2014年7月27日日曜日

岩屋城の戦い

岩屋城址
天正十四年(1586)7月27日,筑前岩屋城に籠もる高橋紹運が、島津軍の猛攻の前に再三善戦した後に自刃、城兵も全員玉砕して落城。紹運享年39歳。
あまりにも早い終焉だが、斜陽の大友家にあって、最後まで義に生きた名将・高橋紹運の名は、四百年以上を経た現在においても色あせることなく語り継がれている。
その生家は吉弘氏で、秀吉の没後の関が原の戦乱当時、大友軍として黒田如水と別府で戦い、敗れて滅亡している。
紹運の長男は立花道雪の養子となった立花宗成で、関が原の戦乱後も復活して柳川藩主となり子孫は江戸末期まで存続した。

2014年7月24日木曜日

かるみの俳句


松尾芭蕉の俳句も、晩年になって「かるみ」という理念の域に到達した。

和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すことにした。

木のもとに 汁も鱠も 桜かな 
   (このもとに  しるもなますも   さくらかな)
「花見の句」だが、「かかりを心得て、軽みをしたり」と述べ、
「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残していないが、
「高く心を悟りて俗に帰す」という言が残されている。

丸谷才一の句にも、このかるみの句が多い。

軽井沢も 暑いと聞いて 安心す
ばさばさと 股間に使ふ 扇かな
アジアでは 星も恋する 天の川
雪月花の ときに思へや いろは歌

特に暑い夏には、かるみの句が好まれそうだ。
 
 
 
 


2014年7月20日日曜日

官兵衛の賭け

今回の大河ドラマでは、今までの通説を破って、黒田官兵衛が「信長の死」を毛利方の一部の人物にもらして和平工作を進めるストーリーになっている。
面白いけれども現実的でない場面が幾つかあった。あまりに小早川隆景と官兵衛の仲を親密化しすぎである。

2014年7月17日木曜日

志登神社

15日夜、福岡県糸島市の志登神社で、本殿などが全焼する火事が発生し、木造の本殿と拝殿あわせて約130平方メートルを全焼した。
神社境内でことし3月にも伐採した樹木の一部を焼く火事が起きており、警察は不審火の疑いも視野に調べている。
以前史蹟めぐりで訪れた記憶では、豊玉姫が祀つられており、海上からも参拝できるよう西向きに建てられいる。
ちかくには有名な志登支石墓群があり、弥生時代前期の朝鮮系巨石墳墓として貴重な国指定遺跡になっている。

2014年7月14日月曜日

黒田藩の贋札事件

明治維新直後の混乱期に起きた黒田藩の贋札事件の裁きは、幕末における黒田藩の評価とみられる。
新政府内の岩倉具視や長州藩幹部は、幕末期に、勤皇派の公家五人を冷遇し、勤皇派の加藤司書・平野国民・野村望東尼などを弾圧した黒田藩に悪い心証をもっていた。
薩摩藩の西郷隆盛だけが、黒田藩主が島津家から養子で入った人物で、斉彬公の家臣を保護した経緯などから、同情的な心証をもっていた。
事件を穏便にという西郷の説得にも拘わらず、政府の判決は厳しかった。
藩主は藩知事免官・閉門という刑。
藩幹部の次の5人は斬首(切腹の説も)。
立花増美(大参事)・矢野安雄(同じ)・小河愛四郎(権参事)・徳永織人(小参事)・三隅伝八(司計局判事)の5人。
浦上玄之丞、半田利総ら4人は遠島十年。 徒刑三年が3人。 閉門は多数。タレントのバカリズムの祖先もその中の一人であったらしい。
立花増美は古賀市の薦野城主であった薦野増時の子孫、徳永織人は、明治鉱業や安川電機の創設者、安川敬一郎の兄。
二人とも、私の郷土史の縁者であった。
安川敬一郎
薦野増時

2014年7月13日日曜日

薦野氏と米多比氏

古賀市の中世城館跡は、8か所ある。
[薦野]①臼ケ岳(薦野)城 ②鶫岳城 ③小松岡砦、
[米多比]④米多比城、
[町川原・青柳]⑤古子城⑥四万城⑦新城山城,
[筵内]⑧鷺城…福岡県文化財調査報告書(第250集)

古賀市の戦国時代の代表的豪族は薦野氏と米多比氏であり、この両者の比較をまとめてみる。

1)古賀町誌では薦野氏が10頁分、米多比氏が5頁分の記載で、最近発行の「古賀市うるわし」でも、薦野氏がメインで、米多比氏は2割程度の行数で紹介されている。

2)市の広報誌では米多比氏を昭和50年頃掲載、薦野氏は平成25年にやっと掲載された。
米多比鎮久の記事〔連載の一部)
薦野増時の特集号の表紙
3)現在の行政区地名として、薦野区、米多比区が隣接しており、その東側丘陵地(300m弱)に,薦野城跡と米多比城跡が現存している。


薦野城と米多比城の標高の比は1.14倍。
4000石と3500石の比に偶然一致していた。


4)古文書としての数は、米多比氏が150、薦野氏が80。
 立花鑑載の謀反事件の時に、薦野宗鎮と米多比大学は暗殺されるが、謀反を鎮圧した立花道雪が立花城主となり、二人の子薦野増時と米多比鎮久は忠臣の子として取り立てられ、次の城主立花宗茂にもよく仕えた。
5)宗茂が柳川城に移封したときの禄高は、薦野氏が4000石、米多比氏が3500石。 
6)古賀時代の明確な石高数値は不明だが、大内勢と大友勢が拮抗していた時代は、米多比氏の活躍が上位だったようで、大内・宗像勢が撤退し、さらに大友が滅んで黒田が入るときに、立花氏が柳川に移動してからは、薦野勢の活躍が上位になったようだ。
7)同時代の薦野増時と米多比鎮久を比較すれば、増時は戦場の活躍のほかに、先見性や交渉力などが優れていたようだ。

8)黒田時代では、筑前で薦野氏の子孫が黒田姓や立花姓で活躍しており、なかでも立花実山が歴史に名をのこしている。
幕末の黒田藩偽札事件の筆頭責任者として切腹した立花増美は薦野氏の子孫である。

最近では「薦野の歴史をつなぐ会」の皆さんが、案内表示を設置したり、史跡案内をしたりされているので、薦野氏のほうが親しみやすくなっている。





子孫のかたも地元を訪問されている。
米多比氏のほうも同じような会の活動がほしい。


城跡の地形と標高


2014年7月10日木曜日

肥後国人一揆(隈部親永達)

 豊臣秀吉は九州へ軍を進めて島津氏征伐を行い、九州を平定して改めて国割りを行った。
その結果、佐々成政に肥後一国が与えられることになるが、成政はいきなり難しい局面に立たされる。
佐々成政
 肥後は元々菊池氏が治めていたが、戦国期に入ると力のある家臣たちが次々と独立して国人化し、菊池氏の存在は有名無実化していた。
こうして地域ごとに独立した国人衆がそれぞれの地域を支配し、有事の際にはそれぞれの判断で進退を決めていた。
当時、肥後中央部に隈本城主・城久基、北部に隈府城主・隈部親永、北西部に筒ヶ岳城主・小代親泰、南部に人吉城主・相良長毎といった国人衆が割拠していたが、このうち隈部親永が成政に対して公然と反旗を翻す。



隈部親永の銅像
隈部親永銅像



 秀吉は成政を肥後国主として任じた際、「五ヶ条の制書」と呼ばれる朱印状を下すが、その中に「三年検地有まじき事」という一条がある。それに反して成政が性急に検地を行ったため国人衆が反発したとされるが、実態はもう少し複雑な事情があったようだ。
 肥後の国人衆たちは秀吉の九州平定後、旧領は安堵されたものの、所領は大きく減らされた。
 細かく言えば、菊池氏支配当時の所領に戻されたわけで、その後戦国期のどさくさに紛れて押領した分はすべてカットされた。
 隈部氏の場合を例に取れば、千九百町あった所領が八百町に減らされた。これでは国人たちが反発するのは当然。
 しかし、国人たちにも問題があった。彼らは本領安堵の意味を従来の大友・龍造寺・島津氏による肥後争奪時代と同様に考えていたようで、成政から通達された際にも「我々は秀吉公から所領を安堵されている。貴公(成政)から指図を受けるいわれはない」といった態度に出た。
 国人衆にすれば秀吉の家臣ということでは成政とは同格であり、その下に入ることが納得できなかった。
 ともあれ隈部但馬守親永は、子の山鹿城(熊本県山鹿市)主・式部大輔親安(泰)と籠城し、成政に反抗した。


真っ先に兵を挙げたのは、六万石以上の大名に匹敵する勢力を持っていた隈部親永であった。佐々成政が、隈部氏の居城の菊地城を攻めると、菊池城はあえなく落城。隈部親永は息子の親泰とともに山鹿の城村城に立て篭もる。

岩野川をへだてて日輪寺の向いにある城村城を、佐々成政が攻めている最中、手薄になった隈本城を益城方面の国衆が攻め立て、隈本城は危うくなる。成政は城村城に城兵が外に出られないように門に城をを築く、いわゆる付城をして、ひそかに隈本城に帰ります。この時、佐々宗能を影武者に仕立て植木方面を帰らせる途中、内空閑氏の兵士によって宗能は殺されてしまうが、成政は無事隈本城に帰還した。

隈本城は落城寸前でしたが、秀吉が隈本城に人質にとっていた阿蘇大宮寺家の阿蘇惟光、惟義を成政は巧みに利用し、益城の国衆を同士討ちにし、難を逃れる。

その間、城村城の付近(成政軍)の食糧が底をつき、成政は、柳川藩の立花宗茂に援軍を頼む。和仁の田中城(現三加和町)に立て籠もっていた国衆の和仁親実や、大田黒城に立て籠もっていた大津山家稜は、立花氏の軍勢とも一戦を交えた。しかし、成政軍は守勢一方であったため、ついに秀吉に援軍を頼む。


十月一日から京都で大茶会を催していた秀吉は、急ぎ茶会をとりやめ、肥後国衆一揆勢に対して、九州・四国各藩から約二万人の軍勢を送り込む。隈部氏をはじめ武士農民が一万八千人立て籠った城村城、さらに一万数千人が立て籠った田中城の攻防は、実に半年にわたって続いた。
秀吉は「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と檄を飛ばし、徹底的に弾圧しました。ついに田中城は落城し、和仁一族は討滅され、城村城は停戦開城。
隈部一族は、翌年になって殺された。

佐々成政は、秀吉から責任をとらされて切腹。秀吉は、加藤清正や福島正則らの武将を派遣し、反抗した国衆を処分し、検地、課税額の決定を強行。かくして肥後の中世を支配してきた国衆のほとんどは滅びた。

国衆一揆の翌年の天正十六年(一五八八)、肥後の新領主として北に加藤清正、南に小西行長が任命され、ここに肥後の中世は終焉を迎えた。そして、国衆たちの支配下にあったとはいえ、中世期のもつ自由を帯びていた民衆も、農耕にのみ専従させられる近世的社会へと移っていった。


2014年7月4日金曜日

博多山笠の歴史


山笠の季節となったので、県史を読み直してみら、山笠の数が時代により変っていた。
起源伝説では1243年、聖一国師が施餓鬼棚にのって疫病の祈祷を行ったことから始まったので、1基からのスタート。
文献では1432年、櫛田祇園祭りの御輿の御幸の後に12基の追山笠が担がれていったと記載。
近世になると博多を支配していた大内義隆が、12基の半分を周防山口の祇園祭りに流用させたので、博多は6基に減ったという。(山口での山笠はあまりニュースにならないが?)
秀吉時代博多町割りから現在の追い山7流れになった。



鑑賞用の市内の飾り山は年々増えて,今年は14箇所以上にもなったようだ。


2014年7月1日火曜日

名槍「日本号」の流


この槍は、無銘ながら日本一と称される逸品である。
30cm以上の穂先をもつ「大身の槍」は日本に三本しかなく、穂先に龍が剣にまきつく見事な彫りがある。
もともとは正親天皇のもので、次に室町将軍足利義昭にわたり、さらに織田信長、豊臣秀吉の手にわたった。
そして秀吉が戦功のあった福島正則に与えていた。
黒田長政の命で母里大兵衛が福島のもとを訪れた時、大杯の酒を飲み干してこの槍を貰い受けたのは有名な話。
母里家は明治10年の福岡の変で衰退し、槍は頭山満が千両で買い上げた。
その後玄洋社の侠客だった大野仁平の手にわたり、彼の死後安川敬一郎(明治鉱業社長)が一万円買い上げて保管していたが、大正9年に黒田家に寄贈した。
さらに昭和54年に福岡市美術館開館の時に、黒田家から福岡市に寄贈されて、現在は福岡市博物館の所蔵品となり、展示されている。