毛利元就は地方豪族の連合体の盟主で、唐傘連判状で豪族群をまとめていった。唐傘とは笠状に名前を書いていき、円形だから上位、下位の分け隔てがないことを表している。
この形式を考案したのは、彼が家督をつぎ、毛利一族をまとめていくまでの苦難が背景になっている。
毛利元就は明応6年(1497年)3月14日、安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男としてうまれ、幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は少輔次郎(しょうのじろう)という。
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元就の妻 |
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元就の系図 |
文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去する。
松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。
この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」と書き残している。
永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因はやはり酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。
家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。
その毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良ら重臣達の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。
この頃、吉川家から妻妙玖を娶り、家政をまかせる。
しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。
その後も異母弟との争いがあり、数年間は一族をまとめるのに努力している。
子供たちに諭した「三本の矢」のまえに、多くの矢をまとめる苦労が続いていた。
しかし彼の死後の毛利家にうけつがれたこの連合思想は、関が原の時に弱点をあらわした。 元就の先見性があってはじめて連合運営は成り立っていたのだ。