十八代当主となった相良義陽(よしひ)は天文十八年(1544)二月、晴広の子として木枝上田館(同錦町)で生まれました。
天正六年(1578)十一月の耳川合戦で大友氏が島津氏に大敗すると、北上を企図する島津氏は次なる矛先を相良氏に向けてきました。
この年の八月、島津氏は肥薩国境に近い水俣城(同水俣市)へ攻め寄せ、降伏と同じ和議を結ばされる結果となり、八代も島津氏の支配下となります。
そして島津義久は相良義陽に対し、御船城(同御船町)の甲斐宗運討伐を命じました。
相良義陽は阿蘇氏の筆頭家老・甲斐宗運とは親交を結んでおり、義久の命を拒めば滅亡は明らかで、宗運を討てば日頃の信義に背くことになるが、迷い悩み抜いた末に遂に決断を下し、宗運討伐への出陣を承諾しました。
義陽は戦死を決意していました。彼は家臣の反対を押し切って響野原(同宇城市)に陣を敷きますが、これは正に「背水の陣」で、友人宗運には彼の心中がよくわかっていました。
決戦となったこの日、義陽は団扇を手に取り、戦いが始まっても床几に座して動かず、そこへ宗運の士・野本太郎左衛門が刀を振り上げて迫ったが、義陽は刀を抜かず、従容として討たれました。太郎左衛門は生前の交誼から首は取らず、佩刀を取って討ち取った証としたといいます。
天正九年(1581)12月02日でした。
決戦となったこの日、義陽は団扇を手に取り、戦いが始まっても床几に座して動かず、そこへ宗運の士・野本太郎左衛門が刀を振り上げて迫ったが、義陽は刀を抜かず、従容として討たれました。太郎左衛門は生前の交誼から首は取らず、佩刀を取って討ち取った証としたといいます。
天正九年(1581)12月02日でした。
宗運は変わり果てた義陽の姿に涙を流して合掌し、深く同情して義陽の死を悼みました。義陽は歌道にも秀でた文人でもあり、家中からの信頼も厚く、また慕われていたようです。後に生き残った家臣の犬童頼安は密かに戦場を訪れ、義陽の墓前に一首を献じました。
「思いきや ともに消ゆべき 露の身の 世にあり顔に 見えむものとは」
頼安の亡君に対する思いがひしひしと伝わってきます。義陽享年38。島津氏でもさすがに気の毒と思ったか、子の忠房に家督を認めて人吉城を返しています。