岩屋城址 |
あまりにも早い終焉だが、斜陽の大友家にあって、最後まで義に生きた名将・高橋紹運の名は、四百年以上を経た現在においても色あせることなく語り継がれている。
その生家は吉弘氏で、秀吉の没後の関が原の戦乱当時、大友軍として黒田如水と別府で戦い、敗れて滅亡している。
紹運の長男は立花道雪の養子となった立花宗成で、関が原の戦乱後も復活して柳川藩主となり子孫は江戸末期まで存続した。
安川敬一郎 |
薦野増時 |
米多比鎮久の記事〔連載の一部) |
薦野増時の特集号の表紙 |
佐々成政 |
隈部親永の銅像 |
隈部親永銅像 |
真っ先に兵を挙げたのは、六万石以上の大名に匹敵する勢力を持っていた隈部親永であった。佐々成政が、隈部氏の居城の菊地城を攻めると、菊池城はあえなく落城。隈部親永は息子の親泰とともに山鹿の城村城に立て篭もる。 岩野川をへだてて日輪寺の向いにある城村城を、佐々成政が攻めている最中、手薄になった隈本城を益城方面の国衆が攻め立て、隈本城は危うくなる。成政は城村城に城兵が外に出られないように門に城をを築く、いわゆる付城をして、ひそかに隈本城に帰ります。この時、佐々宗能を影武者に仕立て植木方面を帰らせる途中、内空閑氏の兵士によって宗能は殺されてしまうが、成政は無事隈本城に帰還した。 隈本城は落城寸前でしたが、秀吉が隈本城に人質にとっていた阿蘇大宮寺家の阿蘇惟光、惟義を成政は巧みに利用し、益城の国衆を同士討ちにし、難を逃れる。 その間、城村城の付近(成政軍)の食糧が底をつき、成政は、柳川藩の立花宗茂に援軍を頼む。和仁の田中城(現三加和町)に立て籠もっていた国衆の和仁親実や、大田黒城に立て籠もっていた大津山家稜は、立花氏の軍勢とも一戦を交えた。しかし、成政軍は守勢一方であったため、ついに秀吉に援軍を頼む。 十月一日から京都で大茶会を催していた秀吉は、急ぎ茶会をとりやめ、肥後国衆一揆勢に対して、九州・四国各藩から約二万人の軍勢を送り込む。隈部氏をはじめ武士農民が一万八千人立て籠った城村城、さらに一万数千人が立て籠った田中城の攻防は、実に半年にわたって続いた。 秀吉は「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばし、徹底的に弾圧しました。ついに田中城は落城し、和仁一族は討滅され、城村城は停戦開城。 隈部一族は、翌年になって殺された。 佐々成政は、秀吉から責任をとらされて切腹。秀吉は、加藤清正や福島正則らの武将を派遣し、反抗した国衆を処分し、検地、課税額の決定を強行。かくして肥後の中世を支配してきた国衆のほとんどは滅びた。 国衆一揆の翌年の天正十六年(一五八八)、肥後の新領主として北に加藤清正、南に小西行長が任命され、ここに肥後の中世は終焉を迎えた。そして、国衆たちの支配下にあったとはいえ、中世期のもつ自由を帯びていた民衆も、農耕にのみ専従させられる近世的社会へと移っていった。 |