2021.5.30.放送 2時間番組。
討論者:
石野博信(兵庫県立考古博物館名誉館長)
片岡宏二(小郡市埋蔵文化調査センター所長)
倉本一宏(国際日本文化研究センター教授)
佐古和枝(関西大学英語国際学部教授)
高島忠平(佐賀女子短期大学名誉教授)1967年宮崎康平の島原説 |
魏志では倭奴と日本を区別している |
討論者:
石野博信(兵庫県立考古博物館名誉館長)
片岡宏二(小郡市埋蔵文化調査センター所長)
倉本一宏(国際日本文化研究センター教授)
佐古和枝(関西大学英語国際学部教授)
高島忠平(佐賀女子短期大学名誉教授)1967年宮崎康平の島原説 |
魏志では倭奴と日本を区別している |
◇◇◇法隆寺は観世音寺が斑鳩に移築された?◇◇◇
今日の白洲次郎の番組で、娘婿の牧山圭男が登場した。
インドのヒンズー教の教えは、人生を学生(がくしょう)期、家住期、林住期、遊行(ゆぎょう)期の四期に分ける。
学生期は、子供のころ、人生の準備期で、あとすぐ仕事をし、家庭を持ち、子供を育てる家住期に入り、やがて子供が大きくなって家を出て行くころから、仕事と家庭のしがらみを離れて自由に生きる林住期の一時期を過ごし、あとサトリを開いて「聖者」となった人間を除けば、たいていの人間は林住期の後、家に戻る。
あと何をするか、死ぬだけである。
死の準備をするのを終活期と最近では言っている。
断捨離にはじまり、介護施設に入って、子供たちに面倒をかけない現代人の考えは、自分の体得した哲学を説いて廻る聖者や、家も財産も放り出して頭陀袋ひとつで遍路の旅にでる遊行期とは、全くかけはなれている。
五木さんは「ウツの時代」だと言う。ニヒリスト聖徳太子は「世間虚仮」と言った。凄い言葉だ。
五木さんは「遊行期」は、大いなるものに還っていく時期だという。
それは大いにうまく「遊ぶ」こと。おしめを替えてもらうようになっても、それは還ることのひとつ、自分の生まれた「玄」の世界に還って行くことだとの達観。
だからこそこの「ウツの時代」に遊び、オトナとして遊びのなかにこそ死中の活路を見つけよう。
もしかしたらその中にこそ、きたるべき新しい時代の活路があるかもしれないよ・・といった五木さん流の励ましだ。
95歳にして、ウツの時代に、おおいに遊行して、活路を見つけよう。
1968年3月、パリ郊外に63年に新設されたパリ大学ナンテール校で「新左翼」の学生による占拠事件が発生。
5月3日にはソルボンヌでの学生集会に警官隊が動員され学生が逮捕された。
5月10日には大学当局が学校を閉鎖したことに抗議する学生たちがパリ市内の学生街カルチエ=ラタンに結集し、警官隊と衝突した。
カルチエ=ラタンにはバリケードが築かれ「解放区」が出現、政府は共和国保安隊を出動させて鎮圧にあたった。
多くのけが人が出る中、5月13日には労働者・市民が学生を支援するデモを行い、混迷は5月末まで続いた。
ド=ゴールははじめ、「子供の遊びさ」と楽観し、暴動の最中も外国訪問を繰り返すなどひんしゅくを買い、ようやく5月30日に国民議会を解散して総選挙を行うことを宣言し、事態の収拾にあたった。
政府も労組に対して賃上げを約束するなどして運動を懐柔し、6月末には平静を取り戻した。
私は当時スイスからパリに入国予定だった6月24日が、2日ほどのびて26日にやっとパリ空港にはいれた。
学生街カルチエ=ラタンの道路の煉瓦は殆どはがされて、投石の道具にされていた。周辺にはまだ警察の機動隊の車両が点在していて、警戒にあたっていた。
6月に行われた総選挙は暴動への反動からド=ゴール派が圧勝し、危機は去った。
以下の三大事件のことをいう 。
下山事件 | 1949年7月6日 | 常磐線北千住 - 綾瀬駅間 | 5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明に轢死体となって発見された事件。 |
三鷹事件 | 1949年7月15日 | 中央本線三鷹駅 | 無人列車が暴走し脱線。死者6人、負傷者20人を出した。 |
松川事件 | 1949年8月17日 | 東北本線松川 - 金谷川駅間 | 故意にレールが外され列車が脱線した事件。死者3人を出した。 |
1949年(昭和24年)、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に親英米政権と共産政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、戦後日本占領を行うアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換した(逆コース)。
まずはハイパーインフレーションにあえぐ日本経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。
同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆議院議員総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進。
共産党系の全日本産業別労働組合会議(産別会議)や国鉄労働組合も、その余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。
このような状況の中、下山国鉄総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた。
国鉄が人員整理を起こそうとしていたことから、人員整理に反対する国鉄労組による犯行という観点から捜査が進められた。
下山事件では下山総裁が自殺なのか他殺なのかが争点になった。死体が生体轢断(自殺の根拠)か死後轢断(他殺の根拠)かで大きな争点となった。
捜査一課は自殺説を主張、警視庁捜査二課が他殺説を主張した。
最終的には他殺説及び自殺説について公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。
三鷹事件では国鉄労働組合員11人が起訴された。
裁判では10人の共産党員に無罪判決が出て1人の非共産党員に死刑判決が確定した。
松川事件では国鉄労働組合員10人と東芝松川工場(現・北芝電機)労働組合員10人の計20人が起訴された。
裁判ではアリバイが成立して全員の無罪判決が確定した。
これらの三事件では、「GHQが事件を起こし国鉄労組や共産党に罪をなすりつけて、人員整理をしやすくした」とする陰謀論が存在する。
1人の有罪が確定した三鷹事件もアリバイの存在や供述の変遷などから、冤罪疑惑が指摘されており、獄死した元死刑囚の家族により再審申し立てがされている。
国鉄三大事件は、『日本の黒い霧』事件とよばれる。
松本清張が発表したノンフィクション『日本の黒い霧』によって生まれた流行語である。
松本は第二次世界大戦後のGHQ占領下に起きた事件に取材し、背後に不正や犯罪などが隠されていることを黒い霧にたとえた。
現実の汚職・不祥事にも、「黒い霧事件」と名付けられたものも複数存在する。