2012年7月24日火曜日

背振山脈とILC


十数年まえ佐賀県と福岡県の県境にある背振山脈地下に、リニアー加速器(ILC)の計画が起こっているというニュースをきいたことがあった。当時は夢のような計画で、なぜ背振なのかはよく知らなかった。
ヒッグス粒子が発見され、次の段階に必要なILCが昨日のプライムニュース2時間版で取り上げられ、その計画の詳細と理由や将来の問題点などがやっとわかった。
ILCに必要な強固な30Km以上の岩盤があるのは、背振山脈と岩手山脈の2ヶ所しかないそうで、それが背振が候補の一つにあがった理由であった。

当時理由を知らない人たちが宗像でも誘致したらなどといっているといううわさを聞いたこともあった。
いずれにしてもわが命のある時代の話ではない。ただし背振山脈ならば福岡県にも関係のある話である。
江戸時代の初期、背振山頂の神社の所有権を福岡藩と佐賀藩で争ったことがある。幕府が仲裁にはいって出した結論は佐賀藩の勝利であった。その理由は両藩が幕府に提出していた藩の地図で、佐賀藩のものには神社が記載されていたが、福岡藩のものには記載がなかったからであった。今は航空用レーダ基地が神社の近くに設けられている。
地方主権の時代のできごとであるが、ILCは大変な費用のかかる問題で、国際的な長期計画だ。
(その後の裁定で、ILCは東北の方に決定された。)



2012年7月22日日曜日

古子山と三柱神社


わが家の北側に見える里山は尾東山122mで、その西に続く少し低い山100mを古子山という。地図には名前が無いことが多い。


歴史書ではその古子山のほうに山城があったことになっている。
防御性よりも唐津街道を展望するのに良い場所だからであろう。
1568年立花城主立花鑑載は大友宗麟の乱行に立腹して本家に反旗をかかげ、毛利側についてその援軍を待った。
大友軍2万3千、守る毛利、原田らの援軍は1万余の対決となった。
しかし部下の野田右衛門らの裏切りにより立花山城を追われた立花鑑載がこの古子山まで逃れてきてこの城に入り兵を集めようとした。
だが兵は十数名しか集まらず、新宮湊に逃れるところを野田右衛門太夫らに発見された。鑑載はこれまでと決断し青柳の松原の中で自刃して果てた。
首なし塚
彼の首なし塚はかっては町川原の狐ヶ崎にあったが、今は青柳の三柱神社に合祀されている。

2012年7月17日火曜日

戸次氏の祖先

立花道雪の旧姓は戸次(べっき)であり、豊後国鎧岳城主であった。この城山は大野市と緒方町の近くにあり、一度城山の麓を訪ねたことがある。
戸次氏の祖は大神惟栄(緒方三郎惟栄)とする系図が数種類あるようだ。豊後国大神系図、筑後本大神系図、大田本大神系図、大神姓佐伯氏系図、大神姓賀来氏系図、緒方氏系図など、すべての系図が共通して、戸次氏の祖を緒方氏としているから、たしかな史実だ。
立花道雪が源義経に味方して滅んだ緒方一族の血を受け継いでいたことを最近やっと確認できた。

緒方一族

大分県緒方町は宇佐神宮の荘園であった。その荘官であった緒方一族は、平家と主従関係を結んでいた。
しかし源頼朝の挙兵のあと、宗家の佐伯、臼杵、長野氏らと共に平家に反旗を翻し、菊池、阿蘇、松浦らと組んで平家の目代を追討した。
平家が筑前の原田、山鹿の軍事力によて勢力を回復すると、清原、日田氏などの力をかりて平家を大宰府から追い落とし、平家側の宇佐宮司を攻めて神宮を焼き払い、源範頼に平家追討の船を提供する。
周防から豊後にわたり、さらに芦屋浦の海戦で勝利した源範頼の働きがあったから、その後の義経の屋島攻撃や壇ノ浦の勝利があり得たのだ。
 戸次家は源平時代の豊国の緒方家の末裔といわれる。
当時義経をかくまうために緒方氏が岡城を造ったともいう。

筑前で活躍した立花道雪の旧姓は戸次であり、豊後国鎧岳城主であった。この城山は大野市と緒方町の近くにあり、一度城山の麓を訪ねたことがある。
戸次氏の祖は大神惟栄(緒方三郎惟栄)とする系図が数種類あるようだが、豊後国大神系図、筑後本大神系図、大田本大神系図、大神姓佐伯氏系図、大神姓賀来氏系図、緒方氏系図など、すべての系図が共通して、戸次氏の祖を緒方氏としているから、緒方氏の子孫であることはたしかな史実だ。
立花道雪が源義経に味方して滅んだ緒方一族の血を受け継いでいたことは感慨深い。

2012年7月13日金曜日

鞠智城と菊池一族

熊本の鞠智城は、白村江の敗戦後、本土防衛のため作られた古代の城であり、現在復元されている。去年の春訪れた。

菊池一族は中世平安時代から、室町時代の後半まで約450年に渡って、この菊池地域を中心として活躍した豪族である
源平合戦や元寇など日本史上の有名な戦いにも参加し、元寇では、蒙古襲来絵詞にその勇姿が描かれている。
南北朝時代に、一貫して南朝のために働いた肥後の菊池一族は
戦前の歴史では忠君愛国のモデルとして、楠木正成と共に賞賛された。
もともと11世紀に九州に下向した藤原一族が在地名の菊池を名乗り、肥後国の在地勢力として定着したのが菊池一族で、その系図は膨大である。
源平時代にはまず平家につき、壇ノ浦の戦のとき寝返って源氏側についたが、頼朝の疑念をまねいて恩賞はすくなかった。
元寇に立ち向かったのは「鎌倉武士」ではなく、九州の土豪武士団VS元寇と考えた方が良い。
菊池市(熊本県)では、明と交易をしていた時の菊池川の船着き場の遺稿が発掘調査中という。有明海から奥まった場所にある菊池氏が大陸と交易していた事実が、元寇襲来の意味を、さらに書き換えるかもしれない。
 だから鎌倉幕府との関係はあまり良くなく、やがて幕府の勢力が弱まると、在地勢力としては鎮西探題を最初に攻撃した。
その後建武の新政が成立すると、菊池氏後醍醐天皇の倒幕戦争に加わり、南北朝時代には九州における南朝の主柱として奮戦した。

この地区の菊池神社には、当時の菊池家当主である菊池武時(第12代)、武重(第13代)、武光(第15代)の父子を主祭神に祀る他、菊池氏の一族26柱を配祀している。
この中では太刀洗の戦いで武勇を示した武光がもっとも有名で、銅像もある。これは大保原の戦い(大原合戦ともいう)で正平14(延文4)1359年8月16日である。


大友や少弐が足利や北、南の様子をみながら組む相手を変化したのとは対照的であった。肥後モッコスの精神が一族に定着していたのだろう。
南北朝統合のあとは肥後守として定着していたが、一族間の家督争いがもとで滅亡してしまった。
しかし菊池地方の豪族として残った隈部親永や山鹿彦次郎らの一族は、秀吉の九州統治に最後まで反抗して戦った。

菊池一族の分家で家老だった赤星家の末裔がわが地元古賀におられる。

2012年7月9日月曜日

エジソン研究所

昨日のテレビで、エジソン研究所の詳しい内容が放送された。
四千人もの研究者があつまり、多くの図書や雑誌をあつめた図書館や40もの研究プロジェクトが並行して進められた研究室などが紹介された。
その初期に小倉出身の岩垂邦彦が発電機や電球の研究に協力し、エジソンから感謝され表彰された。その記念写真が記念館の一部に展示されている筈だが、紹介がなかったのは残念だった。

2012年7月8日日曜日

福原遷都


平清盛は以仁親王の反乱がおきたので、あわてて福原への遷都を強行したが、準備不足や天候異変などで失敗に終わった。
方丈記を書いた鴨長明は、現地にでかけて観察し、山と海に近い傾斜地で、都を開くには土地がせまくて、海風が強く浪の音がうるさいと批判している。

かねて湊を造成して貿易を盛んにした場所ではあるが、都とするには平家内部からも反対がおこり、3ヶ月での撤退となった。

2012年7月6日金曜日

名島城主の変遷

筑前の名島城は小早川隆景が築城した。



筑前に入国して最初は立花宗茂がいた立花城に入り、城の大幅な改造をした。しかし本来水軍を得意とする小早川だから、博多湾に面した名島にあった出城を主城に改築してしまった。
名島城の山頂からは、今でも立花山がよくみえる。






10年後隆景が主な家臣を連れて小早川家の本貫である安芸国三原へ隠居した。
養子の秀秋はその所領30万7,000石を相続する形で筑前名島城)国主となった。

しかし秀秋は名島城主となるが、朝鮮出兵の時の働きぶりを批判され、秀次の謀反疑惑とも関連して、秀吉から名島城を奪われてしまう。
名島城主30万石から、福井の北庄城主15万石に格下げになった。 
そのあとの名島城は豊臣家の直轄領となり、石田三成の管理化におかれる。
しかし三成がここに乗り込んできたわけではなく、彼の部下が代官として駐在した。この期間は短いのであまり知られていない。

 (代理人による管理という説もあり、また石田三成が実際に1598.6.16.に名島城に到着していたが、しかしその2ヶ月後の8.18.に秀吉が亡くなり、急遽大阪に帰ってしまったという説もある。)
短期間ながら石田三成がいた名島城で、どんな改革が計画されていたのか、何も記録が残っていないのは残念だ。

やがて秀吉が死亡して五大老の合議制になると、秀秋は許されて、半年後の1599.2.5.に再び名島城にもどってくる。

家康と三成の関ヶ原の戦に、秀秋は名島城から1万5千の兵を率いて出陣したという。
 秀秋の裏切りで関ヶ原は家康側の勝利となり、その功績で秀秋は旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封されれ、岡山城主となり、名島城には黒田長政が入る。

(秀秋は二年後に精神異常をおこして早死する。死没 慶長7年10月18日1602年12月1日))

長政が名島城をすてて福岡城を築いたのは、秀秋の残影をきらったのが一因かもしれない。
黒田一族は筑前に入国して一旦名島城にはいったがが、城が狭いので福岡城を建築する際に、名島城の門や石垣を福岡城に移動したというわれている。


門の一つは小早川の菩提寺や崇福寺にも移されて、名島には山頂が石垣が少し残っているだけだ。



今日の新聞によると、久留米城を建築した有馬一族とも親しかったので、名島城の一部を久留米城にもお祝いとして献上したということが書かれていた。また土地を民間人に売り払ったので、私有地となり、最近やっと福岡市が天守閣跡地を買い戻して、展望公園化するという。
 
分散してしまった名島城は○○遺産になりそこねた。

2012年7月1日日曜日

曽我神社と大森神社

鎌田の曽我神社
 東区の蒲田に曽我神社があることを不思議に思っていた。
福間の西郷地区の豪族河津氏のルーツは、伊豆の伊東氏である。
伊豆では伊東荘のほかに河津荘を領して、兄弟の中で弟が河津氏を名乗るようになったという。
 河津氏は永仁元年(1298)鎌倉幕府の北条貞時から糟屋の荘園七百町を与えられ、鎮西探題北条兼時に従って筑前に移住してきたという。
 元寇を機として、鎌倉幕府は鎮西探題を立てて北条氏の一族を送り込み、大友氏・少弐氏を指揮下において、統率強化の名の下に守護職の多くを北条一族が固めていたのである。
 筑前に下った河津貞重は小仲庄(現篠栗町尾仲)に居を定め館をかまえ、高鳥居城を築城した。
 河津の祖先の伊東祐親は曽我兄弟の祖父であり、これで曽我神社がこの地に作られたことが想像できる。
 のちに河津家が福間の西郷荘に移り作った大森神社は、伊東地区の三代権現を祀る神社である。
福間の大森神社
 室町時代中頃、西郷(福間町)を領地としていた河津興光は、大内家の命で舟岡山(京都)の戦いに参戦したが、深手を負って河を渡ることが出来ず一命を失うところだった。その時、不思議なことに突如、大鯰が背に鞍をつけた。
 興光は、その鯰に乗って河を渡り本陣に帰り着くことが出来、命拾いをした。
 帰館した興光は、「大鯰は、西郷の産土神、大森宮の御祭神のお使いに違いない」と、鯰を神の使いとして祀り、以後この地で鯰を食べることを禁じたという。
拝殿前に、神使の阿吽のナマズの石像が奉納されている。