「デカンショ」といえば、デカルト・カント・ショーペンハーウエルの哲学者の頭文字をつなげた言葉と思い込んでいた。
今朝のテレビで、篠山市のデカンショ祭りが放送されたが、この語源の話がないままに終わったので、念のため篠山市との関係を検索してみた。
デカンショの起源と語源については篠山町七十五年史(1955)と
篠山町百年史(1980)の2冊にあり、百年史では「はやし言葉にすぎず、特別の意味を持たない」と断言しているが、、七十五年史では「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」説を採っている。
デカンショ節は、江戸時代から歌われていた篠山地方の「みつ節」の変形したものというのが通説だが、デカンショ節が全国に普及した過程において見落としてはならぬものに、千葉県館山の江戸屋(宿屋)における東京一高の学生たちとの出会いがあるという。
旧篠山藩青山家の奨励によって、廃藩後郷土の秀才を年々東京に遊学され、多くの秀才を養成されたことは有名である。そして遊学生たちは夏になると房州八幡の浜(1979年現在の館山市)を銷夏地と定めここにやってきた。
たまたま明治31年(1898年)の夏、江戸屋の二階で青山忠允他篠山町出身の若者達が蛮声を張り上げて元気よく唄ったのが郷土の盆踊りの唄であった。
ちょうど階下に居合わせた一高生の水泳部員たちがこれを聞き、唄の自然性や野性味、またその節廻しやリズム感がよく、たちまち気に入り、篠山出身の若者たちに付添い訓育に当たっていた亘理章三郎(後に東京高等師範学校の教授)らから唄の指導をうけ意気投合、そして彼らは東京に帰ってからも自由奔放にこれを唄いまくったから、たちまち多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、全国に広まったといわれているそうだ。