指月伏見城の石垣発掘 |
さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。
1593年(文禄2年)に入り、明との講和交渉が動きはじめ、明の使節を迎え日本の国威を見せつける目的と、同年8月3日に拾丸(豊臣秀頼)が産まれ、拾丸に大坂城を与えると想定したことで、秀吉の隠居屋敷は大規模な改修が行われることになった。
文禄3年(1594年)10月頃より宇治川の流路を巨椋池と分離して伏見に導き、城の外濠とするとともに、城下に大坂に通ずる港を造り、巨椋池には小倉堤を築きその上に街道を通して新たな大和街道とするなど大規模な土木工事が行われた。
また宇治橋を移して指月と向島の間に架け豊後橋としたとの伝えもあり、都から大和・伊勢及び西国への人の流れを全て城下に呼びこもうとした意図が伺える。
築城は1594年(文禄3年)から本格的に始まり、普請奉行に佐久間政家が任命され、石材は讃岐国小豆島から、木材は土佐国、出羽国からも調達され、同年4月には淀古城から天守、櫓が移建された。同年10月には殿舎が完成した。
翌1595年(文禄4年)に秀次事件が起きると、同年7月には破却された聚楽第からも建物が移築され、宇治川の対岸にある向島にも伏見城の支城、向島城が築城された。
翌文禄5年(1596年)閏7月12日深夜から13日にかけて地震が起こった。このころ近畿地方から九州にかけて大小の地震が頻発しており、秀吉も「なまつ大事」とし伏見城の地震対策に力を入れていたが、のちに「慶長伏見地震」と呼ばれることになるこの地震はそれを上回る大地震となり、天守の上二層が倒壊する大きな損害を受けた。
この時秀吉は伏見城におり、『当代記』によると女﨟73名、中居500名が死亡したが、秀吉は無事で、建物としては台所施設が健在だったらしく、そこで一晩をすごした。(このとき真田信繁が秀吉のそばにいたか肥前にいたかは不明)
夜が明けて指月伏見城から北東の1kmにある高台、木幡山に仮の小屋を造り、秀吉もそこで避難生活を送っている。
この地がのちの木幡山伏見城となる。なおこの災害を契機としてこの年10月27日には「慶長」に改元された。
したがって指月伏見城の詳細は、不明で幻の城とよばれている。
最近その跡地が判明し、発掘調査が行われている。
大きな石垣や鯱の瓦や金箔の瓦などが出土しているので、天守などは豪華なものだったと推定されている。
指月伏見城の絵図は無く、洛中図の一部に描かれているのは木幡山伏見城である。
晩年の秀吉はあいついで築城したために、周辺の批判も起きていたようで、落書もいくつかあったようだ。
「いしふしん 城こしらへも いらぬもの あつち(安土)お田原 見るにつけても」
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