2019年9月20日金曜日

宗像氏貞の後継者

宗像氏貞は若くして病死し、承福寺近くの丘のうえで、静かに眠っている。




宗像氏貞が死亡したあと、宗像氏はすぐに断絶したとされている。
宗像大社

しかし、一時的には後継を、氏貞の後妻の「宗像才鶴」がつとめたという説と、小早川隆景の重臣「草刈重継」が代行したという説がある。 草刈重継は氏貞の次女の娘婿である。また才鶴は男性という説もある。

1)「宗像才鶴」については、石田三成・大谷吉継・安国寺恵瓊の連署で、島津の侵攻により荒廃した博多津中整備への協力をもとめる天正15年4月23日付の書状の充所に、龍造寺正家、原田種信にならんで「宗像才鶴」と記名された書状によってこれまでは、知られていた。


今回熊本県で発見の書状は、氏貞の家臣で宗像清兵衛として熊本に移った多良木町にある清兵衛の子孫宅で発見され、秀吉から「宗像才鶴」にあてたもので、天正14年10月10日付と推測される。清兵衛も氏貞の娘婿の一人であったらしい。

島津北上に対抗した功績にたいする感状で、その5月に九州へ上陸した毛利・小早川・吉川・黒田連合軍に合流して、遠賀から豊前方面の島津方諸城(古賀・帆柱・浅川・劔・香春岳各城)を、宗像氏貞のもの後継者の宗像才
鶴の管理下におくというものである。
香春岳
もう一つは軍事に関しては浅野長政に相談するように伝える朱印状である。

才鶴の名前は、大宮司関係の系図には記載がなかったが、氏貞のなき後、実質的に宗像家を任された人物だったようだ。





2)草刈重継は小早川隆景の家臣で、のちに美作・矢筈城(岡山県津山市加茂町山下)主となるのが草刈重継である。

天正11年、秀吉の中国平定戦・毛利攻略の最終段階で頑強に抵抗した地生えの草刈重継に対して、これを抑えるべく、毛利方との折衝にあたったのは黒田官兵衛孝高で、その抵抗ぶりが気に入ったのか、その後宗像家との縁組を秀吉に提案して、実現した。

ただ気骨の人らしく、秀吉の命による宗像家相続については気に入らなかったようで、自身は宗像姓を名のることは一度もなく、子に一時期、名のらせていただけだ。ただ宗像文書を受け継いでいたので、現在まで存続することになった。

その宗像文書は、秀吉没後に重継が移り住んだ周防・萩に、いっしょに移り、天明7年(1787)に重継末孫・長州萩藩士・草刈胤継がこれを宗像大宮司・深田兵部少に返還した。

宗像社伝来の『草刈胤継什書奉納状』には、「吾が祖草刈対馬守藤原(草刈)重継、宗像氏貞卿片(正しくは片に旁)縁の来歴、及び宗像の家系・什書、吾家の次第について留め」とあり、重継が宗像社の相伝文書を有し、伝えていたことを述べ、これらを返還し奉納したことが述べられている。

現在、地方の社としては異例の数で中世文書を宗像社が伝えるのは、美作の猛将・草刈重継との縁によるものである。


筑前を黒田一族が領有する時代になり、宗像氏は武家ではなく、大宮司専職の家系となった。

その他の説もいろいろあるようだ。
肥後の人吉付近の多木町に分家があったという説もあるようだ。

昨日は歴史講座で、宗像氏貞の話をきいた。もと県立図書館勤務の桑田氏の話で、数年前にも一度受講したが、今回は詳しい資料や地図や古文書をプロジェクタで示された。
宗像一族が、大内派と大友派に分かれた経緯や、大友との和睦交渉の詳しい内容の文書が、多く残っているようだ。
また戦国時代の武将の仕事は、戦死した部下の家族への手紙、頸をとった部下への恩賞、傷を負った部下への慰問など、多くの手紙を書くことだったが、実物をみてよくわかった。
藤野正人氏の講演参加記録。:
十月十日熊本県多良木町において肥後宗像家文書シンポジウムが行われ私も参加しました。
十月十日は、天正十四年豊臣秀吉が宗像才鶴に薩摩島津氏の北上を防いだことを称賛する文書を発給した日になります。
断絶したと思われていた宗像大宮司家の直系の子孫が多良木町に存在していたことがわかったとともに、貴重な文書を代々引き継ぎ大事に保管していたことにより諸説あった謎の人物「宗像才鶴」が文書の調査にあたった九州大学の花岡先生により益田景祥であることが実証されました。
このことは宗像氏研究において非常に意義のあることだと思います。
ただ、宗像市においては、歴史に関する視点は古代に偏り中世戦国期については今一つ市民の関心が薄いように感じています。
『肥後宗像家文書』は、九州が豊臣政権の支配下に組み込まれる激動の時代の宗像氏の動向を明らかにする貴重な文書群です。
このようなシンポジウムが今回だけに終わらず、いつの日にか多良木町と宗像市の共催で行うことによりさらに宗像氏研究を深めるとともに多良木町宗像市に住む多くの人にさらに知っていただければと感じています。