2016年8月24日水曜日

付属小学校出身の政治家・有名人


中野正剛と緒方竹虎は、同じ福岡師範付属小学校(福岡教育大学付属福岡小学校)の先輩と知っていた。
私が6年生の時の机の上板の裏には、初代に中野正剛、二代に緒方竹虎の名前が墨でかれていた。
20代くらいまで名前があったが、私の書くスペースはもう無かった。机は空襲で焼けてしまったのが残念だ。
また、5年生の時に中野正剛が母校訪問にきて講演をしたことを覚えているし、100周年記念誌にも記載されている。
だから戦時中は、中野正剛のファンであった。ラジオでの講演などは熱心に聞いた。
今でも中野、緒方の偉大な政治家との、わずかな絆が私にあるのは有難い。

中野正剛

緒方竹虎

この石碑の文字は緒方の書


緒方竹虎の下手上手の書「力行近于仁」:(りっこうきんうじん)と読む。
(漢和辞典引き引きの読み)
意味は、「誠心誠意、人のために尽くすことが仁の心に近づく道」(意訳)
『礼記』からとった言葉。



緒方は、ヘタウマ文字を自宅の表札にも使っていた。





緒方竹虎の弟は緒方龍という医師。大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)後、大陸、半島から引き揚げてくる邦人の治療を行った。その場所は博多港に近い聖福寺(福岡市博多区)だが、そこに野戦病院のような病院を開いた。そこには、ソ連兵、満洲人、朝鮮人に強姦され、妊娠した女性たちもおり、ひそかに二日市温泉(福岡県筑紫野市)の二日市保養所で堕胎手術を行った。麻酔無し、悲鳴が近隣に響いたという。堕胎手術を受ける女性たちは声をあげなかったと伝わるが、後に、それは美談であったことが判明。

この二人ほど有名ではないが、真藤慎太郎玄洋社に所属し、中国大陸で活動し、日本の対ロシア帝国政策に着目してロシア語を習得し、日露戦争開戦後、通訳として従軍した。
その後、カムチャツカ半島沿岸などの北洋漁業で財を築いた。
1942年4月の第21回衆議院議員総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け北海道第三区から出馬して当選。また、北海道水産業会長として戦時下の水産統制を担った。

真藤慎太郎

この3人を教えた柴田文城先生は、頭山満の縁物で、白馬に乗って出勤していたという。
正剛が好んだ漢詩、「欲 窮 千 里 目 更 上 一 層 樓」や「豪傑之士雖無文王猶興」などを小学校で教えたという。

最近百周年記念誌を読み直してみたところ、さらに先輩の山座円次郎安倍磯雄も出身者であることが解かった。
山座は外務省で広田弘毅を育てたことで有名で、安倍は社会主義政党の創設者である。
山座園次郎
安倍磯雄

 山座圓次郎は、小野隆助(玄洋社員、衆議院議員)の助力を得て東京帝国大学に進学し、外務省へ。
 日清戦争前から、上海、漢口で情報収集にあたる宗方小太郎らを支援していた。
 日露戦争では、小村全権の一員として交渉のテーブルについていた。
小村より一足先に帰国し、伊藤博文を説いて横浜での小村帰国を無事に迎えるという演出を画策。
 桂太郎の東清鉄道譲渡の秘密契約を、小村とともに破棄させた。
 後に、同郷福岡出身の廣田弘毅を外務省に引き込む。中華公使の時、急死する。
 その納骨式では頭山満も参列し、一握の砂を山座の墓所に注いだ。頭山とは盟友の杉浦重剛の弟子でもあった山座。
 小村寿太郎を陰から支えた山座の急死は惜しまれる。
 山座の墓は、福岡藩主黒田家の墓所の真向かいにある。



後輩には、山崎拓太田誠一がいるが、あとに続くものがいるのかな?
山崎拓
太田誠一

県会議員、市会議員は多数

有名人:
声楽家 三宅春恵 

学者  林 周二 (旧制福岡高校では同学年)

2016年8月21日日曜日

天下とりと経理技術


16世紀前半までは、日本の組織は一族重臣の協議で動いていた。
信長は美濃を征圧する頃から、兵農分離を行い、さらに有能な武将に、築城、兵糧調達などの特命を与えるようになった。
秀吉は、これを大規模に応用し、常任の主計将校部隊と輜重隊を創設し、大軍の遠征にも飢える心配がなくなった。
この任にあたったのは、増田長盛、長束正家らがはじめである。
この時代に、度量衡の統一や、貨幣の統一が図られるようになり、さらにヴェニスの商人がはじめた複式記帳がなどが知られるようになる。
増田、長束についで、石田三成、藤堂高虎らの近江出身者が、この主計将校として活躍し、天下統一や全国の検地、大阪城の築城や朝鮮出兵の裏方として腕を振るう。後半には大谷吉継、細川忠興も加わっている。
石田三成
大河ドラマ「真田丸」では、長束は端役であり、石田は冷徹で人間味のない人物に描かれている。


社会的にこれらの経理技術が、現代のように理解されていない時代だから、戦闘部隊の福島、加藤、黒田などからきらわれるのは仕方がない。

戦前、軍国主義の時代には、民主主義の犬養総理と共に、財政の神高橋是清も殺害された。


戦後大蔵官僚から総理になった池田勇人は、もう戦争の出来ない時代だったから成功した。


2016年8月19日金曜日

日本列島における初期土器



土器(どき)は、を練り固めて成形し、焼き固めることで仕上げたである。

土器は、人類が物質の化学的変化を利用した最初の作品であり、物理的に石材を打ちかいてつくった石器とはまた異なる人類史的意義を有している。

一般には粘土で焼かず、野焼きの状態で700–900の温度で焼いた器のことを指し、陶磁器と区別している。


人類は、文字を作り出すより1万年も前から、土器にいろいろの工夫をして、隆起線文、爪形文、円孔文、押圧縄文、回転縄文、条痕文などの文様を描いた。


日本列島の各地では、下図のように17000年前くらいからの土器が見つかっており、土器に関しては大陸より先進国だと評価されている。
          時代分類は、図の下部から、
1期:隆起線文系以前、     2期:隆起線文系、 
3a期:爪形文、円孔文押圧縄文 3b期:回転縄文、条痕文

下部から cal BPでの年代
1期16550~15730:  2期15000~13000:
3a期14500~10000:3b期13000~10500:
その理由としては、日本列島では火山活動が活発であるから、噴火による溶岩がやがて固まる自然現象を観察して、いち早く化学的変化を認識したことが考えられる。

最近、中国江西省の洞窟遺跡で世界最古と思われる2万年前の土器が見つかったといわれているが、詳細はまだ解かっていない。土器の破片では、中国大陸の各地で古いものが見つけられているという。

徳川慶喜の敵前逃亡


慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。
1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、自らが指揮する旧幕府軍の兵には、「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と厳命する一方、自分は陣中に伴った側近や、老中の板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で江戸へ退却した。

勝利の可能性が十分あったにも関わらず、慶喜がこのような敵前逃亡にも等しい行動をとった動機については幾つかの説がある。


慶喜は天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することで政権を成立・維持していくつもりだったこと、それが錦の御旗学校他勢力に渡り、たとえ薩摩に討ち勝っても、朝敵の汚名に対峙する覚悟が無かったなどの抽象的な説である

作家の司馬遼太郎は、敵前逃亡時に徳川慶喜の心理に、決定的ダメージを与えた情報を、具体的にあげている。

「徳川の歴史上、最大の忠臣である近江彦根藩の井伊家が、彦根から真っ先に南下して、鳥羽・伏見の戦いに飛び込んでくるべきだ。
しかし彦根藩は、異例のことだが上士以上の大衆討議にかけた。その結果徳川のために最後まで戦おうという票は、わづか3票しかなかった。
もう徳川への忠誠心は小さなものとなり、新しい時代へ参加することが何よりの正義だという考え方に動いていた。
迷っていた慶喜はこの情報を知ってすべてを悟り、敵前逃亡してひたすら恭順の態度を貫いたのだ。」

武田の遺臣より徳川家にとりあげられ、関ヶ原や大阪の陣で赤備えで先頭部隊をつとめ、中老や大老の要職をつとめた井伊家に見放されたことは、慶喜に大きなショックを与えただろう。

しかしその後、江戸の無血開城の折衝を行った勝海舟は、慶喜の性格をよく知っていた。慶応二年の二次長州征伐のときも、大阪城にいた慶喜は、劣勢の幕府軍を立て直そうため最前線に出かけようとしたが、嵐が来たり、小倉落城の知らせがくると、あっさりと出陣を断念し、解兵の勅を得る方針に切り替え、後の交渉を勝海舟にまかせた。

幼少のころより「英明にして胆力あり」いわれたと慶喜でしたが、その人間性に、ひ弱さがあったといえそうだ。

2016年8月18日木曜日

100歳への足・腰の鍛錬

1)よく歩くこと: 雨、猛暑、厳寒の時は家の中で歩く。
          3歩の一歩は大股で歩く。 
          尻に力をいれ、踵から着地。 
          平地より坂道を。 

2)家の中でも立つ時間をふやすこと: 
   
       テレビは立ってみること。

3)パソコン操作時は、バランスボールで。
  出来る時は、立ったままで。


3)スクワットにより、骨盤、腹筋をひきしめること:


4)壁に背中をあてて、中腰になり、保持する。


5)ゴルフスイングの練習:
      短時間でも、毎日おこなう。






2016年8月17日水曜日

中山三屋


中山三屋(なかやま-みや)

生年: 天保11.9.25(1840.10.20)
没年: 明治4.6.21(1871.8.7)
幕末期の勤王家,歌人。宮,みやとも書く。

大納言中山忠能家に仕える長州出身の戸倉岱介(後名中山忠道)と中山家の奥女中で歌人室谷民子の娘といわれる。
父は忠能との説もある。

6歳で歌会に出席,香川景恒門下で早くから注目された。13歳で母に死別後剃髪し,以後尼姿で関西,中国地方を巡り各地の動向を忠能宛に書き送り,スパイとして活動したものと考えられる。
各地の志士,豪商たち約400名を記録した自筆の「人名覚」は,幕末の勤王運動家の研究に貴重。維新後,遊学のため長崎へ向かったが,病を得て急ぎ父の故郷へ向かう途中,防府で客死。
三屋三十三回忌追善集『浮木廼亀』は三屋と交遊のあった宮中御歌所長高崎正風の命名。
(出典:朝日日本歴史人物事典)

今週のラジオではじめて知る。 
去年下関の中山神社にはお参り
したが、中山忠能、忠道、忠光など
のファミリーに縁のある三屋のこと
はしらなかった。
幕末長州史跡の本で確認すると、

中山三屋の墓が、新南陽駅の近く
の善宗寺にあると記されている。


2016年8月15日月曜日

90歳から出直しゴルフ

90歳を超すと非力となり、球はとばない。
打ち方を変えて、出直す必要を感じている。

100歳でプレイをしている方の記事では、やはり90歳くらいでフォームを変えたということであった。

昔読んだ「非力のゴルフ」(橘田規プロの本)を読み返す。当時はこの独特のスイングになじめずにいたが、その後弟子の、高松、奥田プロの解説本もでているし、ポブ・トスキのスイングも何処か似ている。
さらにYouTubeで、小沢徹プロの解説をみると、独特のスイングが物理的に納得できるように感じた。
フォームを改造すると、当分は乱調がおきるが、どうせ不調のスコアだから、半年かけて出直しゴルフを達成して見たい。

読みなおして、非力のゴルフスイングの要点を整理してみた。

1)ゆるゆるグリップで、ヘッドの重みを感じながら、グリップエンドを下半身で引っ張る力で、ヘッドを楕円運動させるイメージのスイングをする。  インパクトのときは、ボールの衝突ショック力だけグリップを強める

2)トップの位置から、グリップエンドを袈裟懸けにボールにむけて引き下ろす。(スタンスはややクローズ。)
飛球の方向性は股関節の回転と同期して、ターゲット方向に決まる。ウエストでなく臀部ので回転で振る
ヒップももを回す。)


低いフォロー


3)バックスイングでは、左足体重、左肩センターで、右股関節が後ろにまわり、ダウンスイングでは左股関節が後ろにまわる。

4)トップの切り返しでは、左股関節の回転からはじまり、両腕はこれに引っ張られて下りる。

5)インパクトからフォローにかけては、臀部を低く鋭く回転させる。(グリップエンドが体の正面の時に、鋭く回転させる。)インパクト時にコック加速を少し加える。

6)体幹部では、胸筋と肩甲骨で上半身のひねりをつくる。

7)体重移動は、両腕の振りとのバランスでおこなう。

8)頸反射を利用して、肩の回転を鋭くさせる。

下半身打法と名付けてまとめると、つぎの図になる。

下半身打法



当初はドライバーだけを改造して距離をかせぐことにしよう。


はたして出直しゴルフは成功するかな。

インパクト1

インパクト2
頸反射

2016年8月12日金曜日

森友氏巡回場所

・平尾山荘
・東長寺(黒田忠之・光之・治高墓所)
・聖福寺(平岡浩太郎・廣田弘毅・小早川隆景など墓所)
・順心寺(百武万里・伊勢田道益墓所)
・節信院(加藤司書ファミリー墓所)
・円覚寺(立花実山・鎌倉北条家ゆかりの寺)
・妙楽寺(鷹取養巴・伊藤小左衛門・宮崎織部・神屋宗湛など墓所)
・天福寺跡(加藤司書切腹の地)
・少林寺(月形洗蔵ファミリー墓所)
。西郷隆盛隠れ家跡
・安国寺(衣非茂記・建部武彦墓所)
・平野神社&鳥飼八幡宮(平野國臣生誕地)
・中野正剛像
・金龍寺(貝原益軒・吉田長利・衣笠景延・林直利墓所)
・浄満寺(亀井南冥ファミリー・鞆舎・江上栄之進・江上苓洲・左座謙三郎墓所)
・頭山満生家跡地(楠木)

2016年8月8日月曜日

よし(あし)と仙崖


葦は、よし、或いは、あしと呼ばれる。仙崖の書画に
 「よしあしの 中を流れて 清水哉」 がある。
琵琶湖周辺には、葦が多く生息していて、琵琶湖の水を浄化している。一昔前の香椎干潟もそうであった。
背の高いよしは収穫されて、葦簾などに加工される。
仙崖はよしあしの、別の不気味な書画も残している。

邪馬台国と卑弥呼のおかしな番組


中学生向けの歴史番組で邪馬台国がとりあげられた。
古代には関心が薄い中学生に、興味をもたせようとした講師の独善的な番組であった。
邪馬台国が近畿にあるとか、卑弥呼は魔法で人心を掌握し統治していたとか、誤解を与えるような番組であった。
卑弥呼の顔にわざわざ由紀さおりをとりあげてこんな顔だったとしゃべっていた。

鏡の魔鏡現象の説明も曖昧で、なぜ魔鏡なのか?わからなかった。
銅鏡

また当時の倭人がみな顔にイレズミをしていたような説明もあり、おそまつであった。これでは中学生が誤った先入観をもってしまい、マイナスイメージとなりそうだ。

せめて卑弥呼の活躍した時代と、日本書紀記載のこの時代の歴史などの基本を教えてもらいたい。

最近見つかった鏡が卑弥呼のものらしいという。