梅雨入りして、田植えの時期となった。
ため池の栓抜き、水引き作業が行われ、田圃には一面に水がはられている。吉住さんの写真で栓抜きの儀式の様子をはじめて知った。
2013年5月29日水曜日
龍造寺隆信、蒲池鎮漣を謀殺(天正9年5月29日)
蒲池氏は筑後の名族で、かつて天文年間に龍造寺氏が浪人となって筑後へ赴いた際、鎮漣の父鑑盛によって保護されたという経緯があり、いわば大恩のある家でした。その縁で、隆信の娘が鎮漣に嫁いでおり、隆信にとって鎮漣は息子のような存在でした。
ところが鎮漣は次第に隆信の強引なやり方に反発を強めて島津氏に接近したため、隆信は鎮漣の謀殺を企てました。
隆信が政家に家督を譲り隠居するにあたって猿楽を興行するので、詩歌の道に堪能な鎮漣にぜひ出席して祝って貰いたいと告げました。
鎮漣は初めは疑って返答をしませんでしたが、使者は執拗に食い下がり、鎮漣の母の取りなしもあり、また大村純忠の先例もあったことからついに鎮漣は佐嘉行きを決意、屈強の兵数十人に護衛させ総勢百三十名余りで佐嘉城へと向かいました。
五月二十八日に佐賀城に着くと、政家は鎮漣を懇ろにもてなし、その日は何も起こらず夜は本行寺に宿を取ります。
しかし翌日未明に寺を発ち、隆信の待つ須古へ向かう道中で異変は起きました。突然、四方から一斉に攻めかかられたのです。近くの家に入った鎮漣は驚く老女に自害するための行水の用意を頼むと、やがて主従三人で差し違えて果て、百三十余名の従者も一人残らず討ち死にしました。
2013年5月26日日曜日
2013年5月25日土曜日
溥儀と広田弘毅
昨日ラストエンペラの映画をみた。
溥儀が僅か3歳で皇帝となった当時、広田弘毅は外交官としてはじめての赴任先が北京で、1907~1909年の2年あまり滞在した。
溥儀と面会できたか否かは不明であるが、恐らく紫禁城に幽閉状態の末期の清国皇帝だったから、面会は無かったであろう。
その後広田は国内勤務、アメリカ、オランダ公使、ソ連大使などを勤め、直接中国に滞在したことはなかったが日中友好派であった。
ただしソ連大使としては、満州国が日本の傀儡政府でなく、独立した新政府ということを欧米各国に認めさせることに貢献した。
この成果が評価されて、帰国後外務大臣として起用されるようになった。
しかし皇帝に担ぎ出された溥儀にとっては、独立国の実態は不満なものであっただろう。
1935年3月に溥儀が初めて日本訪問した時には広田は外相として何処かで顔を合わせている筈だだが、詳しい記録はないようだ。
溥儀が僅か3歳で皇帝となった当時、広田弘毅は外交官としてはじめての赴任先が北京で、1907~1909年の2年あまり滞在した。
溥儀と面会できたか否かは不明であるが、恐らく紫禁城に幽閉状態の末期の清国皇帝だったから、面会は無かったであろう。
その後広田は国内勤務、アメリカ、オランダ公使、ソ連大使などを勤め、直接中国に滞在したことはなかったが日中友好派であった。
ただしソ連大使としては、満州国が日本の傀儡政府でなく、独立した新政府ということを欧米各国に認めさせることに貢献した。
この成果が評価されて、帰国後外務大臣として起用されるようになった。
しかし皇帝に担ぎ出された溥儀にとっては、独立国の実態は不満なものであっただろう。
1935年3月に溥儀が初めて日本訪問した時には広田は外相として何処かで顔を合わせている筈だだが、詳しい記録はないようだ。
2013年5月23日木曜日
■大友宗麟の人生(改訂版)
大友宗麟が豊後海部郡津久見館で病したのは天正十五年(1587)5月23日。享年58歳。
西暦(年齢)
1530年(1歳)豊後国府内に生まれる。(幼名、塩法師丸)
1550年(21歳)お家騒動「二階崩れ」が起こる。これにより家督を相続。
1554年(25歳)キリスト教の布教を許可。
1555年(26歳)毛利元就と敵対をはじめる。
1559年(30歳)幕府から豊前・筑前の守護職を任命される。
1562年(33歳)毛利元就に大敗し、居城を臼杵城に移す。出家し宗麟と名乗る。
ポルトガルとの貿易で、軍備の強化。
1576年(47歳)隠居し、家督を嫡男・大友義統に譲るが、実権は維持する。
1578年(49歳)洗礼を受け正式にキリスト教になる。
耳川の戦いで、島津軍に大敗。
1586年(57歳)島津軍に臼杵城を攻められるが、国崩しを使い勝利する。
1587年(58歳)病死。
豊後大友氏二十一代当主・大友宗麟は享禄三年正月三日、大友義鑑の嫡男として豊後府内城に生まれました。
しかし父義鑑は異母弟の塩市丸に家督を嗣がせようとしたことから内紛が起き、宗麟を支持する家臣に襲われて重傷を負い、塩市丸は殺害されるという事件が起きます(『大友二階崩れ』)。
この内紛を鎮圧して家督を相続した宗麟でしたが、やがて周防大内氏の滅亡後に急速に台頭してきた毛利元就と北部九州や立花山で争いました。
天文20年(1551)、年来の宿敵、大内家の当主義隆が陶隆房の謀反で横死したのである(大寧寺の変)。大内の弱体化を受け、大友は北九州へ進出する。
長らく一進一退の戦いが続きますが、毛利氏は元亀二年(1571)六月に元就が没すると九州から撤退、これにより宗麟は九州六カ国に及ぶ大版図を得ることになります。
このころフランシスコ・ザビエルが豊後を訪れ、府内で宗麟に謁見し、キリスト教布教の許可を得た。この邂逅が、後の宗麟の運命を決定づけた可能性がある。
大友が引き換えに得た南蛮貿易の利は、中国・東南アジアとの積極的な交易を含め、その後の軍備強化や経済面の繁栄を支えた。
宗麟は天正元年(1573)、名目上は家督を子の義統に譲って後見役を務めますが、依然として実権は握っていました。
同五年正月、島津氏に追われた日向の伊東義祐・義益が宗麟を頼って落ち延びてくると、キリスト教に改宗していた宗麟は、九州南部にキリスト教の平和国家を拡大しようと考え、両者に島津を討ち伊東氏の旧領回復を約束します。
仏教徒の老臣たちの多くは反対しますが宗麟は聞かず、十月に大軍を率いて臼杵を出陣、日向へと入りました。十一月十二日、宗麟は耳川の戦いで島津氏に大敗を喫し、やがて義統との対立や田原親貫の反乱などもあり、往年の勢いはすっかり失われていきました。
同十四年三月、島津氏の北上に窮した宗麟は上坂して豊臣秀吉に謁し、助けを求めます。
やがて秀吉は島津氏征伐へと動きますが、同年十二月にはついに島津氏の軍勢が豊後丹生島城(大分県臼杵市)を囲みました。
籠城した宗麟は「国崩し」と呼ばれる大砲を放って島津勢を撃退しますが、これが戦国大名としての宗麟が見せた最後の意地でした。
六月から島津軍の侵攻が本格化すると、家臣が次々と裏切り、大友家は滅亡の危機を迎える。
しかし、忠義を貫いた家臣たちもいた。有名な高橋紹運の岩屋城玉砕戦、立花宗茂による立花城防衛戦、吉岡妙林尼による鶴崎城防衛戦などは豊薩戦争時のエピソードである。
翌年には領国の大半が島津氏に奪われますが、秀吉の20万を超える大軍の前に島津義久は降伏、九州は平定されました。
翌年五月三日、秀吉は義統に対して豊後を安堵、宗麟には日向一国を与えますが宗麟はこれを辞退、それから一ヶ月も経たない天正十五年(1587)5月23日、津久見で没しました。
享年58。
ポルトガルでの、宗麟評価
ザビエルが、キリスト教普及の効果を強調するために、豊後の宗麟を九州全体の王と称して紹介し、対面場面の油絵などを多くのこしています。
豊後は九州全体のイメージ |
宗麟は西洋人の王の姿 |
宗麟が亡くなった頃、ポルトガルもスペインとの争いに敗れて、勢力が衰えたという。
筑前にたどる豊後大友の足跡をテーマ。
以前私がある企業の研修センターが国東半島にできた披露式のとき、大分県の平松知事と同席して聞いた話では、大分県の大河ドラマをつくるため、大友宗麟の小説を遠藤周作さんに依頼した。
出来上がった小説「沈黙」が、宗教色が強すぎたため、大河にはならず、正月3日間の特別番組になったそうだ。
代わりに大分市には、南蛮BUNGO交流館ができた。
2013年5月21日火曜日
石田三成と筑前
小早川隆景のあと小早川秀秋が名島城主となるが、朝鮮戦争での失政のため備前国に改易させられて、あとの筑前国を石田三成が管理することになる。
代理人による管理と思っていたが、石田三成は実際に1598.(慶長3年)6.16.に名島城に到着している。
しかしその2ヶ月後の8.18.に秀吉が亡くなり、急遽大阪に帰ってしまう。
半年後の1599.2.5.に再び小早川秀秋が名島城にもどってくる。
短期間ながら石田三成がいた名島城では、どんな改革が計画されていたのか、何も記録が残っていないのは残念だ。
その後関ヶ原の戦で敗軍の将となった石田三成。
その人生を主とした歴史番組を今週みた。
敗者は悪者のイメージが強いのが慣わしであるが、幼少の頃からの英才であったのは確かである。
有名な、秀吉に差し出した茶三杯の温度差の話からはじまった。これで秀吉の近侍500石となり、田畑の領土より広い葦の沼地をもらって葦刈に課税して1万石相当の収入をえた。
賎ヶ岳の戦では実戦に参加していないが、僧侶を活用した情報集めや、農民をつかった松明作戦などの功績で4万石をもらった。
小田原攻略の戦では、忍城の水攻め攻撃を命じられ、大規模な工事を短期間に達成して、33万石で筑前入りを打診された。
しかし秀吉の側近で仕えることを選んだため、九州との縁は途切れたが、もし筑前に来ていたらどんな国になっていただろうか?。
その後たどった人生は衆知の通りである。
追記:
福岡市史の中世資料編「豊臣期」と、同『島井家資料』の二ヶ所では、年次の推定が異なっていたが、その理由について市史編纂纂室の調査結果ではつぎのように報告されている。
石田三成の九州下向は
① 九州平定時 ② 文禄の役 ③ 秀吉の臨終前後
①九州平定時は博多が復興の途上の時期で長い期間滞在。 (除外)
②文禄の役。天正二十年三月下旬には名護屋にいるため、
来る(五月)二十七日・二十八日にここもと下向との記述と齟 齬する。
③慶長三年は秀吉存命中と没後に一度づつ九州へ下向している。
史料は五月であるため、秀吉存命中の下向となるが、三成と九州に同行した是斎重鑑の日記に、三成が五月二十九日に京を出発して筑前に下ったとの記述がある。
①~③の考察により、史料は天正二十年ではなく慶長三年に比定される。
『資料編中世1』に天正十五年とあるのは誤植であり、天正十四年が正しい。『資料編中世2』に附属している正誤表に記入がある。
有名な、秀吉に差し出した茶三杯の温度差の話からはじまった。これで秀吉の近侍500石となり、田畑の領土より広い葦の沼地をもらって葦刈に課税して1万石相当の収入をえた。
賎ヶ岳の戦では実戦に参加していないが、僧侶を活用した情報集めや、農民をつかった松明作戦などの功績で4万石をもらった。
小田原攻略の戦では、忍城の水攻め攻撃を命じられ、大規模な工事を短期間に達成して、33万石で筑前入りを打診された。
しかし秀吉の側近で仕えることを選んだため、九州との縁は途切れたが、もし筑前に来ていたらどんな国になっていただろうか?。
その後たどった人生は衆知の通りである。
追記:
福岡市史の中世資料編「豊臣期」と、同『島井家資料』の二ヶ所では、年次の推定が異なっていたが、その理由について市史編纂纂室の調査結果ではつぎのように報告されている。
石田三成の九州下向は
① 九州平定時 ② 文禄の役 ③ 秀吉の臨終前後
①九州平定時は博多が復興の途上の時期で長い期間滞在。 (除外)
②文禄の役。天正二十年三月下旬には名護屋にいるため、
来る(五月)二十七日・二十八日にここもと下向との記述と齟 齬する。
③慶長三年は秀吉存命中と没後に一度づつ九州へ下向している。
史料は五月であるため、秀吉存命中の下向となるが、三成と九州に同行した是斎重鑑の日記に、三成が五月二十九日に京を出発して筑前に下ったとの記述がある。
①~③の考察により、史料は天正二十年ではなく慶長三年に比定される。
『資料編中世1』に天正十五年とあるのは誤植であり、天正十四年が正しい。『資料編中世2』に附属している正誤表に記入がある。
2013年5月20日月曜日
2013年5月19日日曜日
2013年5月18日土曜日
石田三成
関ヶ原の戦で敗軍の将となった石田三成。その人生を主とした歴史番組を今週みた。
敗者は悪者のイメージが強いのが慣わしであるが、幼少の頃からの英才であったのは確かである。
、有名な、秀吉に差し出した茶三杯の温度差の話からはじまった。これで秀吉の近侍500石となり、田畑の領土より広い葦の沼地をもらって葦刈に課税して1万石相当の収入をえた。
賎ヶ岳の戦では実戦に参加していないが、僧侶を活用した情報集めや、農民をつかった松明作戦などの功績で4万石をもらった。
小田原攻略の戦では、忍城の水攻め攻撃を命じられ、大規模な工事を短期間に達成して、33万石で筑前入りを打診された。
しかし秀吉の側近で仕えることを選んだため、九州との縁は途切れたが、もし筑前に来ていたらどんな国になっていただろうか?。
その後たどった人生は衆知の通りである。
敗者は悪者のイメージが強いのが慣わしであるが、幼少の頃からの英才であったのは確かである。
、有名な、秀吉に差し出した茶三杯の温度差の話からはじまった。これで秀吉の近侍500石となり、田畑の領土より広い葦の沼地をもらって葦刈に課税して1万石相当の収入をえた。
賎ヶ岳の戦では実戦に参加していないが、僧侶を活用した情報集めや、農民をつかった松明作戦などの功績で4万石をもらった。
小田原攻略の戦では、忍城の水攻め攻撃を命じられ、大規模な工事を短期間に達成して、33万石で筑前入りを打診された。
しかし秀吉の側近で仕えることを選んだため、九州との縁は途切れたが、もし筑前に来ていたらどんな国になっていただろうか?。
その後たどった人生は衆知の通りである。
2013年5月14日火曜日
邪馬台国の傍国(支惟国)
邪馬台国の傍国は30余りあり、その中の最後のほうに、支惟国(キイコク)が記載されている。
江戸時代には、キイという音から豊前の築城郡とする説を新井白石がだしている。
宮崎康平は、大宰府から鳥栖のあたりの基山地区(基肄城)とする説をだしている。
今日たまたま資料を見ていた義弟は、素人ながら豊前に親類がいるので、築城町でないかという説をとなえた。
豊前の京都郡が邪馬台国だという説もあるのだから、支惟国(築上郡)は傍国のなかでもウエイトの高い傍国であろう。
江戸時代には、キイという音から豊前の築城郡とする説を新井白石がだしている。
宮崎康平は、大宰府から鳥栖のあたりの基山地区(基肄城)とする説をだしている。
今日たまたま資料を見ていた義弟は、素人ながら豊前に親類がいるので、築城町でないかという説をとなえた。
豊前の京都郡が邪馬台国だという説もあるのだから、支惟国(築上郡)は傍国のなかでもウエイトの高い傍国であろう。
2013年5月13日月曜日
平安・鎌倉時代の博多古図
今日のテレビで、平安時代や鎌倉時代の博多古図の地名を訪ねる番組があった。
櫛田神社の周辺には唐人が住む唐房地区があり、輸入した陶磁器類の廃棄場所がみつかっている。
また長浜は今の海の中道のような細長い砂浜であった。
美野島は蓑島という島で、いまでも岸にあった弁財天の鳥居と社がある。
南区の塩原(汐原)は海岸で塩を焼いていた地名の名残である。
住吉神社や櫛田神社も海岸近くにあった神社で、参道は海につうじていた。などなどがこの地図からよめる。
鎌倉時代の元寇防塁により、港湾都市としての構成も確立した。
その後の貿易港としての発展は、足利、戦国、豊臣時代まで続き、いろんな記録が残っている。
中世初期の博多 |
また長浜は今の海の中道のような細長い砂浜であった。
美野島は蓑島という島で、いまでも岸にあった弁財天の鳥居と社がある。
南区の塩原(汐原)は海岸で塩を焼いていた地名の名残である。
住吉神社や櫛田神社も海岸近くにあった神社で、参道は海につうじていた。などなどがこの地図からよめる。
鎌倉時代の元寇防塁により、港湾都市としての構成も確立した。
連歌師 宗祇 筑紫道記 より |
フロイス 日本史 より |
2013年5月12日日曜日
椎木講堂
九州大学は来年11月、消費者金融の三洋信販創業者で、しいき教育文化振興基金会長を務める椎木正和氏から数十億円の寄付を受け、伊都キャンパス(西区元岡)に新しい講堂を建設中。昨年11月に起工式が行われ、完成予定は来年年2月の予定。
3000人以上を収容できる大講堂が完成し、学内で入学式や学位授与式ができるようになるという。
椎木氏は行橋市出身、1928年2月20日生まれの83歳。旧九州工学校ご中退後、46年に日本国有鉄道門司鉄道管理局に入局。49年に福岡市警察局警察官に。
59年に三洋商事(三洋信販の前身)を創業、72年三洋信販社長、98年から代表取締役会長などを務めた。
しかし過剰請求による利息の返還問題などの影響で経営が悪化。07年に三井住友グループのプロミスによる買収を受け入れ、同年に経営から手を引いていた。
文化振興に関しては、三洋信販時代から活動しており、大分県別府市に著名なピアニストのアルゲリッチ氏を招へいし、毎年音楽祭を開いている。卒業生でもない大学への多額寄付金は異例のことだが、資本主義社会での成功者としての模範的行為である。
3000人以上を収容できる大講堂が完成し、学内で入学式や学位授与式ができるようになるという。
椎木氏は行橋市出身、1928年2月20日生まれの83歳。旧九州工学校ご中退後、46年に日本国有鉄道門司鉄道管理局に入局。49年に福岡市警察局警察官に。
59年に三洋商事(三洋信販の前身)を創業、72年三洋信販社長、98年から代表取締役会長などを務めた。
しかし過剰請求による利息の返還問題などの影響で経営が悪化。07年に三井住友グループのプロミスによる買収を受け入れ、同年に経営から手を引いていた。
文化振興に関しては、三洋信販時代から活動しており、大分県別府市に著名なピアニストのアルゲリッチ氏を招へいし、毎年音楽祭を開いている。卒業生でもない大学への多額寄付金は異例のことだが、資本主義社会での成功者としての模範的行為である。
2013年5月11日土曜日
2013年5月10日金曜日
2013年5月9日木曜日
北平と北京
いまの北京は、秦・漢の時代に北平と呼ばれていました。
北京がまた北平にもどる時がくるでしょうか?
その後中都(金)→大都(元)などと王朝によって名前を変えていきます。明の時代に北平に戻ります。
北平を治めていた王が皇帝に反乱を起こして永楽帝を名乗り、当時首都であった南京に対して北平をはじめて北京と改名しました。(1421)
中共内戦の時代、中華民国の蒋介石が首都を南京とし、北京を北平と改称しました。
北平を治めていた王が皇帝に反乱を起こして永楽帝を名乗り、当時首都であった南京に対して北平をはじめて北京と改名しました。(1421)
中共内戦の時代、中華民国の蒋介石が首都を南京とし、北京を北平と改称しました。
戦中派のわたしには北平は懐かしい名前です。
そして共産党が政権を取ったら、また北京の名前に戻りました。
日中友好時代にはこんな切符もありました。
北京がまた北平にもどる時がくるでしょうか?
2013年5月8日水曜日
2013年5月7日火曜日
2013年5月6日月曜日
2013年5月4日土曜日
2013年5月3日金曜日
古賀市と騎馬民族
古賀市谷山の船原古墳の近くから、馬具一式が出土し、国宝級と騒がれている。
初期の説明会:わが夫婦の姿も奥にみえる。 |
古代から馬とのかかわりが大きかった場所らしい。
近くのグリーンパークの周辺には馬渡・束の浦遺跡、馬渡という地名や馬渡橋があり、ヒンドウという字名もある。
馬渡・束ヶ浦遺跡では3基の甕棺が出土し、中から青銅製品が発見された。古賀市付近はいわゆる「甕棺文化圏」の東限にあたるものと思われている。
甕棺 |
古賀ICの近くには馬違池があり、その北側には福岡県馬術競技場がある。
江上波夫の「騎馬民族国家」論では、5~6世紀の古代に騎馬民族が多数渡来してきて、まず北部九州に上陸して古賀周辺に駐屯したであろうという。馬のいななきが、犬鳴き連山にこだまして、この山の名前となったという説もある。
近代の日本人が明治時代の脱アジアや戦後のアメリカ化のような急変化を行ったように、5~6世紀の倭人も、騎馬民族の強力な文化に刺激されて、馬力とその文化の導入に傾倒したのであろう。
2013年5月2日木曜日
筑後川の名称
連休で原鶴温泉にでかけた。丁度連休の谷間だったので、客も少なくゆっくり出来た。
宿の浴室の一つに「千歳の湯」と名付けられたのがあった。聞いてみると筑後川は、かって千歳川、筑間川などとよばれていたという。
公式名称は、寛永15年(1638)に徳川幕府により「筑後川」と呼ぶようにきめられた。
一番古い名前はちとせ川(千年川・千歳川)である。
藤原清長の選による和歌集(1310)には、
「君か為かきりもあらし千とせ川 ゐせきの波のいくめくりとも」
という明峰寺入道摂政の歌がある。
そのほか、中村梅鳥の「仲秋千年川に舟を浮ぶ」の漢詩
蝶夢の「菜の花の色もはてなし千歳川」の俳句
などがある。
現在も菜の花の色ははてなしである。
筑間川という名称は、筑前と筑後の間を流れる川だから、という意味をもたせた名称だ。
そのほか、筑紫次郎、一夜川などの呼び名もあった。
地元には千歳小学校があり、義弟の母校であることを思い出した。