2016年4月30日土曜日

小牧山城の築城

小牧市歴史館 
織田信長は、1560年6月12日永禄3年5月19日)の桶狭間の戦いに勝利したのち、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。
この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。早速、丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年7月には主要兵力をそっくり小牧山城に移した。

従来小牧山城は、4年間しか使用されず、あと岐阜城、安土城と移動したために、美濃攻略のための土塁による仮住まいの城と考えられていた。
しかし2004年からの試掘調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明し、当初信長は長期滞在も考えていた可能性が指摘されている。


信長が築いた小牧山城の構造は、山全体(約21ha)を城域とし、多数の曲輪と重臣の館から成っていたということがわかった。

また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。したがって築城の基本構想は、安土城とほぼ同じであったことがわかった。


移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻を繰り返し、ついに1567年9月17日(永禄10年8月15日)、美濃稲葉山城は落城、信長は稲葉山城を岐阜城と改名して移住した。これにより、小牧山城は約4年間の役目を終え、廃城となった。
現在の公園
頂上の天守閣風の歴史館は民間の寄付により建設されたそうだ。
歴史館入り口

2016年4月29日金曜日

日本人の起源

日本人の起源
    (放送大学アーカイブス:特別講義の要約)
     講師:自然人類学者 東大名誉教授 埴原和郎


東洋における古代人骨の出土場所

東アジヤで出土した古代人の人骨は、大きくは北方系と南方系にわけられる。北方系は面長で目が細く、南方系は四角で目が大きい。
上段は南方系で、下段が北方系
日本で最も古い人骨は沖縄の港川人で、中国の柳江で出土した骨と同じ南方系であった。


港川人(沖縄)


その後の弥生時代の日本列島での人骨を分類すると次のようになる。

渡来人は北方系
古墳人は従来人と渡来人の混血系

頭骨の進化と分布の変化
棒の長さは調査数
点線は混血系
右側が従来人

黒い部分が北方系が多い地方
この図をみると、邪馬台国は近畿と感じるが、これは古墳時代以降を含めた分布図であり、騎馬民族が急激に増加して近畿に集中してきたためと考えられる。
頭骨の分類と場所の相関
代表的な南系と北系の人物の顔の例を上、下で列挙する。


徳川家康(南系)
徳川家茂(北系)

アイヌ型は北方系のツングース型と類似している。

アイヌ

2016年4月27日水曜日

遠山金四郎(江戸町奉行)

天保11年(1840)3月2日、『遠山の金さん』こと遠山左衛門尉景元(通称・金四郎)が江戸北町奉行に任命されました。

江戸町奉行は、現在の警視庁長官と都知事と東京地裁長官をあわせたような非常に重い職務です。 
江戸幕府は基本的に権力の集中を避けるため同じ職務を複数の人に割り当てており、月交代で担当になることになっています。江戸町奉行の場合も、南町奉行と北町奉行があって、1ヶ月ごとに仕事をしていました。遠山金四郎ははじめ北町奉行でしたが、のち南町奉行になります。

遠山金四郎は吉宗の時代の大岡忠相(越前)と並び称される名奉行でした。 
大岡忠相が享保の改革を行った将軍・徳川吉宗の腹心として活躍したのに対し、遠山は天保の改革を行った老中・水野忠邦に近い人物として重用されました。 
吉宗は紀州藩出身者を登用して、新しい職種をもうけ、政治改革をしました。
吉宗と忠相は非常に信頼深い関係であり、旗本の身分から、はじめて大名格の町奉行に登用され、火付盗賊改方などをもうけて、江戸の治安をはかりました。
火付盗賊改方には「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵などがいました。


一方、景元と水野忠邦の間は常に緊張感のある関係であったようです。
 遠山景元が北町奉行として活躍した時代、南町奉行は鳥居甲斐守忠耀でした。
鳥居が天保の改革を厳密に実行しようとしたのに対し、遠山景元はそれを緩和して庶民の暮らしを守ろうとし、両者は常に緊張関係にありました。
例えば鳥居がある時、風紀上よくないとして江戸中の舞台小屋を全て廃止しようとした時、遠山は全て廃止するのはひどいとして、数個を残せるように交渉し、江戸の人々に喝采されました。
    当時江戸の人々は、鳥居のことを名前に引っかけてキツネと呼び、対して遠山のことをその更に上手のタヌキと呼んでいました。
何かと対立していた二人ですが天保14年(1843)2月24日、鳥居は非常に巧妙な策略で遠山を陥れ、遠山は閑職の大目付に左遷(形式上は昇進)されてしまいました。
しかし、そこからの遠山は大したものでした。鳥居を遙かに越える謀略で、ほとんど綱渡り的な反撃を行い、鳥居は失職します。鳥居忠耀のいろいろな違法行為が暴かれて、鳥居は四国丸亀藩お預けとなりました。そして、その後任の南町奉行には遠山自身が任命されました。
こうして遠山は弘化2年(1845)3月15日から嘉永5年(1852)3月20日まで、今度は南町奉行として、再び江戸庶民の権利を守るために活躍しました。
大目付から南町奉行へという公式には降格になるこの人事は異例中の異例ともいえるものでした。

さて、遠山景元は嘉永5年町奉行を辞任すると、晩年は帰雲という号で俳句を書いたりして悠々自適の余生を送り、3年後の安政2年2月29日に亡くなりました。
景元のお墓は西巣鴨の本妙寺にあります。
   明治維新以後、世間がだいぶ落ち着いて来たころ、徳川慶喜が東京市長にならないか?と相談されたとき、「おれに町奉行をやれと言うのか!」と拒否したそうです。元将軍さまがやれる仕事ではないですね。

真田の子孫と産物

大河ドラマの影響で、その子孫がよくテレビに登場する。
真田徹さんは幸隆から16代目と言う人物らしい。
風貌もどこかにかよっているが、禿げだからということで、着帽のままであった。
真田家が開発した強い真田紐が原点になって、いまも真田紬の製糸や紡績の特産品として、当地に残っている多くの産物の紹介がされた。


2016年4月25日月曜日

<益城の郡>(ましきのこおり)の歴史 改訂版

熊本地震で最も大きな被害のおきた益城町。今年の水害でも大きな被害をうけた。



わたしは隣の県に住みながら、益城町については無知であった。
熊本県の歴史散歩の本を開いても、名所旧跡らしきものがないらしい。
昔「通潤橋」を観光したときに、通過したかも知れない。
そこでネット検索で、古代の益城町の歴史を少ししらべてみた。

1)<益城の郡>(ましきのこおり)
山上憶良と麻田陽春(あさだのやす)の大伴君熊凝(くまごり)を悼む歌八首の憶良の序文に、

 大伴君熊凝は、肥後国(ひのみちのしり)益城の郡の人。年18歳、天平 3年 6月17日に、相撲の部領使(ことりつかい)の国司の従者となり、奈良の都に向かった。
 しかし天運に恵まれず、苦しい旅道の半ばで病にかかり、安芸の国佐伯の郡高庭の駅家で亡くなったとある。

憶良の短歌には、つぎの歌がある。

出でて行きし 日を数えつつ 今日今日と 我(あ)を待たすらむ 父母らはも(万葉集・巻5・890)

憶良は、少年熊凝の気持ちになりきって、その死者が後に残る両親を思う情を詠んでいる。

益城郡は、現在は上益城・下益城に分かれている。
『和名抄』は、8郷をあげているが、熊凝はどの郷出身かは未詳。

「君」は、地方の遠隔地の半独立的土豪などに、与えられた姓。
だから、熊凝少年は、益城郡では有力者の豪族の家の出身だった。

2)肥後の国府の場所は、水害のため白川から緑川の周辺を転々と移されたといわれている。

当初は、飽田(現在の熊本駅近くの二本木付近)にあったようだが、洪水の後、少し高台の益城国府(下益城郡城南町)に移転したようだ。

託麻という説もあるが、ここも低地で、洪水の被害はおおい。

しかし、益城国府については存在した期間が短く、確かな史料も少ないし、現在遺跡はなにも残っていない。

益城国府で有力なのは「陣内」と「宮地」と「古閑」とされていて、肥後の国の益城国府は「陣内、古閑、宮地」のどこかに移転していたようだ。
しかし不便のため、最後(平安末期~)は、また飽田国府にもどったことは間違いない。


3)益城町にある大手企業は、再春館製薬の本社・工場である。
 OR学会の九州支部長時代に、ここの社長と懇親があった関係で、会社の被害を心配している。
 孫娘がつとめている再春荘病院とは、名前が似ているが、これは、どちらも細川藩時代の薬草園の名前からなづけられたものだ。
再春荘病院は戦前から合志市に有る国立病院機構で、こちらは地震被害はなかったようだ。

東アジア海の歴史

アジア大陸の東側にある日本は極東とよばれている。
この周辺の海の名前は、時代とともに、下の図の青、緑、赤のように、いろいろ変わってきた。
この海を渡った遣隋使や遣唐使の渡航ルートも時代とともに変化している。しかし大陸内(東方大平原)には隋、唐時代から大運河があって、長安まで舟で行けた。
新羅が朝鮮半島を支配していた時代には、この海域の運行も広く支配していたようだ。
円仁が長安に渡ったときには、新羅の船を多用していた記録がのこっているようだ。
現代は中国が勢力拡大の触手をのばしはじめている。

2016年4月24日日曜日

ホクレア号

ポリネシアの伝統航海術を継承し、ハワイの人々のアロハスピリットをのせて世界を旅するホクレア号が、2007年に日本にやってきた。忘れかけていた10年前の姿が昨日のテレビで再映された

2007年、1月4日ハワイ島のカワイハエから出航し、マーシャル諸島マジュロミクロネシア連邦チュークサタワルヤップパラオ連邦のパラオなどを経由して日本へ。

日本では沖縄島奄美大島宇土野母崎長崎福岡新門司、祝島、周防大島宮島広島宇和島室戸、焼津、鎌倉沖、三浦を経て、最後に横浜に寄港。

ハワイへの移民を数多く輩出した関門の祝島や周防大島には5月に到着し、大歓迎をうけた。
祝島の歓迎船
祝島歓迎船と接触
大島商船桟橋

       横浜から船出する帰路のホクレア号の姿。