2017年9月30日土曜日

アンさんの和声英語(4)



1。コンセント (socket, outlet)

コンセントという和製英語の由来はかなり面白い。

大正期にconcentric plug(同心のプラグ)という単語があったそうだ。
東京電力に勤めていた人は、コードに付いている方と、壁に差し込み口の呼び方を分けようとした。その結果「コンセント」と「プラグ」という単語ができた。
ただ、concentric plugという単語は元々英語じゃないから、どこからきたかってはっきりわからないらしい。
現在の日本では、差し込み口は「コンセント」と呼ぶようになった。英語では、consentという単語は日本語の「承認、同意」の意味があるけど、結構固い英語だから、普通の会話にはあまり出ない。「許可」のpermissionのほうが聞くね。

「コンセント」は、イギリス英語ではsocket, plug, plug hole 3三つの呼び方がある。アメリカ英語ではoutletかplugと言います。アメリカのあるところでは、plugも言います。

つまり、日本の「コンセントを入れる」イコール plug in
「コンセントを抜く」は unplug

多分、1番使えそうなフレーズは Plug it inだ。意味は「コンセントを入れて」
反対は Unplug it.「コンセントを抜けて」


2。段ボール (cardboard box)

この単語を分析しようね。まず、「段」は日本語の段状から来た。加工されたボードだ。
もしかしたら、あなたは「ボール」は英語のballから来たと思っているかもしれんけど、実はそうではない。英語は "danball' じゃない。まぁ、ballと同じカタカナなんだけど、論理的に考えたら、なぜあいう物を運ぶやつはballという名前を付けると?どう見ても段ボールはボールじゃない。
実は、段ボールの「ボール」は英語のboard(板)から来ている。昔の日本語では、"r"の発音のほうが強かったそうだ。今カタカナで「ボード」と書くけど、当時「ボールド」と書いた。で、「ボールド」は「ボール」に略された。あっという間に素敵な和製英語ができた。

3。パンク (flat tire, crash) 

パンクは英語のpunctureから来ている。Punctureは日本語で「小さい穴を空ける」意味だ。アメリカでは、車のタイヤに関しては、絶対に言わないけど、イギリスでは言う時もある。
I got a punctureかI punctured my tire.
どこに行っても、日本語のタイヤの「パンク」は通じない。
兎に角、タイヤのパンクの例文を見てみよう。
"I had a flat tire last week on my way to work."
「先週、仕事に行っている途中にパンクした。」
  "I have no idea why I got a flat tire."
「何でパンクしたかわらない。」

 もう一つのパンクについて話したい。ウエブサイトのパンクだ。急にアクセスが増えると、そのサイトにアクセスができなくることは、現在の日本では「パンクした」と言います。この「パンク」の使い方も英語じゃない。英語では、crashと言います。例えば、

"Anne's blog is becoming so popular that it crashed Ameblo's website   yesterday."

「アンちゃんのブログはバリバリ人気になったから、昨日アメブロのウエブサイトはパンクした。」

4. ガラケー。(cell phone, mobile phone). 私は、初めて「ガラケー」という単語を聞いた時に、「いったいなんの意味なのか?!」と思った。友達は「ガラパゴス諸島」から来ているよと、教えてくれたけど、あまりその情報は役に立たなかった。何で、太平洋にあるバリバリ他の大陸と離れている島をもとにして携帯電話の名前を付けると?と思った。不思議だ。やっと、答えがわかった。ガラパゴス諸島はバリバリ隔離されているから、植物と動物は独自に進化しないといけないようだ。そういう生き物が多いらしい。ITの世界では、独自の研究をして、他の会社がやっている技術の規格からずれることは、「ガラパゴス化」と呼ばれている。日本の携帯電話は、他の国の携帯電話との機能が違うから、「ガラケー」と呼ばれるようになった。「ガラパゴス」と「携帯電話」の略は、すごくクリエイティブな混ざった単語なんだ。やっぱり、単語の勉強は楽しすぎてたまらん。

イギリス英語では、「ガラケー」はmobile phoneと言います。アメリカ英語では、cell phoneです。Cell phoneはcellular phoneの略だ。今まで、cellular phoneを正しく発音できる日本人に会ったことがない。下記の文章を見てみよう。
 "You don't see many cell phones in Japan these days."
「最近、日本では、あまりガラケーを見ないよね。」
 "Most high school kids don't want a mobile phone because they think are not cool. They really want to carry smartphones."
多くの高校生は、「ださいガラケーいらん」と言っている。みんなはスマホが欲しがる。  
 *Smartphoneは普通の外来語だ。和製英語じゃない。ただ日本語の略「スマホ」は通じない。

5。ピアス。(earrings) 
多くの日本人は「ピアス」は英語だと思っている。まぁ、そうだけど、使い方は全然違う。まず、英語では、「ピアス」は動詞でしか使われていない。日本語で言うと「穴を空ける。」ただ上記で話したpunctureと違う。punctureは、空気が入ったものに穴を空けるという意味だ。pierceは、そういうニュアンスが入っていない。下記の例文を見てみよう。

"I bought new earrings at the mall yesterday."
「昨日、モールで新しいピアスを買った。」

"Yesterday, I bought clip on earrings at the mall."
「昨日、モールでイヤリングを買った。」

つまり、日本語の「ピアス」は、英語の earrings.
で、日本語のイヤリングは、英語の clip on earrings.
 Piercings (名詞) も言います。
 "Annechan has more piercings than she can count."
「アンちゃんは、数え切らんほどピアスがある。」
 じゃ、「ピアスを空けた」ってどういう風に英語で言うのと聞きたいやろう?見てみよう。

"I got my ears pierced when I was 8 years old."
「8歳の時に、ピアスを空けた。」

 注意するところがある。I pierced my earsは日本人はよく言うけど、この意味は、「自分で穴を空けた」ということだ。同じように、よく「髪の毛を切った」と言いたい時に、"I cut my hair" と言います。その表現は、自分で髪の毛を切ったというニュアンスが入っている。まぁ、もし自分で髪の毛を切ったり、ピアスを空けたりしたら言ってもいいけど。でも殆どの人は、ピアスを空けてもらう、髪の毛を切ってもらうやろう?こういう時、下記の文章を言う。
 I got my ears pierced.
I got a hair cut、か I got my hair cut.




2017年9月27日水曜日

明治維新の裏舞台:南北朝の入れ替え

明治天皇は、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の子ではなく、孝明天皇が邪魔になったために、岩倉や長州藩によって毒殺され、長州の田布施(たぶせ)、現在の山口県熊毛郡出身の大室寅之祐が明治天皇になったという、孝明天皇暗殺説、明治天皇すり替え説は、以前から存在していました。

孝明天皇は、40歳くらいのとき、疱瘡にかかり、その年齢で疱瘡にかかるとたいへんな病状になるのですが、その後幸いに病状は快方に向かっていたと言われていました。

天皇暗殺説

その1) 病気が良くなると、孝明天皇は京都郊外にある女の家に出かけられ、それを見越して薩長はあらかじめ暗殺に都合が良いよう、女の家の場所・作りを整えていました。
孝明天皇が厠に立ったとき、そこで待ち伏せしていた伊藤博文が床下から天皇の尻に刀を刺し殺害し、遺体はきれいに洗われ、孝明天皇は疱瘡で死んだことにされました。
その2)岩倉具視の姉が宮中に仕えており、孝明天皇の身の回りのお世話をしていました。天皇が書類をかくとき筆先をなめる癖があったので、墨のなかに毒薬をいれて殺害し、病死として処理されました。
         
        天皇すり替え説

孝明天皇には、睦仁親王(むつひとしんのう)という息子がいたのですが、彼もまた殺害されました。そして、長州によって大室寅之祐が睦仁親王と置き換えられ、明治天皇となりました。

大室寅之祐が明治天皇に据えられたのは、彼が後醍醐天皇の末裔で、南朝を継ぐ者だったからでした。孝明天皇までは、天皇は北朝の血筋であったのが、明治天皇が大室寅之祐に置き換えられたことで、天皇家は南朝の血筋に移ることになりました。

明治天皇が替え玉であることは、状況証拠からも判断できます。孝明天皇の息子の睦仁親王は、体が虚弱で精神的にも弱かったのに、明治天皇は体格が立派で馬に乗るのが大好きだったというので、睦仁親王とは、特徴が全く一致しません。


南北朝の争いで南朝が負けた際、光良親皇という南朝の王権を持つ者を長州がかくまい、その血筋は代々受け継がれ、そしてその末裔である大室寅之祐が、明治天皇に即位することになりました。

徳川家康は、正統である南朝を復活させることを狙っていたが、しかし、寿命がつきこれを断念。南朝の復活は、ひそかに水戸藩に託されました。徳川御三家の中でも水戸は特殊な使命を帯びた家だったのです。

幕末はご存知の通り、南朝を正統とする水戸学の尊皇攘夷から始まっており、この思想を持つ人たちにとっては、南朝の方が正統となります。幕末、徳川最後の将軍・徳川慶喜は、水戸藩の出身。彼は明治維新の黒幕といえる存在でした。

それで幕末、長州の田布施という所にいた大室寅之祐という少年、この人は南朝の後醍醐天皇の玄孫、光良親王の子孫で、つまり南朝の子孫となるので、睦仁親王とこの大室寅之祐がすり替えられました。



もちろん、薩長・岩倉らの手によってです。

維新回天を成就するには、自分たちの意見を取り入れてくれる天皇が必要でしたので、吉田松陰の命を受けた伊藤俊輔が、守役をしていた大室寅之祐を替え玉としたのです。

吉田松陰は水戸学に啓発され、偽王朝の孝明天皇を排除して正統な血筋の大室寅之祐を皇位につけ、南朝の皇統を復活させようと考えていたのでした。

はたして天皇となる人のすり替えが可能なのか?

以下は、その証拠と言われているものです。

① 睦仁親王は神経がこまやかで虚弱体質、禁門の変では恐怖のあまり失神しています。

ですが、即位後の明治天皇は身長180センチ、90キロという堂々とした体格、側近と相撲を取り相手を投げ飛ばしています。

② 睦仁親王が即位前に乗馬をした記録はありません。

天皇は鳳凰を飾った輿、 「鳳輦」(ほうれん) に乗ります。

乗馬は必要ないばかりか、公家は武士のたしなみである乗馬を下品だと見下していました。

ですが、明治天皇は鳥羽伏見の戦いで、馬上で閲兵しています。

③ 睦仁親王の生母・中山慶子の墓所に、明治天皇、皇太后、皇太子は一回も行幸、行啓していません。

④ 明治天皇の ”皇太后” は父:孝明天皇の妻であるはず。
なのに、明治天皇は自分の妻である一条美子を皇后ではなく ”皇太后” と呼ばせていました。

一条美子は本物の睦仁親王に嫁いでおり、途中からすり替わった明治天皇は、睦仁親王に遠慮したのではないかと言われています。

⑤ 明治天皇は左利きでした。昔は左利きは良くないとされ、高貴な生まれの人は必ず矯正されていました。

ましてや将来天皇となる人がそのまま・・・ということはありえません。

⑥ 16歳までの睦仁親王と明治天皇の字は明らかに違っていました。

睦仁親王はヘタクソで明治天皇は達筆だった、と言う人もいますが、私が両方の字を見た感想は、睦仁親王は書道の基本を押さえた字を書き、明治天皇はそうではない字でした。

明治天皇は自分の書いた字を人に見せたくなかったようです。

自信がなかったためかどうかはわかりません。

短歌を詠むとき、まず紙切れに歌を書いて、誰か字の上手な女官に命じてきれいな紙に書かせたあとは、自分の原稿は破って捨てていました。

⑦ 明治天皇は幼少期の写真とされているものと、まったくの別人です。

睦仁親王は天然痘の予防接種をしたので疱瘡にはかからないはずが、明治天皇の口の周りにはアバタがあり、それを隠すために口ヒゲをはやしていました。

⑧ 明治天皇の側近だった田中光顕が 「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時に即位したとなっているが、実はその睦仁親王は暗殺されて、入れ替わったのが大室寅之祐である」 と生前語っています。

田中光顕
⑨ 明治の新政府が出来て間もなく、まだ少年である天皇がわがままで元勲たちのいうことを聞かなかった時、西郷隆盛が 「そんなことではまた昔の身分に返しますぞ」 と叱り、天皇はたちまち大人しくなったと言います。

⑩ 明治7年、西郷従道は 「台湾出兵延期」 という天皇の命令を無視して出兵するし、天皇の前では誰もが起立するのに、守役だった伊藤博文は椅子に座ったままで、剣も腰に下げたままでした。

⑪ 明治35年、熊本にて軍の演習後の宴会出席を天皇が断ったため、山県有朋が 「士気にかかわる!」 と天皇に突っかかり、言い合いになります。

結局、天皇の方が折れて出席しているし、明治37年には大山巌も天皇の命令を無視しています。

⑫ 明治天皇みずからの意思で、十五もの南朝関係の神社 (楠木正成の湊川神社、新田義貞の藤島神社等) を次々に創建したり、贈位したりして、明治天皇が大室寅之祐でなければ、敵の南朝を称えていることになります。

後醍醐天皇がいた吉野に建てた ”吉野神宮” の御由緒には 「近代日本の繁栄の基は明治維新にあり、明治維新の根源は後醍醐天皇の建武の中興と吉野朝の歴史にありといわれます」 と書かれていて、北朝である明治天皇に対して不敬ではないか、と思われる内容です。

⑬ 明治44年、南朝・北朝のどちらが正統か、帝国議会で議論されました。

そこで驚くことに、天皇家は北朝であるにもかかわらず、南朝が正統と決定され、明治天皇もそれを承認しました。

⑭ 皇居には楠木正成の巨大な像があります。

まだ南朝が正統と帝国議会で承認される前、明治29年、寄付により設置されています。



敵将の銅像を、何故、堂々と寄付したのか? と疑問がわきますが、すり替えを知っていたと思えば納得もいきます。

実際に皇居に行って、北朝の天皇が中にいらっしゃると思って見ると・・・なんとも奇妙な感じがします。

すり替えられている、という根拠になっているものをいくつか挙げてみましたが、他にもまだあります。

このようにして、皇統はひそかに北朝から南朝にすり替えられたのでした。

2017年9月26日火曜日

日本の近代新聞の発行史


 幕臣で知識人の小栗忠順はアメリカの新聞事情を知らなければ「文明」は語れないと痛感し、その実態を調べようと決意した。
 遣米使節団より帰国後、彼は幕府首脳に「文明の証」として新聞発行を強く主張した。
 だが新聞発行の実態など知らない守旧派老中らには理解にはほど遠く、とても聞き入れられるものではなかった。
小栗忠順
 小栗は、遣米使節団に随行した咸臨丸の随員だった俊才・福沢諭吉を編集・発行の責任者に充てるつもりであったという。

 その後、幕府内では、元治元年(1864)7月に横浜鎖港(開港拒否)の交渉を終えて帰国した幕臣・池田長発(ながおき)、河津祐邦(すけくに)、河田煕(ひろむ)が「新聞紙社中に御加入の儀申上げ候書付」を提出した。
 この書付は西洋諸国では「パブリック・オピニオンにて国民の心を傾け候様の方略相施し候事にて、いずれの政府にも新聞紙社中へ加入致さざるものはこれなく」として、世論形成における新聞の重要性を強調し、「最初若干の敷金」を出費し「右社中加入の儀」を実施するよう求めた。
 これは幕府がすすんで情報発信をしようとしないため、まとまった部数を定期発行することで発言権を確保し、幕府側からの情報発信を行いやすくしようとしたのではないかと考えられる。
 しかしこの書付(提言)は、池田らが幕府錯港論を批判したとして処罰されたため、何ら顧みられることなく無残に葬られた。
 ここでも幕府首脳に「情報」に関する深慮がなかった。

 しかし戊辰戦争の最中、新政府軍と旧幕府軍が江戸で対峙した慶応4年(1868)2月から、上野の山の戦争で彰義隊が敗北を喫する5月にかけて、江戸や新開地の横浜に「佐幕派の新聞」(幕府支援・薩長批判の新聞)が続々と発刊された。
 いずれも木版刷り、2つ折の半紙を10枚ほど綴じ合わせた和本様の小冊子で、内戦関連の報道・評論を中心に、3日か4日に1回発行されている。「新聞」という新たなメディアが幕末の戦乱の中で誕生したことは注目に値する。

 創刊順に列挙すると、「中外新聞」を手始めに「内外新報」「中外新聞外編」「公私雑報」「江湖新聞」「遠近新聞」「横浜新報もしほ草」「日日新聞」「この花新書」「東西新聞」「陸海新聞」などである。
 「佐幕派の新聞」は、劣勢に立った旧幕府軍(徳川軍)のため言論で新政府軍に抵抗した。江戸市内の徳川びいきの江戸っ子の歓心を買うためでもあった。同時に薩長連合の専横に一矢を報いんとしたのである。

 明治初期の言論人を考えるとき、主流をなしているのが旧幕臣たちであったことは象徴的な史実である。
 洋学者で日本人による最初の雑誌や新聞である「西洋雑誌」「中外新聞」を発行した柳河春三、「朝野新聞」を発行して政府批判や時事風刺などに名筆を揮(ふる)った幕臣・成島柳北、「郵便報知新聞」に拠って反政府の論陣を張った幕臣・勘定奉行栗本鋤雲(じょうん)、「東京日日新聞」社長、主筆として明治期の有力な言論人だった幕臣・福地桜痴(おうち)「横浜毎日新聞」主筆の幕臣・島田三郎などである。
成島柳北

 福地桜痴の言葉:(「新聞紙実歴」)。
「戊辰の変に際し、余は非恭順論者の一人にて維新の王師に反対するの念をいだきたりしかども、地位は卑し腕力は無し、むなしく悲憤慷慨して口角に沫(ルビあわ)を吹き無益の舌をふるうにとどまりて亳(ごう)も実際に影響するところあらざりき。
 しかるにこの年(明治元年)の三月ごろより新聞紙の刊行突然として起こりたり。・・・・これを見て余は大いに喜び、これぞ余が自説を世上に試みるの機関なりと考えたり。」
福地桜痴
 明治藩閥政府に対して批判的な彼ら旧幕臣言論人たちが拠り所としたのは、彼らが代々生きて来た武家社会の倫理・見識であり江戸っ子文化であった。
知識人成島柳北の場合は、政府の言論弾圧にたいして彼が馴(な)れ親しんできた江戸文化(風刺や諧謔)によって対抗した。投獄も恐れない旧幕臣たちが新聞報道の主力であった時代は、彼らが引退したり他界するにつれて幕を閉じていった。

 しかし権力にたいして反骨精神を貫くべきであるとの近代ジャーナリズムの原型はこの時同年2月24日、新政府軍(西軍)の江戸攻撃が迫る中、会訳社の指導者・幕臣柳河春三(しゅんさん)は頭取(代表)を務める開成所(幕府洋学研究機関)事務局で「中外新聞」を創刊した。
柳河春三

 同紙は外国新聞の日本記事への抄訳行うことを目指していた。が、同時に独自の国内情報も載せることを打ち出していた。
「中外」は、外国情報の紹介に終始したそれまでの翻訳新聞や外国初の日本情報を集めた筆写新聞とは一線を画し、今日的な意味での「新聞」に近づいた。

時事新報(じじしんぽう)は、1882年明治15年)3月1日福澤諭吉の手により創刊。その後、慶應義塾大学およびその出身者が全面協力して運営した。
 戦前の五大新聞の一つ。創刊に当たって「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。

2017年9月23日土曜日

吉田松陰はテロリストか?という論争。

FBでKさんとQさんの論争が面白い。
吉田松陰はテロリストか?否か?


(吉田松陰は本当に「高潔な教育者」だったのか〜テロを扇動し「アジア侵略」まで唱えた激情家では?〜) 
『薩長史観の正体』を上梓した武田鏡村氏に対する評価の論争である。  http://toyokeizai.net/articles/-/188987 

【kさん
松陰をテロリストとするのは、ナルホド、それは、明晰・明快にして、優れて名誉な評価。ところで、ボクもテロリストだが。それでどうした、と、著者には回答を与えやらう。
【Qさん】
テロとは一般民衆を巻き込む破壊行為ですが、松陰はそんなことは指示しておりません。蛤御門の変で大火事となった京都町民も、江戸開城後の江戸町民も反感を持っておりません。明治期に、京都や東京に明治政府に対してゲリラ活動もありません。明治維新に対して、日本国民は賛成でした。
むしろ、江戸幕府の民衆支配の手先の仏教寺院勢力を壊す廃仏毀釈運動が明治維新後も継続したことからも、日本の世論は明治新政府に味方しております。
【Kさん】
一般民衆対象でなければテロではないのですか?。素朴に疑問なのですが?私は、山口二矢を敬愛していますが、彼が浅沼稲次郎を葬っのはテロではないと云う事ですか?
【Qさん】
テロとは一般民衆を巻き込む破壊行為です。
少数の政治家(意見の異なる志士達)同士の殺し合いや、武士同士の戦は、当時としては単なる政治闘争です。
民衆がどちらを支持したかで、歴史は決まります。

「テロリズム」の語源はフランス語のterrorismeで、1793年から1794年のフランス革命の際の恐怖政治(フランス語: La Terreur)に由来する。「テロリズム」という用語が使われるようになったのはフランス革命において行われた九月虐殺がきっかけであった。この虐殺事件では革命派が反革命派1万6千人を殺害する恐怖政治を行い、その中で政治的な用語として登場した。フランス革命ではジャコバン派が恐怖政治を行い、ジャコバン派の権力喪失後に「テロリスト」の用語は使用されるようになった。
テロ、テロリストの言葉を安易に使うと、本来のテロの深刻な意味が失われてしまい、誤解する人が出てきます。
明治維新には、原義の意味でのテロは無かったと思います。
【Kさん】
〜本来のテロの深刻な意味が失われてしまい、誤解する人が出てきます。〜と、いう所が、よく解らないのですが。
では、大隈重信に対する来島恒喜、伊藤博文に対する安重根、浜口雄幸への凶行、犬養毅首相他、同内閣閣僚、岡田啓介首相他、同内閣閣僚への軍人による襲撃・殺傷はテロとは違いますか?それとも、やはりテロ?
また、安倍首相を生かしていては「国が滅んでしまうという危機感から」私が凶行を実行した場合はテロですか?
【Qさん】
清田さんのご指摘は、刑法で裁かれるべき単なる暗殺者たちの犯罪です。

武田鏡村氏の主張:
松陰はアジア侵略を唱えた侵略主義者であり、しかも松陰は、アジア侵略を正当化させるような提言まで行っている。

「琉球に諭し……朝鮮を責めて質を納れ貢(みつぎ)を奉る……。北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋(ルソン)の諸島を収め、慚(ざん)に進取の勢いを示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉(へんぎょ・辺境)を守らば、則(すなわ)ち善く国を保つと謂(い)うべし」(『幽囚録』)

これは、後の日本が行ったアジア侵略そのものである。松陰は日本を侵略行為に駆り立てたアジテーターでもあったのだ。
そして、その理念は、薩長政府に引き継がれたと言える。

こうした吉田松陰の実像は、「薩長史観」によって見事なまでに隠蔽されて、ただ明治維新を成し遂げる草莽(そうもう)の志士たちの精神を涵養した教育者であるとされている。

だが真相は、数々の暗殺や武力的な襲撃をそそのかしてテロ行為を正当化し、のちの日本を侵略戦争に駆り立てた扇動家であったのである。:



QさんとKさんの論点は、テロという言葉の定義の差異で、革命のための暗殺や武力襲撃に、民衆を巻き込んだか否かの差で対立している。

手元の外来語辞典を3冊ほど開いてみたが、Qさんの指摘したような厳密な定義をかいたものはなく、テロリストは政治や革命のための暴力主義者をいっている。
リンカーンやケネディーの暗殺もテロによるものと、よくいわれている。

武田氏の論点は、松陰の武力革命思想が、アジアまで含んでいたことを力説して、海外侵略には民衆を巻き込むから、松陰の思想をテロと称しているようだ。

日本の真珠湾攻撃は、軍事基地を攻撃したのだからテロではなかったが、米国の焼夷弾攻撃や原爆投下は民衆を攻撃したのだからテロといえるか? 疑問がのこる。

テロという言葉は、支配者(勝者)が闘争相手を呼ぶ言葉と定義すれば、話は簡単だ。

最近の和製英語動詞


1. ググって (Google it.)


Googleはカタカナで「クーグル」と書く。で、「グーグル」に「する」を付ける。最後に「する」の「す」と「ー」を外して、「ググる」という辞書形の単語ができた。
最後に命令形にしないと。「る」を外して、「って」を付けると、素敵な単語ができた!
「ググって」は 英語で "Look it up on the Internet" を言うけど、一番簡単な言い方は "Google it."

2. ナビる (Use GPS)

「ググって」と似たような作り方での和製英語、「ナビ」に「する」を付けて、「す」を外す。もちろん「ナビる」も命令形にできる。
ナビゲーション【navigation】 は、航海術。航空術。経路誘導。自動車ラリーでナビゲーターが速度・走行位置・進路の状況等を知らせること。などに使われる用語だが、GPS (Global Positioning System) の 出現でその利用が主流になった。


3。スタンバる (to stand by, to be on call, to wait)


stand byは日本語でいうと、「スタンドバイ。」でも、それは、日本人にとってちょっと言いにくいから「スタンバイ」になった。
日本人はみんな英語だと思っているドンマイも一緒。「ドントマインド」のほうがDon't mindに近いけど。
スタンバるも、「ググる」と「ナビる」と同じ作り方だ。
先輩の「タブる」も英語のdoubleからきているのだ。

4。スタバる  (To go to Starbucks)

まず、「スターバックス」を「スタバ」に略する。で、「スタンバる」「ナビる」「ググる」とほぼ同じパターンなんだけど、文法的に、「スタバに行く」は正しくない?けど、「スタバにする」になっている。
「スターバックスでお茶をする?」の略になっているかもで、「する」の「す」を外して「る」になった。
日本語の間違えた文法からこの素敵な単語が生まれた感じ。
スタバろう!スタバりたくない!スタバざるを得ない!スタバばらなければなれない。スタバりたい!スタバるバイ!。

5. 事故る  (To be in an accident) 

名詞の「事故」を動詞にしたかったらしい。
「事故る」だけは和製英語じゃないんだけど。

6.パニくる (panic)

語源は、ギリシア神話の神・パーンにちなむ。古代ギリシアの人々は、家畜の群れが何の前触れもなく突然騒ぎだし、集団で逃げ出す現象について、家畜の感情を揺り動かす見えない存在が牧神・パーンと関係していると考え、これを「パーンに関係するもの」(古代ギリシア語: πανικόν = 英語: panic)と呼んだ 。
これを動詞化して、パ二くる。

7.ディスる (disrespect)

ディスリスペクトは、英語の disrespect を外来語のカタカナ表記したもの。
respect(リスペクト)という【名】尊敬、敬意、尊重 【動】尊敬する、尊重する  といった意味を持つ言葉に、否定するdisを接頭語に持つ言葉で、軽蔑や批判するといった意味になる。
ディスるは、なんでも否定するという広義の意味にも通じる。

ここにリストアップした単語は、日本語の教科書にまだ入ってなかろう?。



2017年9月19日火曜日

葛飾北斎の娘

今月のテレビ番組では、葛飾北斎の一生と、その娘のお栄のドラマが放映された。
北斎のほうは、過去にも何回か見た記憶があり、その時は娘が最後まで父の身の回りの世話をしたという話だけで終わっていた。
今回のお栄のドラマで、娘も立派な画家で、葛飾応為という雅号をもっていたことを知った。
 (眩(くらら) http://www.nhk.or.jp/dsp/kurara/) 9月18日 NHK

葛飾応為の『吉原夜景図』(太田記念美術館)は、現代アートのように光と影を効果的に使った画風で、一派をなしている。
父の陰にかくれて、あまり知られていないのは残念である。

2017年9月17日日曜日

AI Robot:「Robotics for Happiness」

AI Robot についての、金出教授の講演内容:
WRSプレ大会を1年後に控えて、東京都内でWRSのメッセージ:「Robotics for Happiness」をテーマに講演。

金出氏は1974年京都大学で工学博士号取得後、京都大学の助教授などを経て、1980年に米国カーネギーメロン大学に移った。1992~2000年には世界的に有名な同大学ロボット研究所所長として勤務。1998年からワイタカー冠全学教授の称号を持ち、現在コンピュータビジョン、マルチメディア、そしてロボット工学において先駆的研究に取り組んでいる。

 主な研究成果には、1981年発表の動画像処理における最も基本的アルゴリズムとされる「Lucas-Kanade法」、1995年に最初にアメリカ大陸横断した自動運転車「Navlab 5」、2001年のNFLスーパーボウルで採用された30台以上のロボットカメラで270度の視野の映像を撮影する「Eye Visionシステム」などがある。
 こうした実績を持つ金出氏が、今回取り上げたのが「最近のロボットの進展」である。AI Robot には3つの軸があるという。

1つ目の概念は、コンピュータで動きをプログラム化するようになったことから生まれる。
以前のロボットは、からくり人形のように機械機構的なプログラムで動いた。これが近代になると、コンピュータで動きをプログラム化するようになった。そのため、ロボットはメカニズムという概念から離れて、情報によって駆動するようになった(インフォメーションドリブンメカニズム)。
これが現在のロボットの姿を作り出したといえる。これが1つ目の進展である。この概念を得た時点で「機械は必ずしもメカニカルなシステムでないということに気が付いた」という。

 2つ目の概念は「ロボットが人を完全にトラッキング(追跡)できるようになった」ということから生まれている。

今までのロボットは単にモノを認識するだけだったが、今は人の動きを完全にトラッキング(追跡)できるようになってきている。
従来の単なる大きな行動の分類(歩く、座る、蹴るなど)でなく、四肢や指までの精密な動きを完全に追跡する技術が登場してきている。
これによりロボットの概念は「『人の代わり』から『人とともに』『人のためへ』」(Help)へと変わってきた」と金出氏は説明する。
人が何をしているかが分からなければ、助けようがないということからだ。

 金出氏はその1つの例として、最近の研究の中で取り組んでいる「Smart Headlight」を紹介した。この研究は「夜間、運転中に雨や雪が降ってきた時、水滴や雪にライトが当たり白っぽく見えて、視界が悪くなる。これを、ヘッドライトの光を雨に当たらない様にコントロールする機械」だという。

 この機械の開発は簡単だそうで、少しだけ雨に光を当てて、すぐにカメラで画像を撮影する。そこで「どこに雨粒があるか」を見て、車の前方のカメラとライトを制御するという仕組みである。


 実際にカメラとプロジェクターで実証を行ったという。カメラで画像を撮影し、雨粒に当たって反射する光をオフにすると、雨粒が光らなくなる。この機械を車載すれば雨粒が光らなくなり、雨の夜でも明瞭な視界が確保できる。


 この他、対向車のハイビーム、ロービームについても、相手の運転手の目に入る光線だけをオフにすれば、相手はまぶしくなくなる。この装置を有効活用すれば夜間の横断者も見つけやすくなり、人間の安全を守るためのシステムとなっていく。
こうした「人を見て、人を助ける形への進展」が第2の概念の進展だという。

 3つ目の概念の進展は「個々のシステムから、トータルあるいは環境システムへ」(Enhance)というものだ。

 これまでロボットは1つ1つのシステムが個々に動くようなかたちだった。しかしこれからは、ロボットが働く環境において、総合的に価値を実現していかなければならない。

 例えば、農業用ロボットとして、刈り取りだけにロボットを使うのでは効率が良くならない。他にも、農作物の生育の状況などを自動的に見極めることや、刈り取り後の検査やパッキングなど、育成から出荷までをトータルで取り組む概念が必要となる。
現在はそうした方向に向かっている。技術者たちはこうしたシナリオを描く必要がある」と述べている。

 この他、小さなマグネットを外から操作して、目の手術を行うシステムの研究例や、バクテリアの動きをまねした器具をマグネットで作り、それを血管の中に通して動かし、薬を病巣に確実に送る研究例などについても紹介した。

金出氏は「ロボットは、こうあるものだという凝り固まった概念から抜け出すことが必要だ」と強調する。

さらに、イノベーションの組織と環境については「異分野のインタラクション、研究と教育の密接な関係、地域と密着した活動(地域の強み)、アイデア・資金・研究開発・企業のダイナミズム、人材をひきつける・提供する、などの要素が必要だ」と金出氏は指摘する。

さらに「『理想のロボットのすべきこと=(イコール)人のしたいこと-(マイナス)その人のできること±Δ(プラスマイナスデルタ)』という公式が成り立つ。つまり、その人が自分でできることは何も手を助けない方がよい。『±Δ』はその機能を保持する、または失った機能を取り返すということであり、それを分かっているロボットがハピネスなロボットとなるだろう」と金出氏はロボットの理想像について語っている。



2017年9月13日水曜日

大宰府を囲む防衛線「大宰府羅城」


そのむかし、大宰府は「とお朝廷みかど」と呼ばれた朝廷の出先機関のことでした。

 さらに、この大宰府は風水都市でもあります。

地図で確認すると、東西南北、地の理に叶った都市であったことがわかります。風水では東西南北の方位のそれぞれに、色、季節、動物(架空を含む)、守護神、自然を配置します。下記のカッコは、それを大宰府にあてはめたものです。

東:
青、春、龍、持国天、川(御笠川)

西:
白、秋、虎、広目天、道(西海道)

南:
朱、夏、雀、増長天、平野と沼沢(二日市温泉)

北:
玄、冬、亀、毘沙門天、山(大野山、四王寺山、北部の水城)

 ちなみに、太陽は東から昇るので、人生における勢いのある時を東にかけて「青」「春」=「青春時代」と呼ぶのも風水の考え。會津(会津)の白虎隊は西方の守備隊。西は「白」「虎」を示すことから名づけられました。
 大宰府政庁の縮図を見ると、大宰府政庁は碁盤の目に区切られた条坊制の都市として描かれており、条坊の中心線(都大路ともいうべきか)に添って南に下がると、榎社(寺)があります。榎社とは、京の都から左遷された菅原道真の館があった場所。「府の南館」とも呼ばれたが、現在の西鉄二日市駅の北側にある榎社がそれになります。
さらに南に下れば、条坊の端に湯町こと現在の二日市温泉があり、万葉歌人の大伴旅人が赴任地の大宰府で妻を亡くし、その悲しみを歌に詠んだ場所でもあります。
この都市部の風水の範囲を超える長大な防衛ラインを、阿部義平教授(故人:国立民俗博物館)が、大宰府羅城として、1991年に提唱されていました。

桜開花のころの水城







最近この仮説の物証となる土塁が南側でも発見され、調査されました。
新発見 大宰府を守る土塁
大宰府防衛線「大宰府羅城」

1.発見された土塁(どるい) 

筑紫駅西口土地区画整理事業に伴い実施して いる前畑遺跡の発掘調査では、弥生時代前期~ 中期の集落、古墳時代後期の集落と古墳、窯跡、 中世の館跡、近世墓地などが発見され、長期間 にわたって人々の営みの痕跡が発見されていま す。 今回の丘陵部での調査では、7世紀に造られ たと考えられる長さ500メートル規模の土塁 が、尾根線上で発見されました。




2.土塁の構造                    

土塁は大きく上下2層から成り、上層の外に  土壌を被せた構造です。上層は種類の異なる土 を層状に積み重ねた「版築」(はんちく)と呼 ばれる工法で造られています。このような工法 は特別史跡の水城跡(みずきあと)や大野城跡 (おおのじょうあと)の土塁の土壌にも類似し ており、7世紀後半に相次いで築造された古代 遺跡に共通した要素と言えます。







ただ、すでに知られている水城や小水城、と うれぎ土塁、関屋(せきや)土塁といった7世 紀の土塁は、丘陵と丘陵の間の谷を繋ぎ、敵の 侵入を遮断する目的で作られた城壁としての機 能が想定されています。 今回、前畑遺跡で発見された土塁は、宝満川 から特別史跡基肄城跡(きいじょうあと)に至 るライン上に構築されたもので、丘陵尾根上に 長く緩やかに構築された、中国の万里の長城の ような土塁となっています。 また、土塁の東側は切り立った斜面になって おり、西側はテラス状の平坦面を形成していま す。これは東側から攻めてくる敵を想定した構 造で、守るべき場所、つまり大宰府を防御する 意図を持って築かれたと考えられます。

3, 前畑遺跡で発見された土塁の歴史的な背景

このように都市を防御するために城壁(土塁や 石塁)を巡らす方法は、古代の東アジアで中国を 中心として発達し、羅城(らじょう)と呼ばれて いました。 日本に最も近い羅城の類例は、韓国で発見され た古代百済の首都・泗沘(サビ)を守る扶余羅城 (プヨナソン、全長8.4Km)があります。扶余羅 城は、北と東の谷や丘陵上に土塁を構築し、西を 流れる錦江(白馬江)を取り込んで羅城としてい ます。自然の濠ともいうべき、河川をうまく利用 して羅城を築いていることになります。 日本書紀によれば、660年に滅んだ百済の遺 臣達によって、この筑紫の地に664年に水城、 665年には大野城と基肄城が築造されており、脊 振山系や宝満山系などの山並みの自然地形を取り 込んだ形で大宰府にも羅城があったのではと長く 議論されてきました。前畑遺跡の土塁は丘陵尾根 上で発見され、丘陵沿いに北へ下ると宝満川へ至 ります。このことから、当初の大宰府の外郭線は、 宝満川を取り込んでいた可能性も想定され、古代 の東アジア最大となる全長約51Kmにおよぶ大 宰府羅城が存在した可能性がにわかに高まってき ました。

4.土塁の評価

前畑遺跡の土塁は、文献史料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図を持ったものであ ると考えられ、百済の城域思想を系譜にもつ大宰府都城(とじょう)の外郭線(がいかくせん)に 関わる土塁であると推測され、東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類を みない稀有な遺跡です。 このような巨大な都市が建設されるのを契機に、「日本」の国号や「天皇」といった用語が史料 に現れ、「律令(りつりょう)」という法治国家の制度が整備され、現在の日本の原形としての古代 国家が成立しました。前畑遺跡から見る景色は日本のあけぼのを感じる特別な眺望といえるのでは ないでしょうか。

さらに古代山城や、神籠石の分布範囲をしらべれば、防衛線は、さらにひろまります。




2017年9月11日月曜日

城井(宇都宮)鎮房が謀殺されたのは馬ケ岳城か?



黒田孝高・長政父子に謀殺された、城井(宇都宮)鎮房と朝房親子。


鎮房の謀殺場所は豊前中津城で行われたと云うのが定説だが、最近の説では同じ豊前でも、北西側の馬ヶ岳城だという。

そこで馬ヶ岳の山麓まで、でかけて見た。

背景の山が馬ケ岳(家内と次男)

その理由は、中津城完成時期と謀殺時期が同じ時期なので、落成直後の御殿で殺戮するのは何か不自然ということだ。

文献でも、『陰徳太平記』には、黒田孝高・長政による城井鎮房謀殺の舞台は、中津城ではなく、馬ケ岳城と記されている。

さらに最近、朝房の孫の信房の手紙がみつかった。
孫の信房は、熊本で浪々生活をしていたところを、鎮房・朝房の遺臣に発見されたという。

当時の名は城井善助信房で、寛文十年に彼が発信した書状に、
やはり、「紀井弥三郎は馬ケ岳にて相果てる。拙者五歳の時、父は四十余歳で病死。先祖帰名・海名(戒名)を知りたし。」とある。

原典は、現・福岡県みやこ町の城井旧遺の進家から、みやこ町歴史博物館へ移譲され保存されている。

(家内の叔母がみやこ町の進家に嫁いでいるが、その一族かもしれない。家内の妹は進家の娘と同級生である。)



信房は朝房の息子の朝末の子供で、朝末は宇都宮家復興の働きかけを行い、家康から「大阪の陣に参加したら話を聞いてやる」と言われるも、病で動けなくて夢敵わず=父は病死=となっている。

馬ヶ岳城だとすると、中津の合元寺で従者達が多数殺されたという話と矛盾するが、合元寺の事件は黒田家譜にも書いてはないし、話がおもしろすぎで、江戸時代の作話らしい。

合元寺の壁は血で赤くなっているとの説







馬ケ岳で謀殺されたとすると、その時の状況をも少詳しくし書いた文書が欲しいものだ。
馬ケ岳山頂

清田 進 さんの 説 (2024.1.4)

城井鎮房忙殺は豊前馬カ岳城で、と云う話
『陰徳太平記』〜城井鎮房降参付生害事〜は、城井鎮房(一次資料・本人発行書状、秀吉、黒田孝高、加藤清正発行文書等で、鎮房及び一族について宇都宮という表記は皆無)暗殺現場を馬ヶ岳城としています。
鎮房曾孫・信房が菩提寺天徳寺(福岡県築上郡築上町本庄)にあてた書状「寛文十年1670天徳寺宛庚戌・紀井善助信房書状写」には、「城井弥三郎[鎮房]、馬が岳にて相果」とあります。城井側史料も、また、鎮房謀殺は、馬ヶ岳城でのこととします。
鎮房と一族を孝高・長政が共謀して暗殺した天正16年4月には、中津築城が遅れた状態にあり、豊前入国当初、長政が入城した馬ヶ岳城を長政と孝高は、暗殺の舞台に選んだと考えられます。
鎮房曾孫、信房は、熊本で善助という名で牢人に身をやつしているところを、旧臣に探しだされました。信房の大伯母が嫁ぐ彦山座主の親戚筋にあたる日野家を介して、飛鳥井大納言の仲介で、越前藩松平家へ仕官。信房子・藤一郎が元禄三年1690五十人扶持を受けます。のち正徳二年1712には五百石に加増され家名をつないでいました。
鎮房謀殺の現場に会したとされる黒田一成が著した『黒田長政記』(続群書類従23下)は、鎮房・朝房殺害について詳細を延べます。一成は、孝高有岡幽閉時の孝高付門番であり、村重家臣・加藤徳重次男・玉松です。
如水様も御上使として、肥後表へ御出陣なされ。城井子弥三郎[朝房]を、如水様召連れられ、肥後表へ御座なされ候。御留守に城井鎮房御礼に罷出て候ハ、御成敗なさるべく候間、其御註文次第に、弥三郎も御打果しなすべくの由、如水様と相談遊ばされ為し置き。
朝房を孝高が、一揆鎮圧を名目に肥後へ同道し、その留守に豊前では鎮房を誘いだして誅する。鎮房謀殺の結果が肥後にとどけば、朝房もまた斬る、と、孝高と長政のあいだで周到な打ち合わせがおこなわれたうえでの凶行でした。
豊臣秀長が天正十五年十一月十一日付で、孝高とわけて、豊前北半国を領知した森吉成に対して、肥後一揆が伝播し、猖獗した豊前での騒乱について、「一揆言語道断所行黒官兵仕やう悪二よつて」(『吉川』709)と、その原因を孝高の失政にあると断じています。孝高・長政父子は、同十六年五月に肥後での失政を咎められて、賜死を言い渡された佐々成政と同様の状況に追い込まれていました。
なお、秀吉九州下向前年天正十四年、立花統虎・立花、高橋鑑種・岩屋、高橋統増・宝満各城を 島津忠長・秋月種実らが囲んだ際、城井鎮房は朝房を島津方に参陣させています。朝房を歓迎する宴を開いたと、島津義弘家老・上井覚軒は、その日記『覚軒日記』に書き留めています。 翌年、秀吉本軍が下向し、秋月種実が降伏すると、鎮房は、ようやく秀吉に帰参。種実とともに肥後・薩摩と南下する、その先鋒を命じられます。 ただし、九州を東回りで豊後・日向と侵攻した秀長軍への対応で、島津方主力の義弘軍が豊後方面に展開したため、秀吉本軍南下に際しては、ほとんど、戦闘らしいものはなくなく停戦をむかえます。
古武士の印象で伝えられる鎮房ですが、史実上では卑怯な立ち回りが確認できます。




2017年9月9日土曜日

夢Q作品に描かれた箱崎の風物ポイント


夢野久作は福岡出身の大作家であるが、あまり知られていない。





夢野久作は箱崎に居住していた時期があり、その作品に箱崎の風物が取り上げられているものがある。
これらを地図にしめしたものが、今年の放生会で配布されるようだ。

〇ポイント ① ドグラ・マグラ 
狂人を模倣した 気味悪い屍体
 然るに本日午後五時頃、大学裏海岸を通りかかった沙魚釣り帰りの二名の男が、海岸に漂着している一個の奇妙な溺死体を発見し、この旨箱崎署に届出たので万田部長、光川巡査が出張して取調べたところ、懐中の名刺により正木博士である事が判明したので又々大騒ぎとなり、・・・


〇ポイント ②と、ポイント⑥ 犬神博士
地所かね。地所は箱崎八幡宮のものだが、八幡宮とはズット前から心安くしているからね。お礼心に石燈の倒れたのを起して遣っているから喜んでいるよ。
  その次は帽子だ。この山高は九大真野総長のお下りだが、この通り天井がマッチと煙草入れになっている。それからこの二重マントも真野君のお下りで、ジャンクの帆みたいに継ぎハギだらけだが、・・・ 


〇ポイント ③ 梅津只圓翁伝
その通りにすると今度は両手を突いて頭を下げよと云うので、又その通りにすると翁は自筆の短冊を二枚美濃紙に包んで紙縒で縛ったものを筆者の襟元から襦袢と着物の間へ押し込んだ。 「それを持って筥崎宮の二番目の中の鳥居の傍に在る何某(失名)という茶屋に行って、そこに居る禿頭の瘠せこけた婆さんへ、その短冊を渡してオオダイを下さいと云いなさい。


〇ポイント④と⑦の間 山羊髯編輯長
福岡市外というから箱崎町はかなり遠い処かと思ったら何の事だ。町続きで十分ぐらいしか電車に乗らないうちに、筥崎神社前という処に着いた。鳥居前に立ってみると左手の二三町向うに火見櫓が見える。田舎の警察というものは大抵火見櫓の下に在るものだ。事件は警察の直ぐ近くで起ったんだなと気が付いた。 ・・・思ったよりも立派な神社なので、思わず神前にシャッポを脱いで一銭を奮発した。


〇ポイント ⑤ 押絵の奇蹟
それから演奏の時に着ておりましたものの上に被布を羽織りましたまま汽車に乗りまして、故郷の九州福岡へ帰りました。そうして博多駅より二つ手前の筥崎駅で降りまして人目を忍びながら、私の氏神になっております博多の櫛田神社へ

〇ポイント ⑧⑨⑩ 空を飛ぶパラソルその二
そんなようなタヨリナイ苛立たしい競争の圧迫を、編輯長と同じ程度に感じていた遊撃記者の私は、ツイこの頃、九大工学部に起ったチョットした事件を物にすべく、福岡市外筥崎町の出外れに在る赤煉瓦の正門を、ブラリブラリと・・・

九州本線の下り列車は、いつもの通り風光明媚な香椎潟を横断して、多々羅川の鉄橋を越えて、前の事件の背景になった、地蔵松原の入口で大曲りをすると、一直線に筥崎駅まで、ステキに気持ちのいいスピードをかけるのであったが、その線路の南側に展開する麦畑や、菜種畑のモザイクを、松原越しに眺めるともなく眺めて行くうちに、フト妙なものが私の眼に止まった。・・・

〇ポイント ⑪ 少女地獄  殺人リレー
そのシボレーの折尾行きが例の通り満員しちゃったので、妾がステップに立って、新高さんが運転して行くうちに、妾はフッと気が付いて、筥崎の踏切を出ると直ぐにダンマリで後部のスペヤタイヤの横にまわって、荷物を乗せるデッキの上に立っていたの。

ポイント⑫⑬ 狂歌師赤猪口兵衛
先に立って行くのは二十四、五のスラリとした若い男。色の黒い、眉の濃い、眼の鋭い、それでいて何処となくイナセな体構えが、箱崎縞に小倉帯、素足に角雪駄、尻端折しりはしょりに新しい手拭で頬冠りをしている。当時、福岡の種子屋六兵衛老人と並んで、博多随一と呼ばれている捕物上手の目明、良助。

・・・それはそれは大した繁昌で、宗像、早良の大地主、箱崎、姪の浜の網元なんどを初め福岡博多の大旦那衆、・・・

(他にも九大が取り上げられた作品があるようだ。) 


上の地図と、下の地図は、すこしずれているポイントがある。



2017年9月1日金曜日

ラスコー洞窟画の発見状況

九州歴史博物館で、ラスコーの洞窟画展が開かれている。


FB友のIさんが、展覧会をみて、学生時代、ラスコーの洞窟画をみつけた少年たちが、最初に叫んだ言葉は?と問われて困ったことを思い出したという。

(わたしもヌーベル周辺まで旅行したがラスコーまでは行かなかった。当時のフランス南西部はローカル線で、食堂車も車内販売もなく、苦労した思い出がある。)

1時間ほどネットサーフィンをして、FB友の疑問に答えるWebをみつけた。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/W/akebono/ake3.htm

 


今まで見つかっている洞窟のなかで、もっとも美しい、またもっとも優れたものだといわれるラスコーを見つけたのは、四人の少年たちだった。

 ラスコーの洞窟は、中部フランスのモンティニャックという田舎町の松のはえた丘にある。一九四〇年の九月十二日のことだった。
(パリ―がナチスドイツに占領されて3ケ月あとのことだ。)


マルセル(ラヴィダ)、ジョルジュ、ジャック、シモンの四人の少年たちは、ロボットという名の犬をつれて、いつも遊びに行く、松林に行った。

 ところが、ロボットの姿が急に見えなくなった。少年たちは「ロボ! ロボ!」と犬の名をよぴ、口笛を吹いたが犬は現われなかった。

 少年たちが犬の姿の見えなくなったあたりをさがすと、草のあいだに小さな穴が見つかった。

 犬がこの穴に落ちたと考えるほかはなかったので、少年たちはナイフで草を切ったり、石をどけたりして穴の入口を大きくした。

 穴はやがて、少年がはいれるくらいの大きさにひろがった。

 小石を投げこんでみると、底についた音がするまでにかなりの時間がかかった。どうやら穴はただの小さな穴ではなくて、意外に奥行のある洞窟らしかった。いちばん年長のマルセルが、まず穴にはいってみることになった。穴ははじめはすこし斜めになっていたので、腹ばいになってはいりこんだ。

 六、七メートルほど行ったところで、彼は急に一〇メートルか、一五メートルほどもすべり落ちてしまった。

 そこで穴が垂直に近くなったためだった。すべり落ちたところは、かなり大きな洞窟だった。

 少年たちはなんの準備もないので、相談してとにかくいちど家に帰って、懐中電燈や綱を用意して、明日もういちど出なおすことにした。


 彼らは翌朝早く、ランプや綱を持ってでかけた。

 四人の少年たちは、やはりマルセルを先頭にして穴にはいっていった。

 かなり進むとわりあい広いところにでた。

 そこからはほとんど垂直に深くなっていた。彼らは綱をつかって下に降りてみた。

 そこは広い洞窟になっていた。彼らが口笛を吹いてみると、それをききつけて、狂ったように犬のロボットが走ってきて、彼らに乱暴にぶつかった。

 犬をみつけた少年たちは、ランプで洞窟の壁を照らしてみた。

 すると、シモンが急に「馬!」と叫んだ。

 マルセルは「こんな地下に馬なんかいるもんか!」と答えたが、ジャックも「いるいる。たくさんいるよ!」と叫び、ジョルジュは、「牝牛や、牡鹿もいる!」と叫んだ。

 マルセルはみんなが気が狂ったのかと思ったが、みんなはランプで壁を照らして、マルセルによく教えた。

 すると、彼にも いくつかの動物画が見えてきた。

 彼らは岩壁に描かれた野獣の絵を、つぎつぎに見てまわった。


 それらはまるでいま描き終えたかのように、絵の具はなまなましくぬれていた。

 そして、そのまるで生きているように躍動している動物たちの姿に、すっかり心を奪われてしまった。彼らはそれを彼らだけの秘密にしておきたかった。

 そして翌日も四人だけで、また穴にもぐって絵を見に行った。

 しかし、彼らは先史時代の人々が、洞窟に動物の絵を描いたことをまえに聞いて知っていた。彼らは、自分たちが見つけた絵も、きっと氷河時代のクロマニョン人たちが描いたものにちがいないと思った。


 もしそうだとすれば、彼らだけの秘密にしておくわけにはいかなかった。

 学校の先生に、彼らは秘密をうちあけた。

 学校の先生は、少年たちにつれられて洞窟を見ると、さっそく、パリの洞窟絵画の研究家、アンリ・プルイユ神父に電報をうった。

 パリから調査にきたプルイユは、少年たちのみつけた絵は、確かに先史時代の人々(クロマニョン人)の描いたものであり、それも今までに比べるもののないほどすばらしいものであることを保証した。

 これをきいてモンティニャックの町中の人々は、総出で洞窟の絵を見にいった。

 こうしてラスコーの洞窟絵画は世の中に知られるようになり、そのすばらしさを伝えきいた人々は、世界中から見物にきた。

 あまり多くの見物人がきたために、光が当てられ、新しい空気が洞窟の中に流れこみ、長いあいだ、まるで描かれた当時のままに新鮮だった絵が、退色しはじめた。

 そのため、はじめは一日の見物客を制限したが、それでも絵が傷むため、今ではぜんぜん穴を閉じてしまい、いっさい見ることは禁止されてしまった。



(急速に劣化したため、1963年以降から、壁画の外傷と損傷を防ぐため、洞窟は閉鎖された。現在は壁画修復が進む一方、一日に数名ごとの研究者らに応募させ入場・鑑賞させているほかは、ラスコーの壁画は非公開とされている。
しかしオリジナルの洞窟の近くにレプリカの洞窟「ラスコー2」が1983年に作られており、こちらは一般見学が可能である。
この他、遠隔地での展示が可能な「ラスコー3」が作られており、また2015年現在新たなレプリカ洞窟「ラスコー4」が計画されている。


世界遺産として観光名所となったので、少年の一人は最近まで観光ガイドを務めていたようだ。私と同年代だから、もう90歳を越えているはずだ。)