一光寺の寺紋 |
今年のお盆に寺参りをして、寺紋入りの提灯を写真にとったとき、何処かでみた紋のような気がした。
帰宅してよくしらべてみると、大友氏の家紋に似ている。
大友氏の家紋 |
法然はその意思をついで出家し、修行をつんで浄土宗という宗派をおこすまでになった。
宗紋は、法然の実家の家紋に、法然がよく謡った和歌
「月影の いたらぬ里は なけれども
ながむる人の 心にぞすむ」 の 「月影」が
付け加えられたという。詳細にみると蕊の数が、9から7にかわっている。
浄土宗の宗紋 |
大友の家紋は「抱き杏葉(だきぎょうよう)」とよばれ、杏の葉を左右に抱きあわせたデザインである。
浄土宗の宗紋は「月影杏葉(つきがげぎょよう)」とよばれ、「ぎよ:漁」は魚の鱗のデザインとみたらしいという説がある。城の上の鯱を連想させるからだろう。
大友家も、法然の実家も、平安末期の武家であるから、同じような家紋であり、その後九州では高橋や鍋島や立花宗茂も用いた家紋である。
一光寺が10年ほどまえに出した「開山460年史」には、寺紋についての記載はなく、名島の大名町あたりで開山されたが、その後、立花城をめぐり大友と毛利などの争いが続き、その出城があった名島の戦乱をさけたか、被害があったらしく、箱崎の地に永禄11年(1568)に移転したことが、寺の文書にかかれているだけである。
俗説には、黒田家が名島城をすてて、福岡城に移った時期に移動したというが、寺の文書とは時代があわない。
開山上人の行発漢阿大和尚は箱崎への移転直後になくなっているので、名島の地には短期間で門跡などの遺跡がない。
一光寺の納骨堂 |
庫裡の玄関 |