2013年10月30日水曜日
2013年10月25日金曜日
中津城での謀殺の理由
「築上町でのシンポジュウムで、小和田先生の話。」
黒田官兵衛は地元豪族にたいして、黒田に従えば現在の領土は安堵すると宣言していた。
宇都宮氏もそのつもりで安心していたのに、秀吉から四国への移封命令がでた。
しかもその正式書類も届かない状態が続いた。
そこで遂に反抗の兵をあげたものと考えられる。
官兵衛も兵力戦では解決が長引き、佐々のようになるのをあそれて、謀殺の手をえらび、
自分も隠居して、長政に家督を譲ったと思われる。
黒田は福岡にうつり、細川が中津城に入ったが、さらに小倉に移動した後、奥平が中津城に入り、この地区を治めた。
2013年10月23日水曜日
宇都宮氏(城井氏)の滅亡1
黒田官兵衛が城井谷の城井氏(宇都宮氏)を謀殺した事件は、福岡市の人たちにはあまり知られていない。
豊前の人たちでも若い人はあまり知らないようだ。全国的にも有名な事件ではない。
今度の大河ドラマでどの程度とりあげられるか?疑問である。官兵衛にとって最大の汚点だから。
2013年10月17日木曜日
2013年10月11日金曜日
2013年10月9日水曜日
2013年10月8日火曜日
如水の生誕地を地図で確認
摂津や播磨地区は土地勘がないので、官兵衛の生誕地の名前をきいても
ピンとかない。
昨日は詳細地図で、琵琶湖の北端の木之本村や、西垣市の北西にある黒田庄町などをしらべて、やっと明確になった。
当時の豪族の行動範囲からみて、黒田庄町のほうが生誕地として合理性があるように思えた。