放送大学で、長男の大蔵、次男の健次郎、妹(さき・咲子)後に捨松の紹介があった。
大蔵(オオクラ)は家督を継ぎ、若くして海外留学もして戊辰戦争を戦った。明治以後は浩と名乗ったという。
敗戦後の明治直後は生活に窮して、妹の捨松を函館の里子に出したという。
これが黒田清隆の派遣人材に選ばれるチャンスにつながった。
健次郎も明治政府の留学生に選ばれたので、3人とも明治時代では花形人生を迎えた。
2013年6月28日金曜日
2013年6月26日水曜日
黒田官兵衛の女性と宗教
黒田官兵衛は正妻のみで、側室をもたなかった。それで今まで大河ドラマになりにくかったという。
正妻は照福院(照姫)という。浄土宗の熱心な信者で、福岡城の北側にある円応寺にまつられている。
その妹も出家して、住吉神社の近くに妙円寺をつくり、ここにまつられている。やはり浄土宗である。
妙円寺の住職は私の菩提寺(浄土宗:一光寺)の田中住職の兄である。
官兵衛は臨済宗などを信仰していたが、晩年はキリスト教徒になっていたという。
正妻は照福院(照姫)という。浄土宗の熱心な信者で、福岡城の北側にある円応寺にまつられている。
その妹も出家して、住吉神社の近くに妙円寺をつくり、ここにまつられている。やはり浄土宗である。
妙円寺の住職は私の菩提寺(浄土宗:一光寺)の田中住職の兄である。
官兵衛は臨済宗などを信仰していたが、晩年はキリスト教徒になっていたという。
2013年6月25日火曜日
2013年6月23日日曜日
2013年6月21日金曜日
2013年6月20日木曜日
志賀島の金印の謎(更新)
かって岡本顕実さんの、「志賀島の異聞」という講演をきいた。金印発掘で有名な志賀島であるが、高麗人が住んでいたという部落(高麗林、唐人塚、金港)や、その関係資料や発掘物(陶器類)などの話であった。
志賀島歴史研究会のメンバーで元毎日新聞の記者からフリージャーナリストとなり、九産大講師なども勤めたことがある人物だ。志賀島で発掘された金印の謎も少し触れられた。
その後、金印シンポジューウムが、志賀島や九産大であり、
テレビでも放映されたので、「金印の謎」について纏めてみた。
1)文字「漢委奴国王」の読み方。
金印を与えたのは後漢の光武帝 |
後漢書の「東夷伝」 |
これを魏志倭人伝や後漢書との関連つけたのは、甘棠館の亀井南冥である。彼は、委奴を倭奴(ワド)と解釈し、倭国と詠んだ。
亀井南冥 |
委奴を伊都(イト)と読んだのは藤貞幹や上田秋成である。
明治になり、三宅米吉が、倭(ワ)の奴(ナ)と分けて読んだ。西南学院大の高倉教授は、これが正しいとされている。
仏教大の黄色教授は、奴国(ヌコク)を大きい国(連合国)と読む。奴や乃は(nui)で、大きいという意味があるという。
最近では人偏を省略するのはおかしいから、伊都国がただしいという説が強くなっている。
伊都国には、大陸との交流を示す出土品が多数あることが裏付けとなっている。
金印の材質は純度95%以上の純金であり、江戸時代の大判、小判などは、85%以下だから、これを鋳造しても作れない。
1989年に福岡市教委で、成分分析して、中国産の砂金を原料とする鋳造品と判定している。
寸法も1寸が30ミリと24ミリの時代があり、後漢時代は24ミリの時代の作であるから、正式のものである。
洛陽より北の国にはにはラクダ、南に国には蛇の形をつけていた。
文章や文字の形や削り方から、江戸時代の偽造とする意見がいくつかある。
最近では、三浦佑之(2006)の著書で話題をよび、さらに今回の金工家鈴木勉の説が2013頃から提唱されはじめた。
5)関係者の不審死
亀井南冥は最初の文字の判定者であったが、彼の甘棠館が火事で焼失し、彼の自宅も出火して死亡した。志賀島でも発見者の甚兵衛宅付近からも大火がおこったという。また甚兵衛の名前が地元の寺の過去帳に見当たらないという説もあったが、大谷光男の調査で、地元庄屋の古文書で見つかったという。
6)志賀島でみつかったわけ
発見当時修猷館の竹田館長が、金印は天皇家所有のもので、安徳天皇が壇ノ浦で入水されたとき所持されていたものが、潮流で流されてきたと推測した記録がある。
発見当時修猷館の竹田館長が、金印は天皇家所有のもので、安徳天皇が壇ノ浦で入水されたとき所持されていたものが、潮流で流されてきたと推測した記録がある。
元寇の戦で大宰府まで侵攻した元軍が持ち帰ろうとして、嵐に逢い沈没したという説。
漢国から帰国した船が難破して沈没したという説。などなど諸説がある。
金印発見から今年で240年となるが、その謎はまだ完全には解けていない。
金印発見から今年で240年となるが、その謎はまだ完全には解けていない。
2013年6月17日月曜日
2013年6月15日土曜日
毛利元就の教訓
有名な厳島の戦いでは、隆元の情報と意見で陶との戦を決意し、元春の奇襲作戦と隆景の船団集結作戦を総合して勝利をします。
晩年になっても兄弟一族の結束を訴え、そこから有名な「三矢の訓」の話が創作されます。
元就は前年の元亀元年(1570)九月から重い病にかかり、一時は回復して年を越したものの五月に再発、元亀二年(1571)6月14日の日、吉田郡山城で没しました。享年75歳。
隆元は陶軍の情報を集め総合判断をする |
隆景は村上水軍を呼び込む |
元春は裏山から奇襲攻撃をする |
元就は前年の元亀元年(1570)九月から重い病にかかり、一時は回復して年を越したものの五月に再発、元亀二年(1571)6月14日の日、吉田郡山城で没しました。享年75歳。
このときは、毛利氏が九州から兵を撤退することになりました。
もう孫たちの時代になっていた関ヶ原の戦では、3本の矢も結束が破れて、徳川派に内通していた広家、寝返った小早川と、輝元の行動がばらばらであったため、2ヶ国に押し込められました。
もう孫たちの時代になっていた関ヶ原の戦では、3本の矢も結束が破れて、徳川派に内通していた広家、寝返った小早川と、輝元の行動がばらばらであったため、2ヶ国に押し込められました。
2013年6月13日木曜日
2013年6月12日水曜日
2013年6月11日火曜日
2013年6月10日月曜日
2013年6月8日土曜日
2013年6月7日金曜日
2013年6月6日木曜日
秀吉と官兵衛の「中国大返し」の一週間
六月六日から十三日までの一週間で、羽柴秀吉と黒田官兵衛らが明智光秀討伐へいわゆる「中国大返し」を行った。
六月四日に水攻めしていた備中高松城(岡山市)は、清水宗治が切腹して落城し、毛利氏と誓紙を交わして正式に和睦停戦が成立。
これにより秀吉は堤を切り崩して水を抜く。秀吉は一刻も早く上方へ戻りたいが、下手に動くと異変を察知される恐れがあるため、毛利氏の動きを注視しながら何食わぬ顔をして五日を過ごす。
これにより秀吉は堤を切り崩して水を抜く。秀吉は一刻も早く上方へ戻りたいが、下手に動くと異変を察知される恐れがあるため、毛利氏の動きを注視しながら何食わぬ顔をして五日を過ごす。
この間に秀吉は味方を募るべく書状を発し、六日の朝に毛利氏の動きに変化が見られないのを確かめると、急ぎ軍令を発して陣を引き払い、姫路を目指した。
悪天候のなか、秀吉は無我夢中で1日で姫路城に帰り着いたようにいわれていたが、最近の調査では3日かけていたようだ。
秀吉は姫路城の蔵に蓄えてあった米や金銀を全て配下の将士に分け与えると、兵の士気は大いに高まった。
つまりこの城にはもう戻ってこないぞという決意を、諸士に伝えたわけだ。
秀吉は浅野長政(当時長吉)を留守に置くと、全軍一丸となって九日に姫路を出陣した。
秀吉は姫路城の蔵に蓄えてあった米や金銀を全て配下の将士に分け与えると、兵の士気は大いに高まった。
つまりこの城にはもう戻ってこないぞという決意を、諸士に伝えたわけだ。
秀吉は浅野長政(当時長吉)を留守に置くと、全軍一丸となって九日に姫路を出陣した。
夜遅くになって兵庫に着くと、一隊を淡路島に派遣して明智方の洲本城(兵庫県洲本市)主・菅平右衛門尉達長を攻撃させ、自身は十一日の朝に尼崎へ到着した。
秀吉は大坂城の織田信孝・丹羽長秀や有岡城(伊丹市)の池田恒興らに参陣を求め、十二日に摂津富田まで陣を進めて軍議を開き諸将の部署を定めると、午後には早くも先鋒隊が天王山を巡って明智勢と小競り合いを起こします。
2013年6月5日水曜日
2013年6月4日火曜日
2013年6月3日月曜日
2013年6月2日日曜日
■【本能寺の変】天正十年(1582)6月2日
備中の秀吉を支援にむかうはずの明智光秀が謀反し、京都本能寺に織田信長を攻撃し、続いて二条御所に信忠を襲う。
信長は炎上する本能寺で、信忠は二条御所にて相次ぎ自刃。
信長享年49歳、信忠享年26歳。信忠が逃げよという司令で北へ逃げのびていれば、歴史は変わっていたかも知れない。
高野山攻めに赴いた織田勢は信長死去の報に退却、高野衆に反撃され痛手を受ける。
またこの報に接した徳川家康一行は急ぎ国元へ向かい難を逃れたが、別行動した穴山梅雪は山城宇治田原で一揆に殺される。
光秀は福知山から京都にむかう |
信長は本能寺に・信忠は妙覚寺にいた。 |
信忠は急遽二条御所に移る 信長からの逃げよという連絡がおくれる |
信長享年49歳、信忠享年26歳。信忠が逃げよという司令で北へ逃げのびていれば、歴史は変わっていたかも知れない。
明智軍ははじめ本能寺のみを取り囲んだ 信忠は二条御所に篭城して自決した |
本能寺再現図 |
高野山攻めに赴いた織田勢は信長死去の報に退却、高野衆に反撃され痛手を受ける。
イエズス会巡察師の記録に弥介が本能寺から二条御所に伝令した記録がある |
2013年6月1日土曜日
本能寺の変前夜(改訂)
本能寺の変の前夜、梅雨どきはなにかと心境の変化が大きい時期だ。光秀は愛宕神社での戦勝祈願のとき、「時は今」の句をよんだという。
明智光秀も、この時期にいろんな事件がかさなって、謀反の心をおこしたのだろう。
家康接待の席で信長から激しく折檻された |
波多野氏に人質として母親を出したのに、信長の攻撃で母を殺された |
その動機でのなかでもっとも強いのは、急に信長が四国征伐を決意したことだといわれている。
光秀の娘が長宗我部に嫁いでおり、光秀は信長との交渉役として働き、土佐一国で元親は信長に従うことを約束していた。
しかし信長が急に四国全土を自分のものにすると言い出したため、光秀の立場はなくなった。
元親がそのことを嘆いて書いた手紙が最近みいだされた。
当時光秀の家臣だった斉藤利三も同じように長宗我部と親戚関係だった。
それで最初は謀反に反対していた光秀の家臣団も、信長への謀反に同調意見となり、ついに本能寺の変はおこった。
しかし光秀の経歴をよくみれば、浅野氏・足利氏に仕えながらやがで離れて行き、信長にも絶対的な忠誠心をもっていたわけではない。源氏の系譜につながる土岐家や明智家の再興を目標としていた人物だから、忍耐しながら計略をめぐらし、謀反の機会をさぐっていたといえる。
この時期、信長の武将は皆遠方の地に出陣しており、京都近くにいるのは明智軍がけであった。このチャンスをとらえたからこそ、
三日天下ながらその目標をなしとげた。
「心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜しまじ名をも惜しまじ」 そのためイエズス会宣教師のきびしい光秀の人物評価も遺されている。
「はかなさを誰か惜まむ朝顔のさかりを見せし花もひととき」