも小学生が古賀の飛行場を見学に来たそうです。
    福岡の城外練習場では、当時、奈良原飛行機が飛行したり、アメリカの「ナイルス」が宙返り飛行をやって見せたそうです。

    1911年(明治44年)初頭、奈良原三次は地上滑走のみに終わった奈良原式1号飛行機に続いて、東京飛行機製作所で奈良原式2号飛行機の制作に着手し、完成した奈良原式2号機は同年5月5日に所沢飛行場で初飛行を行い、高度約4 m、飛距離約60 mを記録した。その後も試験飛行や練習飛行を行い、奈良原のほかに白戸栄之助今村梅次郎後藤銀次郎、斉藤某(名不詳)訓練生が奈良原式2号による単独飛行を行った。)