昭和天皇の数々の"史上初"の記録
(注:アンダーラインの事項)
生:明治(1901) 没:昭和64.1.7(1989) 昭和1(1926)年から同64年まで在位。皇太子明宮嘉仁親王(大正天皇)と皇太子妃節子(貞明皇后)の第1皇子。
大正3(1914)年学習院初等科を卒業し,東郷平八郎を総裁とする東宮御学問所で,白鳥庫吉,服部広太郎,杉浦重剛など一流の学者,教育者を教師として,10年まで学ぶ。
大正4年に立太子の礼,6年皇太子妃に久邇宮良子が内定,8年成年式が行われた。
大正10年に皇太子として最初のヨーロッパ訪問(特に英皇室との親善)が実現。
帰国後摂政に就任し,13年結婚。この間12年台湾行幸, 年末にアナキストによる狙撃事件(虎ノ門事件)があったが、無傷で過ごされた。 (犯人は難波大助、当時24歳の共産主義者)
元老西園寺公望,牧野伸顕内大臣,一木喜徳郎宮内大臣らリベラルなグループによる補佐を受け,政務を執行された。
15年大正天皇の死去とともに践祚,元号が昭和と改められた。昭和2(1927)年の大正天皇の大葬,そして3年京都で御大典が挙行された。
この前後,天皇の心労は陸軍の行動であり,張作霖爆殺事件に関しての4年の田中義一総理に対する叱責はその現れであった。その後も軍部に対する疑念は大きく,ロンドン条約,満州事変における天皇の行動もその延長線上にあった。
「現状打破」をめざす「革新派」は,天皇側近を「君側の奸」として攻撃し,2・26事件(1936)が起きて、天皇家警備の警視庁が占拠された。
このとき信頼する側近を多く殺害された天皇は激怒して,その鎮圧を強く要望された。
12年に始まる日中戦争についても,また16年の日米開戦についても,強く躊躇の態度を表明したが,正規の手続きによって裁可を求められたものは最終的には裁可を与えられた。
敗戦濃厚になり、軍は長野県に松代大本営を作ったが、天皇は東京を動かないと決意をのべられた。
松代大本営 |
8月15日の玉音放送は国民一般が天皇の生の声を聞いた最初であり,スムーズな降伏に大きな役割を果された。
この御前会議場の地下室は、現在もそのまま宮城内に残されている。
占領下天皇大権は連合国軍総司令官の下に置かれ,9月27日天皇はマッカーサーを訪問,その際の,背の高いマッカーサーの脇に並んだ小柄の天皇の写真は国民にショックを与えた。しかしこのときマッカーサーは天皇の態度に感銘を受けたといわれる。
21年1月いわゆる「人間宣言」を発した天皇は全国各地を巡幸し,再建に働く国民を激励し,また熱烈な歓迎を受けた。
22年の日本国憲法で「国民統合の象徴」と位置づけられ,以後その役割を忠実に果たした。皇后と共に46年にはヨーロッパを,50年にはアメリカを訪問。
62年以来入退院を繰り返し,64年十二指腸乳頭周囲腫瘍で崩ず。翌年大葬が行われた。相撲観戦を好み,また若いときから生物学を学び『相模湾産ヒドロ虫類』など8冊の著書がある。
そのほかにも初めて尽ずくめの昭和天皇
1)まず特筆すべきは、昭和天皇のその長寿である。
残された文献の正確性が高い6世紀の欽明天皇以降の資料によれば、昭和天皇の87歳は歴代最長寿だ。
(ただ現在87歳の上皇さまが、12月の誕生日を迎えると88歳となられるので、昭和天皇の記録を抜くことになる。)
2)長寿であるということは、天皇の在位期間も長く、その点でも昭和天皇は62年(22660日)という歴代最長記録(上記、欽明天皇以降)の持ち主だ。
天皇に即位する前には、病床に臥していた大正天皇に代わって、政務を代行する「摂政」を大正10年から5年弱の間、務められていた点を考えれば、在位期間以上の間、天皇と同じ公務を行っていたことになる。
3)在位が長く長寿であったことから、以下のような珍しい出来事も可能となった。それは昭和55年2月23日、20歳となった徳仁親王(現天皇陛下)が成年式に臨まれた時のこと。
「成年皇族となったことを宣明する、『成年式』の主な儀式の『加冠の儀』は、皇居・宮殿『春秋の間』で行われ、昭和天皇ご夫妻も出席された。
つまり昭和天皇ご夫妻と皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)、そして徳仁親王(現天皇陛下)の親子三代が、皇室の歴史上初めて「加冠の儀」に同時に参列したのであった。
■そのほかの初めての補足
A) 「摂政」になる直前の大正10年に、皇太子としてヨーロッパ各国を訪問したのも、昭和天皇が初めてだったことは前述した。後に昭和天皇はその時の思い出をこう話されている。
「イギリス国王ジョージ五世から立憲政治の在り方について聞いたことが、終生の考えの根本にある」
B) また若いときから生物学を学び、皇居内の生物学研究所で行っている稲作も、昭和2年に「品種研究や農家の苦労をしのぶため」に昭和天皇が始められたものだ。収穫した米は新嘗祭など宮中祭祀に用いたり、伊勢神宮に奉納している。上皇さまの代からは、さらに種もみまきもされるようになった。
C) また終戦直後の昭和21年から、戦災で苦しむ人々を励ますために「全国巡幸」を始め、昭和29年までの8年間で沖縄を除く46都道府県をあまねく訪問された。その締めくくりの巡幸が、北海道の旅だった。
行きは青函連絡船で津軽海峡を渡ったが、帰りには日本航空のダグラスDC-6B型機「シティ・オブ・トウキョウ号」を利用し帰路につかれた。なんとこの飛行機に乗ったことで、昭和天皇は史上初の空を飛んだ天皇となられた。
D) 「側室廃止」は、明治後期から大正時代に形成されつつあった近代家族像の延長線上にあった。
左から、長男の迪宮裕仁親王(昭和天皇)、三男の光宮宣仁親王(高松宮)、次男の淳宮雍仁親王(秩父宮) (1906年頃撮影) 欧米の上流階級では、幼少期の男子にも女子の服装を着させて養育させる習慣があった事から、皇室でもそれを取り入れることになった。 |
昭和天皇と香淳皇后との間には2男5女が誕生したが、はじめは皇女が続いた。宮内大臣の田中光顕が側室制度を提案したが、昭和天皇は拒否の回答をされた。昭和8年に皇子の誕生で、側室制度の話は消えた。
今、皇位の安定継承を考える政府の有識者会議が行われているが、皇室の血脈を巡る考え方にはまだまだ賛否の声が渦巻き、一致した議論の方向性も見出せていない。
昭和天皇のご生誕120年の今年、その血脈に連なるご家族がどう継承されるのか、注目していきたい。