平成12年の企画展の資料によると、慶長10年(1605)頃から、承応2年(1653)のあいだに、上町、下町、新町の三段階にわけて宿場が広がったようだ。
茶屋、町茶屋、郡屋、構口などがある。託乗寺の姉妹寺は三苫にもある。その後何回か大火災があり、また再建された。
1653年頃の地図 |
江戸末期の宿場の想定図:
博多屋、箱崎屋など唐津街道のつながりを思わせる宿ができている。江戸時代には、伊能忠敬の測量記録や黒田・島津藩主や、西郷隆盛など要人の宿泊記録もある。
為息庵は元禄16年の建立だが、火災の後小規模のものとなり現存している。
江戸末期の地図 |
明治大正時代の地図:
小学校、高等小学校、郵便局、派出所、村役場などができて、裏糟屋郡の中心地として栄えた。病院、薬局、酒造、醤油、鍛冶、呉服などの商店もあつまった。
鉄道の古賀駅が海岸部にできると、古賀地区の中心は次第に西の海岸部に移りはじめた。
明治・大正時代の地図 |
昭和40年頃の地図:
鉄道の古賀駅が海岸部にできて、昭和になると青柳地区の
発展は停滞してきた。古賀の郷土愛研究会で数回この地区を案内してもらったが、昔の繁栄のあとが感じられなかった。
昭和40年頃のゼンリン地図 |
昭和末期に私は青柳に近い場所に住むようになり、青柳の歴史に興味をもった。当時の森市長の住居が上町の角にあり、そのお向かいに学友の子息の福岡歯科医院があった。また赤星病院のあとに堤病院があり、どちらにもよくお世話になるようになった。
当時は青柳宿の掲示板もなく、構え口跡の石碑だけがあった。
平成初期のゼンリン地図 |
平成になり、青柳宿の掲示板やいくつかの案内板ができて、史跡らしくなった。
令和元年には、ラグビーワールドカップで、福岡歯科の息子、福岡堅樹選手が大活躍して、古賀市や出身の青柳小、古賀東中の名が日本中に知れ渡った。
そしてその母上も、現在の歯科病院の土地にあった崎村家の出身で、東郷の崎村医院の娘さんだったことも伝えきいた。
4個のトライをあげた福岡選手 |
古賀市に凱旋した福岡選手 |