日本史の年表で、もっとも記載項目の多いのは、慶応・明治の革命時代であろう。
大河ドラマでいまやっているので、明治維新関連の事項を、私流に整理してみた。長州・薩摩が主役だが、福岡県に視点をおいてすこし追加・記載する。
( )は月。
文久3年(1863)
(3)将軍家茂が攘夷運動抑圧のため上洛するが、勅許を得られず、5月10日を攘夷決行日と決定する。
(4)福岡藩黒田長溥も須崎に台場をつくり大砲を設置しはじめる。
(5)10日、長州藩が下関通過の米商戦を砲撃。23日仏軍艦を砲撃。26日蘭軍艦を砲撃。この月に伊藤博文、井上馨ら5人がイギリス留学のため密出国をする。
(6)1日米軍艦が長州砲台を攻撃。7日高杉晋作が奇兵隊を編成する。長州藩が小倉藩砲台を一時占拠する。
(7)2日、生麦事件への報復として、英艦隊が鹿児島湾に侵入し、城下町を攻撃する。「薩英戦争」
(8)13日天誅組が大和で挙兵した。
(8月18日の政変)三条実美ら長州系の倒幕派公卿を、薩摩・土佐・会津藩など雄藩が中川宮と組んだ参与会議で追放。(七卿落ち)七卿は長州藩に保護される。
(9)高杉晋作は奇兵隊総督を免じられる。
(10)澤宜嘉、平野國臣らが但馬生野で挙兵するが壊滅。
文久4年・元治1年(1864)
(1)朝議参与メンバー徳川慶喜・松平容保・山内豊信・伊達宗城に、島津久光が加わる。西郷は岩山糸と結婚。
(2)文久から元治に改元
(3)27日水戸藩天狗党が筑波山で挙兵した。朝議参与が分裂し、廃止となる。
(4)仏国ロッシュ公使が着任。
(5)神戸の海軍操練所が発足、勝海舟がリーダーとなる。
(6)5日京都で池田屋事件発生。尊攘激派が多数死亡。15日函館五稜郭が完成。
(7)11日佐久間象山が京都で暗殺される。
19日「禁門の変」(蛤御門の変):尊攘激派の長州藩兵士と浪士が、文久3年8月18日の政変の処分撤回をめざして、京都回復を試みたが、薩摩‣会津との戦にやぶれ、久坂、来島、真木らが死亡。幕府は江戸・京都・大坂にある長州藩邸をすべて没収。江戸藩邸の長州藩士を2年間拘束した。平野國臣ら京都で処刑。24日幕府は長州征伐の勅許を得る。
(8)5日英・米・仏・蘭の四国連合艦隊17隻が、長州藩の攘夷決行の報復として、下関砲台を攻撃し、占領した。
8日,連合艦隊と長州の講話談判に高杉晋作がでる。
23日、長州征伐軍には、徳川慶勝が総督、西郷隆盛が参謀役となる。30日長州藩主は官位称号を奪われる。
(9)22日幕府は下関事件賠償の約定に調印する。
25日井上馨襲われて重傷を負う。
勝海舟と西郷隆盛の最初の会談がおこなわれる。
(11)西郷らの説得で長州藩が恭順し、長州3家老が切腹し、4参謀が斬首された。
高杉晋作、筑前に亡命。12日から20日平尾山荘に滞在。早川勇から長州の恭順の情報を聞き、帰国して挙兵を決意する。
(11)美濃から越後に抜けた天狗党が討伐軍に降伏した。
(12)15日高杉晋作が下関功山寺で挙兵し、下関の藩内保守派を襲撃する。。
徳川慶勝は27日、征長軍の撤兵を命じる。
福岡藩の斡旋で、三条実美ら五卿の大宰府移転が決まる。
元治2年・慶応1年(1865)
(1)長州:高杉晋作の挙兵軍が、長州藩の主導権を握る。
15日五卿ら黒崎湊に上陸、18日赤間館に到着し滞在した。
(2)12日赤間宿を出発した三条実美ら五卿大宰府に到着。その後坂本、西郷らの志士が訪問する。
(3)長州藩は山口に移り、諸隊を再編成し軍制改革を行う。
薩摩:五代、寺島、森ら19名がイギリス留学に出発。
薩摩藩も倒幕の意向が高まり、西郷も大宰府に五卿や蟄居中の岩倉と接触を行う。
(4)年号を元治から慶応に改元。
(5)英国公使パークス赴任。下関で木戸・伊藤らと会見。
将軍家茂、2次長州征伐の勅許を求めたが、衆議をつくせとの勅旨。福岡藩など諸藩は協力せず。
長州藩は藩主の江戸登城命令を拒否する。
土佐:武市瑞山が獄中で切腹を命じられる。竜馬は大宰府の五卿を訪ねる。
(6)隆盛と竜馬が京都で会見。長州の武器を薩摩名義で買う協定を結ぶ。
(7)長州の井上馨、伊藤博文が薩摩を訪問。グラバーの斡旋で鉄砲を購入。
(8)幕府による横浜製鉄所が竣工。
薩摩:家老新納刑部が仏人モンブランと貿易商社設立の契約をむすぶ。
(9)英・米・仏・蘭四ケ国の公使が兵庫開港をもとめて、艦隊で大阪湾に回航。
21日将軍家茂は再度上洛し長州再征の勅許をもとめ、ようやく許可された。
(10)開港問題は公卿・幕閣の大会議を慶喜が主導し、安政修好通商条約の勅許を得たが、兵庫開港の件は延期となった。
福岡藩は保守派家老が復活し、家老黒田播磨は蟄居、加藤司書・月形洗蔵ら尊攘派を処分し、野村尼を姫島遠島、早川勇を入牢にした。(乙丑の獄)
(11)幕府は長州再出兵の命令をだすが、様子伺いの藩が多い状態だった。
在京の西郷は雄藩主を集めて、長州再征の阻止を計り、薩摩の精兵を入京させる。
(12)神田真道、西周がオランダから帰国した。
慶応2年(1866)
(1)21日、年末から行われていた薩摩・長州の同盟が、竜馬の仲介で、京都の小松邸御花畑屋敷で成立する。
24日寺田屋事件がおこり、竜馬が負傷する。
(2)長州藩は決戦を覚悟し、四方面の守備体制を固める。
(3)17日坂本竜馬、お龍と霧島に登る。
(4)薩摩藩は、長州再征への出兵拒否の意見書を提出。
(6)7日幕府軍艦が周防大島を砲撃して長州再征伐開始。芸州口、石州口、小倉口ともに長州藩が優勢で、大島上陸部隊も撤退。
英公使パークスは長州や薩摩を訪問。仏公使ロッシュも長州を訪問し、幕府の老中板倉とも面会。安芸・備前・阿波の3藩主は、征長軍解兵の意見書を提出。
福岡藩は2日に3500の軍隊が福岡を出発し、中間に本陣、黒崎、大倉、枝光、中原、戸畑、若松などに派兵したが、参戦はしなかった。熊本藩も同じ行動だった。
(7)20日将軍家茂が急死し、喪は1月間伏せられた。
長州軍は小倉藩に侵入、単独で戦った小笠原軍は小倉城を脱出し田川を拠点とする。
小倉藩側が出した結論は「開国」策であった。「開国」とは、小倉藩が自領を全て放棄して、藩士とその家族全員が他国に移住する案である。
(8)小倉落城自焼。この報告で、慶喜は征長を断念し、将軍死去を理由にして解兵の勅をあおぎ、21日に勅を得た。(9)勝海舟が安芸宮島で、長州の廣澤真臣らと休戦締結。
16日野村尼、姫島から救出され、大島経由で長州へ保護される。
(10)蟄居中の岩倉具視の意向をうけて、倒幕や朝廷改革案を提出していた中御門、大原らの22人の公卿に対し、27日孝明天皇は慶喜の意向を聞いて閉門を申し付ける。
(12)慶喜は家茂の死後、徳川宗家を相続しただけであったが、5日15代征夷大将軍に命じられた。
グラバーが福岡藩を訪問し、黒田長溥と懇談した。
12月22日未明、小倉藩生駒主税は田川郡香春の長州陣所に出向いて、人質要求は受諾できないこと、「開国」することを申し入れ,同年暮れから翌年正月にかけて、一部の藩士とその家族は肥後国熊本や豊後国日田に移住した。長州藩側は小倉藩領である豊前の地を長州藩が『侵掠』したと世間で取り沙汰されると武士道に外れるので、小倉藩と改めて交渉することにした。
25日孝明天皇が急死した。暗殺説が流れた。
英国軍艦が博多湾に入港。能古島で大砲の試射を披露。箱崎はまで歩兵操典を行う。
慶応3年(1867)
(1)睦仁親王が9日に践祚(せんそ)され、関白二条斉敬が摂政となる。
22日長州藩と小倉藩の和議成立。長州藩側は「朝廷や幕府の処置、すなわち長州藩主父子が赦免されるまで企救(きく)郡を預かりたい」と申し出、小倉藩側はそれを了承した。
(2)将軍慶喜が大阪城で四国の公使と会見し、兵庫開港の実施を討議した。
(3)兵庫開港の勅許は不許可となったので、慶喜は四国公使に開港の延期を伝えた。
朝廷は昨年10月に閉門されていた織仁親王、晃親王ら皇族や公卿の罪を免じ、岩倉具視らの入京を許す。王政復古派の力が増す。
小倉藩は藩庁を香春に定める。
(3)26日、オランダに注文していた開陽丸が、留学生榎本武揚らをのせて横浜に帰国した。
(4)薩摩の小松と土佐の板垣が京都で会談し、倒幕の盟約を結ぶ。土佐藩が坂本竜馬が亀山社中を配下にいれ海援隊とする。14日高杉晋作が病死。
(5)将軍慶喜の努力で、24日に兵庫開港が勅許された。
(6)坂本竜馬が、「船中八策」を後藤象二郎に示し、二人は上京して西郷、大久保らとこの公議政体の盟約を結んだ。
西郷と山縣は倒幕の戦略をねる。
(7)中岡慎太郎が陸援隊を組織した。
(9)薩摩・長州・安芸の三藩が倒幕を盟約する。島津珍彦(藩主弟)が藩兵を率いて入京する。
(10)大政奉還論を練っていた土佐藩主の山内容堂が、老中板倉に建白書を提出。これを受けて慶喜は13日、在京の諸藩重臣を二条城に集めて諮問の上、14日に大政奉還の上意を朝廷に提出し、翌日許可された。
一方では、岩倉具視が、13日に薩摩宛の倒幕の証書を大久保に手渡し、また長州藩主父子の官位復旧の宣旨を廣澤真臣に渡した。(一般には、薩摩・長州に倒幕の密勅が下されたとされている。)
朝廷は慶喜にしばらく庶政を委任すると沙汰し、公家たちは倒幕実行猶予の沙汰書を薩長両藩につたえた。
薩摩藩相楽総三らが江戸にはいり、薩摩御用盗といわれる江戸攪乱作戦をはじめた。
(11)6日野村尼病死。13日島津忠義、西郷、大久保らは、兵を率いて京にはいる。15日坂本竜馬と中岡慎太郎が、京都の近江屋で暗殺された。
(12)9日薩摩、尾張、越前、土佐、安芸の諸藩兵が警護する宮中で、その各藩主による小御所会議が開かれた。
一般には王政復古の大号令が出されたというが、公議政体派の4藩と倒幕派岩倉・薩摩の議論は年末まで混沌。
将軍の辞官納地は、諸藩の版籍奉還を前提に実施することを、松平春嶽が慶喜に伝えることのみ決定。幕府や摂政の廃止などは保留。有栖川宮を政府首班の総裁とし、松平春嶽・山内容堂らを議定、岩倉や大久保らを参与とする新政府案が樹立される。 23日薩摩浪士が三田の庄内藩邸や江戸二の丸に発砲し、二の丸が炎上。25日庄内藩を主とした幕府軍が、三田の薩摩藩邸を攻撃し、焼き討ちにより薩摩藩士50名が死亡した。この情報が京都にとどき、戊辰戦争の導火線となる。
19日三条実美ら五卿は大宰府をたち、京都へ向かう。慶喜は二条城より大阪城に移る。
岩倉が議定となり、新政府は大久保の意見で倒幕決戦の意向を決定する。
慶応4年・明治1年(1868)
(1)2日幕府軍15000が大阪を出て夕刻に淀に到着。淀藩は入城を拒否。兵庫沖で幕府海軍が薩摩藩船を砲撃。
3日鳥羽、伏見の両街道で薩長軍4000と遭遇し、夕刻には新式武器の薩長軍が幕府軍の先鋒を圧倒する。
4日に任和寺宮を征討大将軍として錦旗を掲げた。
「鳥羽、伏見の戦い」
この初戦で西郷従道が負傷する。反対していた山内容堂もあとは朝廷次第と引き下がる。
6日津藩兵が寝返って、敗走する幕府軍を攻撃。
「戊辰戦争の始まり」
幕府軍は撤退し、慶喜は6日夜大阪城を脱出し、7日開陽丸にのり江戸に向かう。
三条実美を議定とした新政府は7日、徳川慶喜追討令を出し、25日諸外国公使に、王政復古の国書を手交した。15日相楽総三ら赤報隊を結成し、美濃に向かう。
14日福岡藩家老久野将監が新政府との交渉に上京したが、追い返された。
29日新政府は京阪の豪商に数十万両の献金を要求。
久留米藩尊攘派が参政不破美作を暗殺し、倒幕派になる。松平春嶽と姻戚だった柳川藩も倒幕派になる。
佐賀藩は鳥羽・伏見の戦いの時に藩主も家老も京都に不在だったため不参加だったが、薩長側が勝利に終わって以降は上京して新政府軍に加わり、最新式の兵器で活躍した。(2)3日有栖川宮が東征大総督に任命される。東海、東山、北陸の3道軍にわかれて、江戸にむかう。
江戸では恭順派が勝ち、慶喜は寛永寺に蟄居する。
各国公使が京都で天皇に謁見するが30日京都御所に参内途中のパークス公使が刺客に襲われる。
福岡藩は28日保守派久野、野村、浦上の3家老を罷免、切腹。尊攘派を再登用し、新政府軍に参加。2370人。
(3)9日山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛との事前会談をする。
14日江戸での勝海舟と西郷隆盛の最終会談で江戸無血開城となる。この日新政府は五か条の誓文をだし、基本方針を示す。
赤報隊の相楽は偽官軍とされて惨殺される。慶喜は水戸に移る。
(4)旧幕府に代わる新政府は三条・岩倉二人の太政官のもとに、七官(内国・外国・軍事・会計・制度・刑事・神祇)をおき、立法・行政・司法の三権分離をきめたが、地方制度の藩は保留された。
この頃福沢諭吉は慶応義塾を開設。
20日新政府軍参謀世良修蔵、会津藩士に殺害される。
(5)上野の彰義隊が敗北。
新政府は徳川家達に駿府70万石を与え、慶喜も駿府に移る。
陸奥、出羽、越後の25藩が反政府同盟を結ぶ。
(6)英船が博多湾ひ停泊し、英人が祇園山笠を見学した。
(7)15日大阪を開港場とする。
(8)16日河井継之助戦死。19日榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川を出港し、奥州、蝦夷に脱出。
27日明治天皇の即位式。
(9)8日明治と改元、一世一元の制度となる。
14日会津若松城総攻撃。22日降伏。
20日明治天皇は京都を出発し江戸に行幸。江戸を東京と改名。22日会津藩が降伏。
(10)東京を皇居とさだめる。25日榎本が五稜郭を占領。
(11)新政府成立の書を対馬藩より朝鮮に持参。受理されず。三池藩が再度成立する。
明治2年(1869)
(1)5日横井小楠が京都で暗殺される。
20日薩長土肥の四藩が版籍奉還を上奏する。他藩も同調して同じ趣旨を上奏しはじめる。
(2)黒田長溥は隠居願いが認められて、長知が家督を継いだ。
(3)7日明治天皇は再度東京へ出発。太政官も東京に移り、遷都決定となる。
三条実美は右大臣のち太政大臣となる。岩倉は病のため官を辞してしばらく療養にはいるが、年末には復帰する。
(5)18日榎本武揚が函館で降伏。戊辰戦争の終結。黒田清隆が助命嘆願し、榎本は下獄した。土方歳三は5月に戦死。「戊辰戦争の終了」
(6)17日土地、人民を新政府の統治下におき、公家と諸藩主は華族とし、旧藩主を知藩事に任命。
佐賀の鍋島直正は6日、蝦夷開拓総督を命ぜられ、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に登用、7月13日には初代開拓使長官に就任した。
大村・木戸の国民徴兵論と大久保らの薩・長・土3藩兵常備論が対立。
(7)官制を改革し、神祇官・太政官の2官、民部・大蔵などの6省という古代体制とした。蝦夷地を北海道と改称。
東京、京都、大阪の三都市圏を府としそれ以外は県と改称。
(9)4日大村益次郎が京都で襲われ重傷、11月に死亡。
(11)山口藩諸隊より精鋭の常備軍を編成。(以降諸隊の反乱がおこる。)
「参考文献」
読める年表「日本史」 :自由国民社
幕末史 半藤一利 :新潮文庫
日本史要覧 :文英堂
幕末歴史散歩 一坂太郎:中央公論社
幕末長州史跡散歩 一坂太郎:羊泉社
幕末・維新のしくみ 童門冬二:日本実業出版
幕末・維新事典 奈良本辰也監修:三笠書房
日本の歴史 別冊年表 児玉幸多:中央公論社
NHK 西郷どん ガイドブック
福岡県の幕末・維新 :海鳥社