2011年7月25日月曜日

磐井の乱の全貌


磐井の乱については、いままで何人も専門家の話を聞いたり読んだりした。
総合的に判断すると、だいたい次のような背景と経過をとどったと思われる。

1)乱の原因
 
磐井の君は6世紀初頭には、北部九州をほぼ勢力下におさめていた。
海の向こうの新羅とむすぶか、同じく海の向こうのヤマトとむすぶか、の選択をかんがえた。
当時はどちらも外国であり、交易相手であったろう。
新羅には鉄鋼の素材と製鉄技術があり、ヤマトには特殊な交易の魅力がなかった。
当時は南韓の東の新羅、西の百済、その中間に伽耶と呼ばれる小国群があり、両方から侵略されていた。そのなかの任那には倭人も多くいて、ヤマトは百済と親交があり、磐井は新羅と親交があった。
新羅が伽耶を侵し、さらに百済と争うようになった時点で、倭国内部でもヤマトと磐井の争いとなった。

2)戦闘の経過
 1年半におよぶ戦闘が九州北部で行われたが、詳細な経緯の記録は何も残っていない。
ただ磐井軍が敗北し、磐井の君は、記紀では殺されたと記され、筑前国風土記では豊前の国上膳の縣の遁れたと記されている。
 突然の敗北には、火の君や宗像の君の裏切りがあったのだろうという推測がされている。
理由は乱のあとに、火の君の勢力範囲が増えたり、宗像の君がヤマトと婚姻関係をむすんだりしているからである。

3)磐井の子孫
 磐井の君の子供の葛子は、死をのがれるために糟屋の屯倉をヤマトに献上して、事件は治まったことになっている。
糟屋の屯倉の範囲は不明であるが、糟屋郡の範囲くらいが考えられている。
一部の人の意見では、宮地嶽の巨大石室古墳や宗像の桜京塚装飾古墳は葛子の墓ではないかとい説もあるようだ。
葛子の子孫も、この周辺に存在していたのだから、その痕跡が残っているのは当然である。
最近の発見では、福津市の大石、多須田、津丸に、葛子の孫の三兄弟が住んでいたという古文書がみつかり、それぞれ江戸時代までの村の名前になっていたことがわかった。
また葛子の弟は、鞍橋の君という弓の名手で、日本書紀によると百済支援のヤマト軍に参加して、聖明王の子を救出するという手柄をたてており、その根拠地は鞍手町の新北熱田神社であったようだ。

4) 乱後の史跡
 この乱後、6世紀後半には、「糟谷屯倉」・「那津官家」の設置が
される。





さらにこの時期に、囲柵建物群が比恵・有田・鹿部田淵遺跡が玄界灘沿岸に設けられる。




 その後磐井の所有地あとに設けられた宗像の首長墓は、奴山・大石・須多田系列が9基、全長60~100m級の前方後円墳、
天降神社・須多田ミソ塚・須多田上ノ口・須多田下ノ口・在自剣塚古墳・奴山12号・30号墳・大石岡ノ谷1号・2号墳などである。
さらに田熊石畑遺跡は、このような情勢下で、宗形氏の経済的基盤を支えた倉庫群と考えられる。
玄界灘沿岸では、博多湾の今津の港に今宿大塚古墳(全長64m)、比恵遺跡に近い東光寺剣塚古墳(全長75m)が造墓される。
また磐井の乱後に大野城市牛頚窯の生産が拡大することや砂鉄原料の鉄生産の盛行は、ヤマト政権の地域生産集団の再編と思われる。

5) 第2次磐井の乱(壬申の乱)


 磐井の乱は、百済と友好な継体王朝と、新羅と友好な磐井の間の戦争であった。そして磐井は敗北したが、新羅は次第に百済に侵攻していった。
 当時志賀島を根拠地としていた安曇族は磐井とも友好関係にあったので、戦に敗れたあとは日本海沿いに逃れて、長野の安曇野までたどりついた。
 当時すでに仏教が日本にも一部伝わっていたので、そのとき仏像をもってのがれたのが、今も長野の安曇野の寺に残っているいるそうだ。
 これとよく似た仏像が、対馬や志賀島の地にも存在しているらしい。
 百済との友好関係は、継体天皇以後も斎明天皇や天智天皇の時代まで続き、白村江の戦いで惨敗したあとは、新羅の反撃をおそれて大和王朝は防衛体制の強化に努めていた。
 しかし天武天皇時代になると、反撃でなく新羅からの友好の使者が何度も大和王朝を訪れている。
 これは天武天皇が新羅との友好関係の推進者であったことの証明である。

 ということは、天武天皇の勝利となった壬申の乱は、第2次磐井の乱であったと言えるだろう。



2011年7月21日木曜日

天孫降臨と神武東征

天孫が降臨した場所は、日本書紀では五ヶ所、古事記では一ヶ所に記載されている。
日本書記の五ヶ所は、すべて日向の国の中、古事記は筑紫の国の日向となっている。
どちらも降臨の場所は九州嶋で、七、八世紀当時は九州からの東征伝承がよほど強く知れ渡っていて、記紀の編纂者たちも、これを記録せざるを得なかったのであろう。
神武東征神話は、三世紀の邪馬台国の東遷、のちの神功・応神の東征神話などを、初代天皇・神武の事績の混入させたものと思われる。
神武天皇も架空の人物で、十代の崇神と同一人物とみられている。
神話の世界は、多神教で複数の場所が混在したカオス的な物語としてとらえないと、頭がおかしくなる。邪馬台国の場所も多数候補地があっても、驚かないことだ。




現在の福岡県小川知事は、首都機能の分散移転論議を推進し、国家のリスク分散の観点から、福岡を日本海側の都市としての地政学的優位性も活かし、今は太平洋側のみにある国土軸を複軸化するため、福岡県が意志を発露して、道州制の考えを実現することに意欲をしめしている。

2011年7月20日水曜日

天災と政治

中国で周時代に始まった天命思想がある。
天は天子(皇帝)に命を下して政治をまかせるが、もし天子が民を苦しめる悪政を行ったときには、天はこれを滅ぼし、別のふさわしい人物を選んで新たな命を下す。
天は悪政に対しては災異(洪水・旱魃・日食・彗星・隕石など)を下して、天子に譴責を加えるという。逆によい政治行えば天が祥瑞を下して嘉するという。これが儒教に採り入れられて、日本にも伝わった。
石原都知事が3・11震災を天罰といったのは、この天命思想だったのだろう。その後の国会やツイッターでの政治論議にも、この天命思想的なものが、かなりみられる。
しかし最近の天文学は発達していて、地球に衝突する可能性のある彗星や隕石が200個くらいあるそうだ。NASAでは隕石にロケットをぶっつけて軌道を変えることを試みている。
しかし地震の予知や予防などはまだ決め手がない状態だ。
政治家は当分の間は天命を覚悟で行動しなければなるまい。

 

2011年7月15日金曜日

唐津街道(青柳宿)の知名度「改訂版」

先日のBSで唐津街道歴史の旅番組をみた。
小倉の常盤橋からはじまり、赤間、原町、畦町と宿場紹介がつづいたので、わが家の近くの青柳宿も?と期待した。


しかし太閤水の紹介で古賀(旦原)の太閤水がちょっと写っただけで、あとは新宮三代の太閤水の井戸にかわってしまった。
旦ノ原の太閤水
三代の太閤水

2012年に、青柳宿から香椎駅までの12Kmを歩く企画であった。
快晴の天候で予定より気温もあがり、全コースは老人には無理と判断し、その一部の、小竹から平山までの間約5Kmで参加した。
三代の太閤水、祥雲寺、夜鳴き観音などの説明を聞いた。

中間の五所八幡宮もパスされた。



その先は箱崎宮、博多、虹の松原、そして唐津城、名護屋城などなどで終了。
たしかに青柳宿には紹介するほどの古い宿場町の痕跡が残っていない。
青柳宿の通り
今週は木屋瀬の宿場番組や中山道の陣屋跡、庄屋址などの番組をみたが、地元の人達の協力によって、展示場所の家屋の整備や当時の遺品の収拾展示や案内活動が見事に行われている。
青柳宿では、振興策を検討しているグループもあるようだが、核となる建物や遺品が見あたらないようだ。
家内にいわせると、少し都会化しすぎたためだという。たしかに箱崎宿などは痕跡も明確ではなくなっている。
青柳宿の灯篭や案内板も出来たころから6年経過して、だいぶ古びてきた。これだけでは訪れる人の影も見当たらないのが現実である。
青柳宿の説明板

2011年7月14日木曜日

政治とインターネット

私の住んでいる地区は、戦国時代に立花道雪の居城があった立花山の山麓である。
古戦場の址もあった小さな地方都市の古賀市で、市制10年をむかえたばかりである。
市のホームページの広聴委員をしているが、アクセスは総市民数で、平均月1回程度である。
市のツイッターを提案しても、まだ時期尚早の感じである。
現在古賀市の市会議員19名のなかで、ホームページを開設しているのは9名のみ。
毎日ブログを更新している人はYさん一人。週に1回くらいの更新はMさん。あとは時折の更新であり、なかには選挙むけのプロフィール紹介だけのものもある。
市長も選挙前はほぼ毎日更新していたが、当選以後はストップしている。
ただ、支援者の一人のブログは毎日更新され、Yさんのブログに対抗している。
国会議員のツイッター活動はかなり活発になってきたが、地方政治とネットの関係は一般企業より遅れていて、まだこんな状態が普通らしく、直談判が主流のようだ。

大河「江」の時代考証

大河ドラマ「江」では、秀吉、秀長が九州島津の征伐に、筑紫の赤間宿まで一緒に来る場面を期待していたが、全く空振りであった。
ドラマには時代考証の役割をつとめている人が何人かいるが、しかしドラマは歴史事実を曲げて表現されることが多い。
主人公は三姉妹であり、とくに「江」にスポットをあてるためだ。
1)三姉妹には兄が二人いるが、カットされている。
2)秀吉の重臣の加藤、福島などもカットされ、三成が代表となっている。
3)利休の切腹の年、1591年がこのまえ放送されたが、
  切腹の日は4月21日で、2月15日に病死した秀長を、切腹後にしている。
  切腹させたことが原因とするためである。
  鶴松はたしかに切腹後の9月22日に病死いている。
  利休の妻も同時に殺害されたこともカットされている。
などなど。 

2011年7月13日水曜日

アナログ放送の終了

アナログ放送の終了日が刻々と近づいている。
最後の名残を惜しんで1台だけ、アナログテレビで見ている。
しかし最近は画面の30%近くが、あと○○日で終了ですという固定表示や、テロップが流れて、本来の画面がじっくり見れない。
アナログ愛好人間としては、最終日はどんなことになるか心配である。

新聞を読むのも

昇地三郎先生の「長寿のための習慣健康法」のひとつに、毎日、新聞をよんで世界のことに通じるように心がけるという項目がある。たしかにその通りである。
しかし最近は寝る前にNHKのツイッターでニュースを読んでいるので、朝刊を開いても、新しい記事は殆ど見当たらない。
ソ連時代に、機関紙プラウダを隅から隅までよんでいる男を友人がひやかしたら、「何が書いてないかをさがしているのだ」と答えたというジョークを思いだした。
新聞も深読みしないと面白くない時代となった。

2011年7月10日日曜日

石斧の分布図

筑紫の国が繁栄したのは石器時代時代からと思われる。
大型の今山石斧の出土分布が、筑紫とよばれる地区のなかに集中しているからだ。

筑紫の石器時代

筑紫の代表的石器は、今山の石斧である。
その出土の分布は筑紫と呼ばれる地区とみごとに一致している。

石斧と筑紫の歴史との関係を論じた人は見当たらないようだが、なんらかの関係がありそうだ。

2011年7月7日木曜日

筑紫の支配者

朝鮮半島や大陸に近い筑紫は、交易の窓口として古代より反映してきた。
邪馬台国時代より、奴国が金印をもらうなどの歴史がある場所である。
その利権をめざして、支配者が次々にあらわれた。
6世紀には、八女地方の豪族磐井氏が糟屋地区まで勢力をのばしていたが、豊国の継体との戦に敗れて、豊国に支配下となった。
ヤマト朝廷の勢力が確立したあとは、大宰府がおかれてヤマトの支配下となったが、藤原広嗣の乱などで反抗する時代もあった。
平安時代には、平清盛の交易拠点として栄え、その後商人の街博多が独自の自治地区として繁栄をつづけた。
しかしその利権をもとめて、周防の毛利や豊国の大友が立花城を根拠に支配する時代もあった。
島津が北上して博多を焼け野原としたが、豊臣の九州支配と博多復興により、繁栄をとりもどした。
徳川時代となり、長崎に交易の中心をうばわれ、相対的にはさびれたが、黒田藩と隣接した商人街として明治をむかえた。
当時は熊本や長崎よりも人口の少ない地域であったが、次第に福岡への一極集中がすすみ、
いまでは九州の中心都市となっている。
しかし現在でも糟屋地区(4区)にスポットをあてると、衆議院議員は周防を基盤としていた古賀氏がのりこんできており、福岡市長は豊国出身の高島氏が当選している。
何か昔の歴史をひきずっているようだ。

2011年7月6日水曜日

筑紫の国と豊の国(九州王朝の変遷:改定版)

 九州古代史の会で検討されている九州王朝多元説は、古代から現代につながるものがありそうだ。その概要を紹介する。

 九州の古代史を知るうえでは、魏志倭人伝と記紀(古事記と日本書紀)をよみくらべる必要がある。
魏志倭人伝のルート
 魏志倭人伝には、壱岐から九州島に上陸すると、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、・・・、邪馬台国があったことが記載されている。
 そして邪馬台国は筑紫にあり、卑弥呼は天照大神一世で、その宮殿は香椎にあったと九州古代史の会は設定している。
 

 古事記には、伊邪那岐命と伊邪那美命は次々と島を生んでゆくのであるが、九州の島を生む場面では、次の記述がある。
 
 次に筑紫島(つくしのしま)を生んだ。
 この島には、身(み、体のこと)が一つで、面(おも、顔のこと、つまり国のこと)が四つある。
 四つの面の名前は:
1)筑紫国(つくしのくに)は白日別(しらひわけ)、
2)豊国(とよのくに)は豊日別(とよひわけ)、
3)肥国(ひのくに)は建日向日豊久士比泥別〈たけひむかひとよくじひねわけ〉、
4)熊曽国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)と謂う。

1)「筑紫国」を白日別((しらひわけ)とは、九州を統治する(しらす)」国の意味で 卑弥呼が筑紫国にいて、九州を統治していたことを表している。
2)「豊国」を豊日別(とよひわけ)とは、卑弥呼の後継者・台与が住んだといこと、つまり、邪馬台国が筑紫国から豊国に遷都したので、豊前(豊国)には京都(みやこ)郡があり、みやこ町もある。
3)「肥国」には建日向日豊久士比泥別という長い名前がついているが、「火の国は、勇猛でもあり、朝日を拝む神聖な土地もあり、台与の力により神聖で神秘的な国でもある。」ことをしめしている。火を噴く活火山が多い為と思われる。
4)「熊曽国」を建日別(たてひわけ)とは、支配者のいる狭義の熊曽(熊襲)であり、(狗奴国)のことをさしている。
筑紫嶋の四の面
考古学的にも、筑紫と豊は遺骨の埋葬形式が異なることが解っている。


 奴国が漢国から金印をもらうのが57年で、室見川流域の吉武遺跡群にあったと思われる。

 107年に倭国王師升らが、国の成立直後に後漢に朝貢した記録があり、漢国製の鉄剣をもらっている。

 170~180年頃に倭国が乱れ、内戦が続いたので、女王卑弥呼を立てて王とし、新生倭国=邪馬台国連合が成立した。

 3世紀後半に崇神天皇により、大和王権が創始されたと考えられ、北陸、東海、丹波などを侵略していた。

 卑弥呼が魏に入朝するのが238年で、このときもらった金印は不明のままである。卑弥呼は248年には亡くなり、またしばらく新生倭国が乱れ、魏も滅んで晋の時代になる。

 卑弥呼の跡を継いだ台与は天照大神二世で、日向の生まれだが、豊国に遷都したとしている。266年に晋に朝貢して九州をおさめた。

 台与が治めたころから、馬韓(百済)が発展し、九州にも勢力をのばす。

 一方大和政権は、4世紀なかばに景行天皇や仲哀天皇・神功皇后の筑紫巡行で、九州を傘下に治めようとする。
応神天皇の時代になると半島への出兵も度重なり、そのつど兵站や徴兵の負担で、海女の反乱が392年おきる。398年には武内宿禰が早良に派遣される。
この時代には邪馬台国連合の政治的結合力は低落してきたと思われる。
 そして5世紀頃には、筑紫の君磐井、肥前南部の筑紫米多君、筑後部の水沼君、筑前東部の胸形君などの勢力が、個別に大和王権と折衝したり、抗議したりしていた。

6世紀になっての大事件は、528年の筑紫君磐井の乱である。
継体21年(527年)、新羅の再興を理由に、6万の兵を派遣しようとするが、かねてから不満を募らせていた諸勢力が、磐井をリーダとして、大和政権に反旗をおこす事件である。

継体も磐井も、仲哀天皇の5代あとの子孫とする系図がある。
九州古代史の会では、磐井は筑紫に、継体は豊国にいたという説をとっている。 

 筑紫国の灘津は名島であり、豊国の灘津は行橋であった。
筑紫と豊の王は兄弟で、ともに九州の支配者であったが、韓国外交政策の差(親新羅と親百済)から豊国の継体王は、倭彦天皇の後ろ楯となっていた磐井を討って、筑紫の王の発言力を抑えようとした。磐井の乱である。
 継体王は直接出陣せずに、物部鹿鹿火が討伐軍をだすときに、「長門より東を朕が治める。筑紫より西を汝が治めよ」と言つたのは、継体王が豊国にいたことの証明になるとしている。
磐井は継体王に直接話せばわかってもらえると思って、豊の国のほうに逃げたが、物部の兵に殺されてしまった。

磐井の岩戸山古墳

継体王は、糟屋の屯倉を献上させただけで事件を収拾し、あとは東遷のほうに力をそそいだ。磐井一族も大半の勢力を存続し続けた。
わが古賀市には、糟屋の屯倉の遺跡と考えられる遺跡があり、近年、美明遺跡公園として整備された。
糟屋の屯倉(美明)遺跡公園

 この間大和は無人の原野だったのではなく、呉の民族が沖縄、南九州、四国、紀伊のルートで渡来し、銅鏡、銅鐸や古墳文化をおこしていた。
 継体の命をうけて近畿への勢力拡大をはかったのは蘇我氏である。
継体のあと欽明をいただき、以後つぎつぎに豊系の敏達、崇峻、舒明、から蘇我氏系の用明、推古、皇極、孝徳、斉明とつづき、大化の改新(671)で天智となる。

この間に660年、豊系で物部系の政権主権者が、百済の滅亡を聞いたとき、質として手元に置いていた百済の王子・豊彰を送り込み、三軍を組織して百済の再興を支援した。白村江の戦である。
 この主権者について、古田説は筑紫君(筑紫と豊の総称)に薩野馬の名を挙げているが、筑紫君が筑紫物部の主権者の別称であれば、筑紫君薩野馬は「鏡王」と考えられる。

なお、天武=大海人皇子は、白雉四年(653)に皇弟と表記されているから、このときの主権者鏡王の弟だったことになる。

 斉明天皇と中大兄皇子は、鏡王に徴発されてしぶしぶ二万の兵を吉備で調達し九州まで船団を進め、朝倉にて、唐から帰国した伊吉博徳から帰朝報告を聞く。
しかし、白村江の敗戦後、鏡王は戦死の可能性が強かったので、近江に遷っていた伊勢王が同所で即位、白鳳元年(661)~11年癸未(671)が伊勢王の時世となる。
 白村江での敗戦後、伊勢王や大海人皇子ら九州政権者と吉備政権者の天智天皇との抗争が続いたが、668年2月近江で天智天皇が即位し、壬申の乱をへて一応抗争に決着が着いた。


 この間の九州は、新羅の攻撃をおそれて大野城や水城の構築や防人の配備などが急がれ、新羅からの使者が来ても、大和に行けずに九州に留まる状態であった。
九州王権は、壬申の乱への支援兵の要請をことわり、独自路線で、外交や内政をすすめていた時期である。
 この頃のリーダとして記録に残っているのは、糟屋評造春米連広国で、彼が698年に鋳造した釣鐘(国宝)が、京都の広隆寺(秦河勝が建立)に寄贈されている。

ヤマト朝廷の勢力が確立したあとは、筑紫に大宰府がおかれてヤマトの支配下となったが、藤原広嗣の乱などで反抗する時代もあった。
藤原広嗣の乱など
平安時代には、筑紫は平清盛の交易拠点として栄え、その後商人の街博多が独自の自治地区として繁栄をつづけた。


しかしその利権をもとめて、中世・戦国時代には、周防の大内(毛利)や豊国の大友が立花城を根拠に筑紫の国を支配する時代もあった。
立花山
 島津が北上して博多を焼け野原としたが、豊臣の九州支配と博多復興により、繁栄をとりもどした。
徳川時代となり、黒田が豊前より福岡入りしたが、長崎に交易の中心をうばわれ、相対的にはさびれた都市となり、黒田藩と隣接する博多商人街として明治をむかえた。


 明治当初は熊本や長崎よりも人口の少ない都市であったが、次第に福岡への一極集中がすすみ、いまでは九州の中心都市となっている。
 しかし昭和以後でも筑紫出身の総理広田弘毅は、磐井と同じような悲運な道をたどり、豊国生まれの麻生太郎が総理をなんとか務めた。

 糟屋地区(4区)の衆議院議員は周防の古賀氏、(その後は愛媛の宮内氏)がのりこんできており、福岡市長は豊国出身の高島氏が2期務めて、さらに3期目をねらっている。
 何か昔の歴史をひきずっているようだ。