2013年6月29日土曜日

山川兄弟姉妹

放送大学で、長男の大蔵、次男の健次郎、妹(さき・咲子)後に捨松の紹介があった。
大蔵(オオクラ)は家督を継ぎ、若くして海外留学もして戊辰戦争を戦った。明治以後は浩と名乗ったという。
敗戦後の明治直後は生活に窮して、妹の捨松を函館の里子に出したという。
これが黒田清隆の派遣人材に選ばれるチャンスにつながった。
健次郎も明治政府の留学生に選ばれたので、3人とも明治時代では花形人生を迎えた。

2013年6月28日金曜日

山本家と山川家

山本家は八重の実家
 父権八は砲術家で百石程度。長男は覚馬で、弟に三郎、妹に八重がいる。八重と山川大蔵は同じ年齢。
 覚馬は失明しながら、明治以後も活躍する。

山川家は家老格の家。父山川重固(尚江)は千石の身分。
 長男は大蔵(明治以後は浩)で、弟に健次郎、妹に捨松がいる。
 浩は会津戦争で活躍した後幽閉されるが、軍人として復活し、西南戦争に参加し、陸軍少将 男爵となる。
同じ山のため山川、山本は混同されることが多い。

2013年6月26日水曜日

黒田官兵衛の女性と宗教

黒田官兵衛は正妻のみで、側室をもたなかった。それで今まで大河ドラマになりにくかったという。
正妻は照福院(照姫)という。浄土宗の熱心な信者で、福岡城の北側にある円応寺にまつられている。
その妹も出家して、住吉神社の近くに妙円寺をつくり、ここにまつられている。やはり浄土宗である。
妙円寺の住職は私の菩提寺(浄土宗:一光寺)の田中住職の兄である。
官兵衛は臨済宗などを信仰していたが、晩年はキリスト教徒になっていたという。

2013年6月25日火曜日

黒田官兵衛の家紋

今日は黒田官兵衛の2回目の講演をきいた。
黒田官兵衛が荒木村重を説得にいき、有岡城の土牢に幽閉されという有名な話だった。
そのとき藤の蔦が牢の庇にのびてきて、藤の花を咲かせたので、官兵衛は生きる勇気を感じて、母里らに救助されるまでの気力を維持できたという。
その後黒田家の家紋は「藤の三巴」となった。




その他の有名な武将で、藤の花を家紋にした人物をあげると、次のようになる。

黒田官兵衛 その2

今日は2回目の講演をきいた。前回より人が増えたため、前回の話を復習する内容が多かった。
官兵衛の妻は光姫(テルミメ)一人で、側室がいなかったため、大河ドラマになりにくかったという説は面白かった。
妹が福岡で尼になり、妙円寺をつくったという。浄土宗で、住吉神社の前にあり、現在は一光寺の田中和尚の兄が和尚である。

2013年6月23日日曜日

叙勲お祝い

今年の秋は友人の溝口君と親類の吉田君の叙勲のお祝いに出席した。
87歳の溝口君は大学再建と美術館設立などの功績、吉田君は40年にわたる土地収用委員会の仕事の功績。
昔流にいえば勲3等と勲5等の差。
しかし3等のほうは中学同窓生10名、5等のほうが関係者200人以上をあつめる大祝賀会であった。

2013年6月21日金曜日

ウイルマークの掲示板

ウイルマークの掲示板に、平山さんの歴史講演会のことが貼り出されていた。タイトルは名島の歴史で、元香住ヶ丘高校の校長という肩書きである。

2013年6月20日木曜日

志賀島の金印の謎(更新)


かって岡本顕実さんの、「志賀島の異聞」という講演をきいた。金印発掘で有名な志賀島であるが、高麗人が住んでいたという部落(高麗林、唐人塚、金港)や、その関係資料や発掘物(陶器類)などの話であった。
志賀島歴史研究会のメンバーで元毎日新聞の記者からフリージャーナリストとなり、九産大講師なども勤めたことがある人物だ。志賀島で発掘された金印の謎も少し触れられた。

その後、金印シンポジューウムが、志賀島や九産大であり、
テレビでも放映されたので、「金印の謎」について纏めてみた。

1)文字「漢委奴国王」の読み方。
金印を与えたのは後漢の光武帝

後漢書の「東夷伝」

これを魏志倭人伝や後漢書との関連つけたのは、
甘棠館の亀井南冥である。彼は、委奴を倭奴(ワド)と解釈し、倭国と詠んだ。
亀井南冥

委奴を伊都(イト)と読んだのは藤貞幹や上田秋成である。






明治になり、三宅米吉が、倭(ワ)の奴(ナ)と分けて読んだ。西南学院大の高倉教授は、これが正しいとされている。


仏教大の黄色教授は、奴国(ヌコク)を大きい国(連合国)と読む。奴や乃は(nui)で、大きいという意味があるという。
最近では人偏を省略するのはおかしいから、伊都国がただしいという説が強くなっている。
伊都国には、大陸との交流を示す出土品が多数あることが裏付けとなっている。



2)金印の材質と寸法

金印の材質は純度95%以上の純金であり、江戸時代の大判、小判などは、85%以下だから、これを鋳造しても作れない。


1989年に福岡市教委で、成分分析して、中国産の砂金を原料とする鋳造品と判定している。
寸法も1寸が30ミリと24ミリの時代があり、後漢時代は24ミリの時代の作であるから、正式のものである。

3)金印のつまみ

洛陽より北の国にはにはラクダ、南に国には蛇の形をつけていた。
志賀島の金印はラクダを蛇に変更した様子が残っている。北か南か迷っていたらしい。

4)偽造説
文章や文字の形や削り方から、江戸時代の偽造とする意見がいくつかある。
江戸初期の学者が文言に異義をだした。しかし金印と同じ事例がみつかり、否定された。

最近では、三浦佑之(2006)の著書で話題をよび、さらに今回の金工家鈴木勉の説が2013頃から提唱されはじめた。
鈴木勉氏

文字の形、彫り方、線の表現方法、線の太さなどについての異義がだされたが、偽作という決定的な証拠はでていない。

漢の文字がつく金印は、66ケ造られていたようで、廣陵王璽の刻印とだけ比較した鈴木の偽造説などは、地方新聞の片隅にのるくらいのものであろう。

しかも、偽造の目的や人物の姿は全く不明で、材質の純度から、江戸時代の偽造は不可能に近い。


5)関係者の不審死

亀井南冥は最初の文字の判定者であったが、
彼の甘棠館が火事で焼失し、彼の自宅も出火して死亡した。志賀島でも発見者の甚兵衛宅付近からも大火がおこったという。また甚兵衛の名前が地元の寺の過去帳に見当たらないという説もあったが、大谷光男の調査で、地元庄屋の古文書で見つかったという。


6)志賀島でみつかったわけ

発見当時修猷館の竹田館長が、金印は天皇家所有のもので、安徳天皇が壇ノ浦で入水されたとき所持されていたものが、潮流で流されてきたと推測した記録がある。



伊都国のものを、奴国が占領して持ち帰った説。
元寇の戦で大宰府まで侵攻した元軍が持ち帰ろうとして、嵐に逢い沈没したという説。
漢国から帰国した船が難破して沈没したという説。などなど諸説がある。

金印発見から今年で240年となるが、その謎はまだ完全には解けていない。


2013年6月17日月曜日

酒井田柿右衛門さん

昨日柿右衛門さん死去の報。
九産大で数回講演をきいたり、作品をみたり、産大の釜入れ式で一緒に薪を投げ入れたりした。親しみ深い人柄が思いだされる。
記念にもらった湯のみを大切にしよう。

2013年6月15日土曜日

毛利元就の教訓


 元就は弘治三年(1557)に家督を嫡子隆元に譲ってからも、尼子氏や大内、大友氏といった大勢力との戦いに心を砕きました。
 有名な厳島の戦いでは、隆元の情報と意見で陶との戦を決意し、元春の奇襲作戦と隆景の船団集結作戦を総合して勝利をします。
隆元は陶軍の情報を集め総合判断をする
隆景は村上水軍を呼び込む
元春は裏山から奇襲攻撃をする
 晩年になっても兄弟一族の結束を訴え、そこから有名な「三矢の訓」の話が創作されます。

 元就は前年の元亀元年(1570)九月から重い病にかかり、一時は回復して年を越したものの五月に再発、元亀二年(1571)6月14日の日、吉田郡山城で没しました。享年75歳。
このときは、毛利氏が九州から兵を撤退することになりました。

もう孫たちの時代になっていた関ヶ原の戦では、3本の矢も結束が破れて、徳川派に内通していた広家、寝返った小早川と、輝元の行動がばらばらであったため、2ヶ国に押し込められました。


2013年6月13日木曜日

榎本武陽と黒田清隆

北海道の五稜郭で対決したふたり。戦後黒田は榎本の救済運動に走り回り、明治政府では協力して活躍。子供同士を結婚させたとう。
昨日は榎本のお孫さんがテレビ出演、(東京農業大学の教授)。
残念ながら黒田のお孫さんはでなかった。

2013年6月12日水曜日

福岡発の国粋主義

平野国臣、野村望東尼からはじまり、福本日南、中野正剛、廣田弘毅、雑賀博愛などに繋がる人脈。
和歌を詠み、歴史と世評を訴える人物。欧米の良さに溺れず、日本の良さも伝える思想をいう。
今日聞いた石滝講義の流れである。

東条英機が、松前重義、中野正剛、新聞記者などを南方軍に徴兵したり、自殺に追い込んだり

した話は迫力があった。

2013年6月11日火曜日

三国同盟

日、独、伊の3国同盟なんて2,3年で自滅した。日、中、米の3国同盟なんてありえないだろう。

「相容れぬ 価値浮き彫りの 米中談」

武田、今川、北条の3国同盟の歴史が、数年で決裂した話を聞いて思う出した。

2013年6月10日月曜日

ナノフォトンCo.

河田聡(阪大教授)の文化講演会は面白かった。
ナノフォトン(株)を設立し、13名の企業で4億の売り上げを上げているという。
常識破りの挑戦で研究を続け、ベンチャーで製造まで手がけるやりかたは、たしかに独創的だ。
http://www.skawata.com/
ホーム頁をときおりのぞこう。

2013年6月8日土曜日

古賀谷山遺跡の追加発表

L字型に遺構を拡大して調査した結果、さらに土器や農機具などが発見されたという。
前面発掘調査するには予算などが伴わないらしい。

2013年6月7日金曜日

ウイルマーク

平山先生がウイルマークからの依頼で、名島の歴史の講演をするそうだ。不思議な縁だが、経緯を古賀さんに聞いてみよう。

2013年6月6日木曜日

秀吉と官兵衛の「中国大返し」の一週間


 六月六日から十三日までの一週間で、羽柴秀吉と黒田官兵衛らが明智光秀討伐へいわゆる「中国大返し」を行った。
 六月四日に水攻めしていた備中高松城(岡山市)は、清水宗治が切腹して落城し、毛利氏と誓紙を交わして正式に和睦停戦が成立。

これにより秀吉は堤を切り崩して水を抜く。秀吉は一刻も早く上方へ戻りたいが、下手に動くと異変を察知される恐れがあるため、毛利氏の動きを注視しながら何食わぬ顔をして五日を過ごす。
 この間に秀吉は味方を募るべく書状を発し、六日の朝に毛利氏の動きに変化が見られないのを確かめると、急ぎ軍令を発して陣を引き払い、姫路を目指した。
 悪天候のなか、秀吉は無我夢中で1日で姫路城に帰り着いたようにいわれていたが、最近の調査では3日かけていたようだ。

秀吉は姫路城の蔵に蓄えてあった米や金銀を全て配下の将士に分け与えると、兵の士気は大いに高まった。
つまりこの城にはもう戻ってこないぞという決意を、諸士に伝えたわけだ。
秀吉は浅野長政(当時長吉)を留守に置くと、全軍一丸となって九日に姫路を出陣した。
 夜遅くになって兵庫に着くと、一隊を淡路島に派遣して明智方の洲本城(兵庫県洲本市)主・菅平右衛門尉達長を攻撃させ、自身は十一日の朝に尼崎へ到着した。
 秀吉は大坂城の織田信孝・丹羽長秀や有岡城(伊丹市)の池田恒興らに参陣を求め、十二日に摂津富田まで陣を進めて軍議を開き諸将の部署を定めると、午後には早くも先鋒隊が天王山を巡って明智勢と小競り合いを起こします。
 十三日になって織田信孝・丹羽長秀が合流、ここに山崎合戦の幕が切って落とされた。

2013年6月5日水曜日

黒田長政

いま黒田官兵衛がブームだが、今日は長政のことを小和田さんが書いている。差し当たりのない内容で、特に新しい事実もないが、最後に「釈迦の間の異見会」という行事を行ったというのは、初めて知った。月に3日だけ、部下と直接あって話す機会を設けていたそうだ。

2013年6月4日火曜日

ゴルフコースの改善

和白コースのように古いコースは植木が太りすぎて、日当たりの悪い場所が増えてくる。
古いメンバーは植木を切るなというが、若いメンバーは暗部を嫌う。対立の議論がされていたが、次第に古いメンバーの数がへり、若いメンバーの意見が取り入れられてきた。
これで人気がでて、値上がりすれば良いのだが、効果があるだろうか?

2013年6月3日月曜日

織田信長と伊達政宗

草履を温めていた小僧を、しりに引いていたかと叱りとばしたのは、織田信長の話で有名だ。
今日の講談で、伊達政宗も同じことをしていたという。その小僧は僧侶となり、苦労して高僧となった。
のちに瑞巌寺の和尚となり、政宗はその弟子になったという。
藤吉郎の話を真似た作り話か、本当の話か?

2013年6月2日日曜日

■【本能寺の変】天正十年(1582)6月2日

備中の秀吉を支援にむかうはずの明智光秀が謀反し、京都本能寺に織田信長を攻撃し、続いて二条御所に信忠を襲う。
光秀は福知山から京都にむかう
信長は本能寺に・信忠は妙覚寺にいた。
信忠は急遽二条御所に移る
信長からの逃げよという連絡がおくれる
信長は炎上する本能寺で、信忠は二条御所にて相次ぎ自刃。
信長享年49歳、信忠享年26歳。信忠が逃げよという司令で北へ逃げのびていれば、歴史は変わっていたかも知れない。
明智軍ははじめ本能寺のみを取り囲んだ
信忠は二条御所に篭城して自決した
本能寺再現図

高野山攻めに赴いた織田勢は信長死去の報に退却、高野衆に反撃され痛手を受ける。
イエズス会巡察師の記録に弥介が本能寺から二条御所に伝令した記録がある
またこの報に接した徳川家康一行は急ぎ国元へ向かい難を逃れたが、別行動した穴山梅雪は山城宇治田原で一揆に殺される。

美術館

昨日福岡市美術館に現代アート展を見に行った。雨模様の天気で、人影は少なかった。建物も陰気くさくて、美術鑑賞には不適な感じである。
梅雨時には、金沢21世紀美術館やフランスのルーブル美術館分館のような開放的な建築なら、もっと人も集まり易いだろう。

2013年6月1日土曜日

本能寺の変前夜(改訂)


本能寺の変の前夜、梅雨どきはなにかと心境の変化が大きい時期だ。光秀は愛宕神社での戦勝祈願のとき、「時は今」の句をよんだという。



明智光秀も、この時期にいろんな事件がかさなって、謀反の心をおこしたのだろう。
家康接待の席で信長から激しく折檻された
波多野氏に人質として母親を出したのに、信長の攻撃で母を殺された

その動機でのなかでもっとも強いのは、急に信長が四国征伐を決意したことだといわれている。
光秀の娘が長宗我部に嫁いでおり、光秀は信長との交渉役として働き、土佐一国で元親は信長に従うことを約束していた。
しかし信長が急に四国全土を自分のものにすると言い出したため、光秀の立場はなくなった。
元親がそのことを嘆いて書いた手紙が最近みいだされた。
当時光秀の家臣だった斉藤利三も同じように長宗我部と親戚関係だった。

それで最初は謀反に反対していた光秀の家臣団も、信長への謀反に同調意見となり、ついに本能寺の変はおこった。



しかし光秀の経歴をよくみれば、浅野氏・足利氏に仕えながらやがで離れて行き、信長にも絶対的な忠誠心をもっていたわけではない。源氏の系譜につながる土岐家や明智家の再興を目標としていた人物だから、忍耐しながら計略をめぐらし、謀反の機会をさぐっていたといえる。

この時期、信長の武将は皆遠方の地に出陣しており、京都近くにいるのは明智軍がけであった。このチャンスをとらえたからこそ、
三日天下ながらその目標をなしとげた。

「心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜しまじ名をも惜しまじ」
そのためイエズス会宣教師のきびしい光秀の人物評価も遺されている。
「はかなさを誰か惜まむ朝顔のさかりを見せし花もひととき」