2015年3月29日日曜日

戦争遺跡

戦後70年で、戦争遺跡の調査がよく報道される。
わたしが学徒動員で働いたのは佐世保市郊外の山のなかで弾薬庫をつくる作業であった。
セメントを山の下からトロッコで山の中腹まで、押し上げる単純作業の毎日。
旧制高校の夏休みの2週間だったが、市内のお寺の本堂に雑魚寝して、ホロをかぶせたトラックで、山の中まで往復したから、いまだに何処の山か解からないままだ。
ただ山腹からみえた九十九島のすばらしい風景だけは頭にやきついている。
その記憶から推測すると、赤崎岳あたりの山の中らしい。
いまは叢にうずもれた姿が予想されるが、いちど見にいきたいものだ。
弾薬庫の跡の例
九十九島の風景

2015年3月28日土曜日

神屋宗湛のルーツ

博多の豪商神屋宗湛のルーツはいろんな説がある。
「神屋家由緒書」に、神屋家は八幡宮の官領職で、姓は菅原と記載されている。
 武野要子の「博多」という本では、遠祖は永富という人物。京都府大山崎の離宮八幡宮を調査をかねてお参りしたとき、となりに神屋タミエの表札を発見。調べると石清水八幡との関係のある家で、その後一族が、京都の戦乱をさけて博多にきたのでは?と推定している。
 泉澄一の「堺と博多:戦国の豪商」という本では、神屋家の始祖は永富でその6代目が宗湛。
八幡宮の官領職というのは、宗像社を間違えて伝えたと推測している。当時から日明貿易に従事いていた人物とかんがえている。
 上妻国雄の「宗像伝説風土記」という本では、藤原冬嗣の四男千歳磨が、宗像に下向して藤原村となずけた。その子孫の神屋主馬允繁貞が小高い山に屋敷と須賀社をたて、いまも字名で神屋として残っている。神山・神谷・野口・森田などがその子孫であるという。
知人に神谷氏がおり、FBで神山氏を知った。
二つが地元に関連があり、宗湛の妻は、宗像上八の承福寺で修行した景徹玄蘇の妹というから、宗像に関連のある説が、真実かもしれない。
子孫の墓

神屋宗湛

2015年3月25日水曜日

松下村塾の門下生 藤野荒次郎

松下村塾の家屋
塾生たち
門下生の名簿のなかに、わたしと同じ姓の人物をみつけた。
別名を市ニ郎といったらしい。毛利藩の藩士となっている。
安政4年8月に入門し、万延元年に久坂玄瑞らと山口にでかけたことまではわかっているらしい。

              しかしその後の消息は不明で、残念だ。
松蔭の「東行前日記」というメモ的文書のなかにも、荒次郎たちのことが記載されている。松蔭も目をかけていたらしい。

藤野・瀬能・阿座上に與ふ
子大至り、具さに三生及び林榮の讀書頗る進むことの状を語る。僕が喜び知るべきなり。男兒斯の世に生れて、酔生夢死、一として稱道すべきものなければ、啻に君父に辜負するのみならず、将に何を以て天地に俯仰せんとするや。今僕将に東に往かんとす、歸來期なく、復た諸生を見るべからず。諸生厚く自ら淬勵し、忠孝を天地に立てよ、乃ち學ぶ所に負かざるなり。目今吾が黨頗る志士あり、吾れの去る、未だ悲しむに足らざるなり。
【用語】
藤野・瀬能・阿座上 = 藤野荒次郎・瀬能百合熊・阿座上正蔵。何れも松陰の兵學門下であり、又村塾生であった。
林榮 = 未詳。
稱道 = 褒め称える。
辜負(こふ) = そむく。
天地 = 『孟子』尽心上篇第二十章「仰不愧於天、府不作於人」を踏まえている。
淬勵(さいれい) = 刻苦勉励すること。

日本陸軍の長州閥

 明治の日本陸軍の指導権は西郷隆盛の死後、長州の山縣がひきつぎ、長州閥の根拠となった。山縣のあと、桂太郎・寺内正毅・田中義一とつづく。
 東条英機の父英教は、反長州閥の「木曜会」を井口省吾らとつくるがつぶされて、日露戦争での成果をとわれて退役においこまれる。
 その後東条英機らの反長州閥が、昭和にはいって関東軍などで勢力を拡大して、陸軍の実権をにぎる。
 東条英機内閣では、寺内正毅の子供の寺内寿一を太平洋戦争では南方軍司令官に追い出した。
 東条が松前重義を懲罰召集して2等兵として南方に送ったときは、寺内が軍司令官命令で軍政顧問として働くようにした。さすがに東条もこれには手がだせなかった。
 敗戦色が強まって、英機内閣の延命を阻止したのは、長州の岸信介国務大臣だったという。
ただし後継者に寺内寿一の名前もでたが、英機は応じなかったという。
 東条の最後はよく知られているが、寺内寿一はシンガポールで降伏文書の調印を行い、マレーシアのレンガムで拘留中に病死し、シンガポールの日本人墓地に記念墓がつくられた。
寺内寿一
東条英機

2015年3月23日月曜日

今朝の庭木

快晴にめぎまれ今朝の庭木は白が光っている。満開のあとは落下の花びらの掃除が大変。
ソルダムの花
白木蓮の花

2015年3月21日土曜日

加藤司書とその子堅武

黒田藩家老の加藤司書は、黒田藩勤皇派武士の筆頭として活躍したが、藩主黒田長溥により処刑された。


その子堅武は、福岡の変(秋月の変)に参加し、福岡県令渡辺清により処刑された。




県令の渡辺清は、大村藩の武士時代は勤皇派で、加藤司書の助命運動を行ったくらいの人物だったが、明治維新以後は明治政府の官僚となり、福岡県の県令に選ばれていた。

内心は堅武を助けたいと思っていたが、立場上やむをえない判断だったらしい。

その後堅武の未亡人を密に自分の後妻にえらんだというから複雑である。

(秋月の乱の首謀者のうち武部小四郎は、福岡藩による勤皇派弾圧事件乙丑の変」で切腹した建部武彦の遺児、加藤堅武もその時同じく切腹した元福岡藩家老加藤司書の遺児であった。)

渡辺清は肥前大村藩士で 弟の渡辺昇とともに
明治維新の志士として知られた勤王家だった。
清は 普通の役人とは違っていて 筑前勤王党の
加藤司書、平野國臣等と交流もあり 
戊辰戦争での活躍が認められ、新政府軍の参謀として軍を率い、西郷隆盛の信頼は厚く、
江戸城明け渡しの際の西郷隆盛と勝海舟との会談に同席している。
乙丑の獄による 家老加藤司書切腹の際は 
助命のため奔走しているが
明治7年(1874)福岡県令になって 明治10年3月27日に発生した 「福岡の変」に
加藤司書の長男堅武が参加し 職務としてやむなく
処刑に当たるという皮肉な巡りあわせとなった。
後に堅武の未亡人チセと再婚したのは 弾圧した党への同情と 職務への忠誠との 板挟みに苦悩していたものと思われる。
福岡の乱 (福岡の変)
元福岡藩士の武部小四郎、越智彦四郎、平岡浩太郎、加藤堅武ら福岡党は
明治初期の反政府士族の反乱の(1874年)佐賀の乱
(1876年)の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱の
何れにも同調せず、
西郷隆盛の決起を待ち続け
1877年3月27日、西郷軍の熊本城包囲を知って、福岡城を攻撃した。
首謀者のうち武部小四郎は、福岡藩による
勤皇派弾圧事件「乙丑の獄」で切腹した 建部武彦の遺児。
興志塾に学び、ここで同志となる越智彦四郎や、後に玄洋社を設立する箱田六輔、頭山満、進藤喜平太、奈良原至、らと出会う。
1875年2月、大阪で民権確立を目指す集会に
越智彦四郎と共に福岡を代表して参加し
板垣退助率いる土佐立志社の主唱に応じ、
福岡に戻り、政治結社「矯志社」を結成。
矯志社には、平岡浩太郎、頭山満、進藤喜平太、
箱田六輔、奈良原至らが参加している。
(福岡の変)が敗れ 斬刑に処せられた。享年31

2015年3月18日水曜日

姫路城天守閣


日本の城郭で昔のまま天守閣が残っているのは12である。

このなかで国宝になっているのは、姫路、犬山、松本、彦根の4城であったが、最近松江城が追加された。

姫路城が大修理をおえて公開されたので、話題になっている。国宝のうち一番大きく、一番綺麗な天守閣である。
その昔一度は見学したが、修理後のすがたをもう一度眺めてみたいものだ。
テレビでの解説では、姫路城の瓦屋根まで白くみえるのは、漆喰の塗り方が盛り上がっているから、白く反射光が広がるためだたという。






2015年3月15日日曜日

南貞助(高杉晋作の従兄弟)

最近知った人物の紹介:


南貞助 長州藩士で高杉晋作の従兄弟


生誕年月日 弘化 4 ( 1847 )
没年月日 大正 4 ( 1915年 ) 7月 14日

明治時代は東京芝南英学舎経営など実業界で活躍
(幕末時代の名:高杉百合三郎、谷松助)


親族:マサ ( 母 ) 、高杉小忠太 ( 養父 ) 、高杉晋作 ( 従兄弟 ) 、
 ライザ ( 妻 ):国際結婚第1号


主な著作:大西新聞

経歴 :幕末期の長州藩士。明治期は実業家。
高杉晋作の父である高杉小忠太の妹マサの子で、文久二年 ( 1862年 ) 跡継ぎが晋作しかいないことに不安を感じた小忠太は、南貞助を養子に迎えた。
当時は、高杉百合三郎と名乗った。

元治元年 ( 1864年 ) 、藩政府打倒のために晋作が挙兵すると、谷松助と変名して参戦した。

慶應元年 ( 1865年 ) から三年 ( 1867年 ) までイギリスに秘密留学。費用は晋作から工面してもらう。

維新後は外国御用掛として新政府に出仕し、明治四年 ( 1871年 ) には東伏見宮嘉彰親王の英国留学に随従を任命され再びイギリスに留学を果たし法律、実業を学ぶ。
南貞助の銅像
貞助の墓(青山墓地)
この時イギリス人女性ライザと結婚。
日本における『国際結婚第一号』
十年後に離婚。子供が出来なかったためだが、マッサンのように養子、養女をもらはなかったのは残念。

大河ドラマ「花燃ゆ」には登場しないようだが、その後、外国人相手の旅行会社を設立するなど日本の国際化に奔走したようだ。

2015年3月11日水曜日

戦争のプロタガンダ10の法則

 

こんな本が売れているそうだ。
戦争のプロパガンダ 
 戦争の背景には必ず地政学的、経済的な利害があり、それに宗教が一枚加わる。
宗教も原理主義が加わると、さらに厄介な戦争になる。
 
 戦争を正当化するために使われるプロパガンダには10の法則があるとして、歴史の事実に基づいて詳しく解説をしたのが『戦争プロパガンダ10の法則』(アンヌ・モレリ著 永田千奈訳 草思社 2002年3月)である。
 この本の基になったのがアーサー・ポンソンビー(1871年~1946年)というイギリスの名門に生まれ下院、上院議員となり大臣まで経験した人物で、平和主義を貫くポンソンビーは第一次大戦中に義勇兵を募集するために行ったイギリス政府の戦争のプロパガンダを批判するパンフレットを発行し、のちに「戦時の嘘」を書いた。
 ポンソンビーによると、戦争プロパガンダの基本的なメカニズムは10の法則に集約出来るとしており、アンヌ・モレリがこの10項目を具体的に歴史の事実から証明をしたものである。
 第一次大戦、第二次大戦から湾岸戦争、コソボ紛争、イラク戦争まで10の法則が交戦国双方でどの様に使われて来たかを解説している。
戦争のプロパガンダ10の法則

 1.「われわれは戦争をしたくない」
 2.「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
 3.「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
 4.「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
 5.「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」
 6.「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
 7.「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
 8.「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
 9.「われわれの正義は神聖なものである」
 10.「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」
 
 太平洋戦争を経験した私も、戦時中これらのプロパガンダが日常生活の中に入り込んでいたことを思い出す。

 その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、アフガニスタン、イスラエルとパレスチナ、IS国、ウクライナの“戦争”などでも、民間人が攻撃をするのは「テロ」で、正規の軍隊が戦車攻撃やミサイルを撃ち込むのは「正義」というプロパガンダが流されている。
 
 情報技術が発達し、言論も大幅に自由となり、世界中の人がリアルタイムでテレビを見ている現在でもこの10の法則が実証されている。
 科学技術の発達と人類の知恵の発達とは、どうやら無関係らしい。
中国の防衛費が10%の伸びで、尖閣列島を乗っ取ろうとしている。これに対して日本は?というあせりの声がおこってい る。
 しかし敗戦国の日本は、永世中立で最小限の防衛本位の軍備ですますのが原則である。
藤原正彦の「国家の品格」では、情緒のある文化度の高い国は戦争を起こさないし侵略されにくいという議論がされている。
幕末の混乱期に植民地化されなかったのは、西欧諸国が日本の文化度の高さに感銘したからという説もある。
ギリシャなどが今も存在しているのは、かっての文明度の高さからだろうか。
だが軍国原理主義の指導者が近隣にいると、被害はまぬかれない。
その時はかってのフランスのようにあっさり占領されて、地下でのレジスタンス運動を展開するのがよかろ。
 昨日西ドイツの首相の話では、「戦後フランスはドイツに歩み寄ってくれた」と言う話をしていた。
ドイツは良い隣国をもって幸いだ。

2015年3月9日月曜日

戦争と防衛(司馬遼太郎:この国のかたち)

明治維新後の日本は、富国強兵をスローガンにしながら、富国よりも、強兵に走った。そして日清、日露戦争に勝利してからおかしくなった。
「日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせたとしいか思えない。

司馬遼太郎は、これを鬼胎の時代と名付けた。
「鬼胎とは、夢の中でみた鬼っ子」

愛国主義(パトリオティズム)よりも、国家主義(ナショナリズム)が暴走して、2次世界大戦をおこし、亡国の道を突っ走った。
愛国主義は国を良くしようと努力する人たちだが、国家主義は他国を見下ろす人たちだ。 このナショナリズムの暴走がとまらなかった。

それは軍人による憲法の統帥権の乱用がおこり、、天皇の統率命令を無視して、戦場拡大を行ったからだ。

「統帥権の万人は参謀本部で、事実上かれらの参謀たちは、それを自分たちが、”所有”していると信じてした。」
戦争体験のある司馬遼太郎は、鬼胎の時代の小説を書けなかった。書けば自分が精神異常をおこしそうに思えたからだという。

さて現在、隣国の中国では、防衛費が10%の伸びで増強されている。此れに対して日本は?とあせりの声がおこっている。 戦争プロパガンダ。
しかし敗戦国の日本は、永世中立で最小限の防衛本位の軍備ですますのが原則である。
藤原正彦の「国家の品格」などでは、文化度の高い国は侵略されないという議論がされている。
幕末の混乱期に植民地化されなかったのは、西欧諸国が日本の文化度の高さに感銘したからという説もある。
ギリシャなどが今も存在しているのは、かっての文明度の高さからだろうか。
だが軍国原理主義の指導者が近隣にいると、被害はまぬかれない。集団的自衛権でどの程度有効に防げるか定かはない。
その時はかってのフランスのようにあっさり占領されて、地下での抵抗運動を展開するのがよかろう。



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