2016年8月24日水曜日

関ケ原の戦の経緯

五大老・五奉行
秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。
豊臣政権の運営は、三成が立案した、五大老、五奉行の合議制で行われることになったいた。
しかし、関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。
「巨なる企て」をかいた堺屋太一によると、三成は単なる参謀ではなく、政権運営には大義名分を掲げ、有力なスポンサーをあつめ、象徴的な人物をトップに据えるという日本的組織作りを心得ていた智謀の人(切れ者)だったという。
           (堺屋太一著:歴史からの発想)
石田家家系図
大義は、「豊臣家のため」ということであり、その裏には
(徳川の世になればひどい目にあうぞ)がふくまれていた。

家康は、三成と対立関係にあった福島正則や加藤清正、黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。
慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康は、2月2日には、利家・三成らと誓紙を交わして一旦和睦した。

しかし閏3月3日に家康に匹敵する勢力を持っていた大老・前田利家が病死すると、その直後に三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)がおきる。

三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後、七将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。閏3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した。

孤立無援となった三成は、スポンサーとして、反家康の上杉、宇喜田、毛利、大谷等とひそかに連携を図る。
慶長5年(1600年)7月、家康を排除すべく、上杉家の家老・直江兼続らと密かに連絡をとり、挙兵の計画を練る。

これを察知した家康は早速諸大名を従えて会津征伐に赴いた。
この機を東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、家康に従って関東へ行こうとした大谷吉継を味方に引き込もうとし、吉継は家康と対立することは無謀であるとして初めは反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。
三成の「豊臣家のため」という大義名分の呼びかけに、因縁と義理で宇喜田秀家らは三成に加担し、慎重な毛利も、安国寺の説得などが功を奏して、大阪城まで大軍を進めた。

7月12日、三成は近江国愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名(鍋島勝茂前田茂勝ら)の東下を阻止し、強引に自陣営(西軍)に与させた。
7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・玉子には人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。
7月17日、毛利輝元が西軍の総大将として大坂城に入城し、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。

わずか19万石で少数派の三成が、ここまで大軍を集め得たのをみて、四国の長曾我部、薩摩の島津なども、西軍が勝ちそうだと思いはじめた。

7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が留守を守る伏見城を攻めた(伏見城の戦い)。しかし伏見城は容易に陥落しないので三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。
8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、やっと伏見城は陥落した。
8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。

三成は8月からは伊勢方面の平定に務めたが、家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、当初の予定は狂った。
三成の予測では、家康が西に向かうのは上杉の追撃の恐れがなくなる雪の季節と考えていたからである。

三成の関ケ原での陣構え計画図

当初の計画では、本陣の玉城には豊臣秀頼や、毛利輝元がはいり、三成大垣城に依り美濃で食い止める方策であった。しかし秀頼と輝元は大阪城にとどまり出陣しなかったので、玉城には大谷が陣取った。毛利輝元は西国の家康派の領地が留守の間に攻撃して、領地拡大を行っていたからだ。




しかも家康が大垣城を素通りする気配をしめし、また南宮山の毛利軍もこれを見過ごす状態であった。
また名島城から一万五千の軍勢を伴ったきた小早川秀秋は松尾山に陣取ったが、寝返りの動きをみせたため、三成は急遽松尾山城に移動し、9月14日夕刻より関ヶ原で野戦を挑むこととなる。
小早川の陣は守りより攻撃態勢


そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。家康は秀忠の本軍が到着しないまま、攻撃を開始した。
そして衆知のように、一日で西軍の敗北が決まってしまった。
敗北の原因として小早川秀秋の裏切りが有名だ。彼は北の政所の甥であり、そのもとて黒田長政と幼少の頃兄弟のように育てられたので、西軍につくことに大きな抵抗があったのだ。長政の勧誘もあり、兵隊の配置も寝返りを前提にした陣形であったことが最近判明している。


大谷隊の背後から15000の小早川軍が攻め込んだので、西軍は大敗北となった。

また大津城の京極の裏切りも痛手であった。
三成の北陸方面軍の一員として、近江大津城の城主・京極高次が加わっていた。ところが吉継が北陸から美濃へと転進する最中に、高次は突如東軍に寝返り、手勢3,000名を率いて大津城に籠城し、防備を固め始めた。
西軍側は、高次の裏切りに対する報復として、毛利元康を大将とし、それに立花宗茂小早川秀包筑紫広門ら九州方面の諸大名の軍勢を中心とした総勢1万5000人の軍勢をもって、慶長5年9月7日より大津城に対して包囲攻撃を開始した。
しかし城攻めは捗らなかった。13日には大砲を城内に撃ち込んだ。砲弾は天守にも命中、城内は混乱し、高次も防戦するが、ここに立花勢の先鋒大将・立花吉右衛門が一隊を率いて城壁に取り付いた。
9月15日にやっと大津城を開城するが、関ヶ原では東軍が大勝した日であった。

知略の人、三成の「数」だけにたよる作戦の虚構を、家康は見抜いていた。
当初218の大名家のうち、旗色鮮明に西軍についた大名が89、あいまいな大名が80位あった。

西軍についたものにも3種類あり、①徳川の天下となればダメと思うのが、増田、長束、前田のような奉行連中、小西のような商業主義のもの,②義理と因縁で加担する宇喜多、立花、筑紫、大谷など、③もし勝てば大もうけと野心的に参加する安国寺などである。
その他西軍の半分以上は日和見の軍勢で、中立または勝つほうに寝返ろうという、腰がはいっていない軍勢ということを家康は知っていた。

真田家のように、一家を東西にわけて、勝ったほうで生き残るという作戦の小大名もいた。
これらの西軍のハートを充分に分析して、家康は敵の心臓部をまっしぐら攻めるハートランド戦略をとったと、堺屋太一はいっている。
三成は兵力を分散し、伏見攻めや大津攻めなど、徳川勢すべてを攻撃していた。三成は、How to的発想であった。
そこを家康は、秀忠の到着もまたず一気に関ヶ原で決着をつけた。
家康は、What的発想で、心臓部をしっていた。
その勢いに驚いて、毛利軍が大阪城を出てしまったのも、毛利一族が一枚岩でないことを知っていたから出来たことだ。

戦国史のおもてに出ない女性の戦いもあった。
浅井3姉妹の長女茶々は秀頼の安全を願い、次女初は京極の伏見城の立場で和睦の交渉をはかり、三女江は秀忠の妻として直接の戦におくれたことを内心願っていたかもしれない。

三成の「巨いなる企て」は、徳川家康という桁外れの実力者によって打ち砕かれてしまった。





関ケ原の戦のあと、活躍した武将に与えられた恩賞を示す石高の増加額は、松平以外は殆どもと豊臣方の武将であった。

【関ヶ原の戦後処理】
1600年10月21日(慶長5年9月15日)僅か半日で関ヶ原の戦いは終わり。
何しろ戦に勝ったら、たんまりはずむと家康は既に約束済み。
その原資となる領地は、なんとおよそ680万石、当時の日本全国の石高の1/3。

領地を取り上げられた西軍の状況。
〇全部没収され、改易された皆さん
宇喜多秀家 備前岡山57万石 *八丈島へ配流
長宗我部盛親 土佐浦戸22万石 *浪人に
増田長盛  大和郡山20万石 *高野山に蟄居、その後自害。
小西行長  肥後宇土20万石 *斬首
石田三成  近江佐和山19万石 *斬首
小早川秀包 筑後久留米13万石(毛利元就の九男で、小早川隆景の養子)*輝元の臣下となり、小早川姓を嫌い毛利姓に
織田秀信  美濃岐阜12万石 *高野山に蟄居、その後自害。
大谷吉継  越前敦賀5万石 *討死
真田昌幸  信濃上田3.8万石 *高野山に蟄居、その後紀州九度山に配流。
(117氏の大名、諸将からおよそ470万石の所領を取り上げ)
彼らは、処刑、自害、流罪、謹慎に処され、改易(お家取り潰し)
〇かなり持って行かれてしまった大名
毛利輝元 安芸広島120万石➡長門萩29万石 91万石を没収
上杉景勝 陸奥会津120万石➡出羽米沢30万石 90万石を没収
佐竹義宣 常陸水戸54万石➡出羽久保田20万石 34万石を没収(東軍に属さず、中立を保った為)
吉川広家 出雲富田14万石➡周防岩国3万石 (本来は加増だったが、毛利本家存続の為に返上)
毛利秀元 周防山口20万石➡長門府中5万石
6氏の大名からおよそ240万石を取り上げ。

さらに豊臣家への仕置きは、摂津大坂65万石以外に、日本全国に太閤蔵入地と呼ばれる直轄領(主に近畿、北九州に点在)が155万石もあったが、家康はこれを勝手に気前よく配分してしまい、秀頼は大坂の一大名という地位に転落。
家康は豊臣政権のトップですから、豊臣の為に戦った東軍のメンバーへの恩賞ですから、一応筋は通ってるいるが。

【関ヶ原の戦後処理~勝った側の場合】
680万石という史上空前の山分け

〇大幅加増された大名TOP10
1位 徳川家康 武蔵江戸256万石➡諸国に直轄領として400万石 144万石のUP(自分へのご褒美ですね)
2位 結城秀康 下総結城10万石➡越前北ノ庄67万石 57万石UP (上杉牽制の為、宇都宮に駐留)
3位 蒲生秀行 下野宇都宮18万石➡陸奥会津60万石 42万石のUP(結城秀康に従い上杉勢への牽制を行う。秀吉から没収された本領に復帰する)
4位 松平忠吉 武蔵忍10万石➡尾張清洲52万石 42万石のUP (井伊直政の婿で、関ヶ原本戦では先鋒を務めた)
5位 池田輝政 三河吉田15万石➡播磨姫路52万石 37万石のUP
6位 前田利長 加賀金沢83万石➡加賀加奈座安房120万石 37万石のUP (北陸方面で西軍・丹羽長重と戦う)
7位 黒田長政 豊前中津18万石➡筑前名島52万石 34万石のUP
8位 最上義光 出羽山形24万石➡出羽山形57万石 33万石UP (上杉景勝領を攻略、次男家親は秀忠勢に従軍)
9位 福島正則 尾張清洲20万石➡安芸広島50万石 30万石のUP
10位 加藤清正 肥後熊本25万石➡肥後熊本51万石 26万石のUP
(関ヶ原本戦には出陣しませんでしたが、九州の小西行長領を攻略)

後に外様と呼ばれる大名たちは加増されたものの、東海道一帯や畿内の要地からは遠ざけれた。
徳川家を出奔した、石川数正の息子たちも東軍に加わり、秀忠勢に従軍し上田城を攻めている。
これにより信濃松本、奥仁科10万石の領地は安堵された。しかし譜代への復帰は叶いません。
〇徳川家臣団で加増された大名TOP10
1位 奥平信昌 上野小幡3万石➡美濃加納10万石 7万石のUP (亀姫の夫、関ヶ原本戦に参加し、安国寺恵瓊を捕縛)
2位 井伊直政 上野高12万石➡近江彦根18万石 6万石のUP (関ヶ原本戦にて負傷)
3位 鳥居忠政 下総矢作4万石➡陸奥磐城平10万石 6万石のUP (江戸城留守居役でしたが、父鳥居元忠の功績により)
4位 松平忠頼 武蔵松山1万石➡遠江浜松5万石 4万石のUP (岡崎城守備を務める)
5位 石川康通 上総鳴渡2万石➡美濃大垣5万石 3万石のUP (重臣・石川家成嫡男、石川数正は従兄、尾張清州城の守備を務める)
6位 大須賀忠政 上総久留里3万石➡遠江横須賀6万石 (榊原康政の息子で大須賀氏に養子で入る、関ヶ原本戦では奥平信昌と共に奮闘)
7位 内藤信成 伊豆韮山1万石➡駿河府中4万石 3万石UP (駿河国の守備を務める)
8位 平岩親吉 上野厩橋3.3万石➡甲斐府中6.3万石 3万石UP (秀忠勢に従軍)
9位 本多康重 上野白井2万石➡三河岡崎5万石 (秀忠勢に従軍)
10位 松平信一 下総布川0.5万石➡常陸土浦3.5万石 (のぶかず、常陸・佐竹氏を牽制)
因みにジャイアン(渡辺守綱)武蔵松山0.3万石➡武蔵松山0.4万石 0.1万石UP
本多忠勝、榊原康政、本多正信、大久保忠隣(大久保忠世の息子)、酒井家次(酒井忠次の息子)ら宿老たちは加増されることはなかった。
大久保忠常(大久保忠隣の息子)、本多忠朝(本多忠勝の息子)、鳥居成次(彦の息子)、奥平家昌(奥平信昌の息子)ら次世代の徳川家臣たちが所領を得ることになる。
徳川による幕藩体制の要である、譜代大名の多くがこの時に誕生。
幕府の要職も、譜代大名たちが持ち回りで担当し、265年続く徳川の御世を築く。




2 件のコメント:

  1. 岩澤秀樹
    ブログ中に『石田家家系図』の写真を使って戴き、ありがとうございます♪(^o^)/
    石田三成殿の嫡男・石田重家殿の家系図(妙高石田家)は、石田秀雄さんが書いた『歴史読本』の文献(図の中にある引用文献)になっているものの、今まで誰も図にしていなかったので、初出なはずです(^_^;)
    実は僕が書いた写真の『石田家家系図』は、まだ内容が足りず不十分で、この続きがあります(^_^;)

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  2. ありがとうございます。さらにしらべてみます。

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