昨日「縄文人の謎」という番組をみた。
石垣原の合戦で討ち死にした大友軍の武将吉弘統幸の墓と辞世の句碑が吉弘神社にある。吉弘氏は高橋紹運の生家である。
昨日「縄文人の謎」という番組をみた。
古賀ゴルフ場(KGC)には、「大松神社」が存在し、大切に保存されている。
昔は現在の11番ホールの位置にあり、「OBよけの守り神」でした。
その後、8番ホール近くに遷座し、ゴルフ場のほぼ中央のやや小高い場所で、今はボール防止のネットに囲まれている。
この神社には悲しい物語が残っている。
• 昔、この近くに若い夫婦が住んでいたという。ある嵐の日、漁に出た夫が帰らなかった。美しい新妻は夫の死が信じられず、雨の日も風の日も海岸にたたずみ、夜になると、夫の目印になるように、浜にかがり火をたき続け、海をじっと見続けたという。
18日の日曜日に、庭作業中に左腕を負傷して、出血がとまらないので、休日担当の外科医に駆け込み2針縫ってもらった。10日後の抜糸でやっと正常なからだに戻った。新技術で傷口にぬれば数分でふさがる薬品も出来ているらしいが、町医者ではまだ使っていない。
現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホータキー朝に始まり、1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。
1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカブールに移され、ペシャーワルが冬の首都となったが、1823年、ペシャワールはシーク教徒に奪われた。
19世紀後半、アフガニスタンはイギリス帝国とロシア帝国の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった。
20世紀後半に、ソ連が侵入し、米ソの冷戦下でソ連追放のためにタリバンの組織がつくられた。
ソ連が撤退した後、米國の後処理がおそまつだったので、ソ連軍への抵抗運動に参加していたウサーマ・ビン・ラーディンとその同志らによって結成された部隊がアルカイーダに変貌し、1998年のアメリカ大使館爆破事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件等、アメリカを標的とした数々のテロを実行した。
このような新しい組織の実現は、シュンペーターのいう新結合といわれている。
日本でも、尊王攘夷運動の高まりの中、生麦事件のもつれから、文久3年7月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発。
薩英戦争に敗れた薩摩藩が軍備強化に総力をあげ、その戦力で戊辰戦争で勝利をおさめた。しかし新政府の士族対応が不十分だったため、いくつかの反乱があり、ついに大きな西南戦争となった。
人類の戦争を終わらせるには、勝者の論理だけでなく、軍隊の組織や兵士の処遇を適格に対応しなければならない。
NHK英雄たちの選択「もうひとつの関ケ原」をみた。
大友、竜造寺を倒して九州全土の制覇を狙った島津軍の北上に対し、秀吉は休戦を命じたが、島津はこれを無視した。
そこで、豊臣軍は小倉に上陸して、秀長軍は九州東沿岸を南下、秀吉本軍は筑前、筑後、肥後を南下して、島津軍と戦った。
秀長軍は、黒田、小早川が軍師格で作戦を指導し、豊前、豊後を征服し、日向まで南下した。(黒田官兵衛も初めての九州戦であった。)
島津義久は秀長の軍勢に備えるために薩摩・大隅などの軍勢の大半を日向都於郡城に結集した。
局面の打破を迫られた義久は、高城(木城町)を包囲する秀長の軍勢に決戦を挑んだ。4月17日夜半、島津軍は根白坂を急襲した。
この根白坂は高城の南側に位置する坂で、島津軍が高城を救援するなら必ず通らないといけないルートだった。
そのため島津軍の救援を予想していた秀長軍は根白坂に砦を構築し、要塞化して守備を固めていた。
この時の両軍の兵力は諸説があって定かではないが、豊臣軍は8万、島津軍は3万5000ほどだったといわれる。
砦の守将 宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて砦を堅守。これを島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。
ここに秀長の本隊が救援にきたが、状況を見た軍監の尾藤知宣は救援は不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長本隊は軍監の言に従い、救援の中止を受け入れた。
しかし豊臣秀長麾下の藤堂高虎の500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢らが宮部継潤の救援に向かい、島津軍を翻弄。
さらに小早川・黒田勢が挟撃を仕掛けたため、島津軍は大将格の島津忠隣・猿渡信光等のほぼ全員が討死し完敗した。
秀長らは追撃を行おうとしたが、尾藤がまた深追いの危険を主張したために追撃戦は行われなかった。
(尾藤は後でこれらの消極的な姿勢を秀吉に強く責められ、与えられたばかりの所領没収の上で追放。尾藤は諸国を流浪し、後に処刑された。)
完敗した義久・義弘は僅かな手勢と共に都於郡城に退却し、家久も佐土原城(宮崎市佐土原町)に兵を引いた。
豊臣軍は都於郡城を攻略し、三ツ山(宮崎県小林市)・野尻(小林市)の境界にある岩牟礼城(小林市)まで侵攻した。義弘は飯野城(宮崎県えびの市飯野)に籠城した。
根白坂の戦いから10日も経たぬうちに、九州西部では豊臣本隊が島津氏の本国である薩摩へと侵攻し始めていた。有力な家臣で一族でもある島津忠辰や島津忠長らもついに降伏していった。
根白坂での主力決戦に完敗した島津氏は軍を立て直す暇もなく、義久は戦意を失い剃髪して龍伯と号した上で、5月8日に豊臣秀吉に降伏した。
大友宗麟の死亡後は、岩屋城玉砕の高橋一族の高橋元種が、日向延岡にはいった。
木城町の高城は、九州平定後の秀吉により、肥後の秋月氏が移封され、以後は高鍋秋月藩の治下に属し、その後一族から上杉鷹山がでたことで有名だ。
明治4年の廃藩置県になるまでその領政の支配を受けていたが、明治16年宮崎県の児湯郡役所の所轄となった。明治22年の市町村制の実施に伴い当時の椎木の『木』と高城の『城』を組み合わせて『木城町』とした。高城城跡は城山公園となっている。
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で登場する数少ない皇族:中川宮・朝彦親王。
お名前のTV番組で、杉は桶や樽、松は松明、柳は堤防、楠は仏像、樫は木刀など、それぞれの特徴を生かして使用されていることを紹介していた。
最近はやたらとアルファベットの略語が乱発されている。
フセイン大統領 |
カッザーフィ‣オバマ |
2)イラク戦争の後、ジョージ・W・ブッシュ政権率いるアメリカなど西側諸国によって新たな攻撃対象にされるのを恐れてか、リビアのカッザーフィーは2003年末には核放棄を宣言し、廃棄して査察団の受け入れを行った。
アメリカなどはこれらの対応を評価し、それまで行っていた経済制裁などを解除し、テロ国家指定から外す措置を取った。
2009年7月のラクイラサミットでは、夕食会の記念撮影の際にバラク・オバマ米大統領と握手を交し、国交正常化を印象付けた。
しかし、隣国チュニジアのジャスミン革命の影響を受け、2011年2月、カッザーフィーの退陣を求める欧州の影響を受けた大規模な反政府デモが発生。
国民に対し徹底抗戦を呼びかけたが欧米を中心とした軍事介入と、欧州に援助された旧王党派などの反カッザーフィー派の蜂起を招き、2011年8月24日までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退。反政府勢力により首都全土が制圧され、政権は事実上崩壊した。
内戦が展開するなか、6月27日に国連安保理から付託を受けた国際刑事裁判所は人道に対する罪を犯した疑いでカッザーフィーの逮捕状を請求した。
8月に事実上政権が崩壊した後も抗戦を続けたカッザーフィーだったが、9月21日には評議会軍が南部サブハを制圧、更に10月17日にバニワリドを制圧し、2011年10月20日、リビア国民評議会は旧政権派の最後の拠点であったスルト周辺でカッザーフィーが死亡したと発表した。
3)このようなアメリカ外交をみてきた北朝鮮は、核兵器を持たなくても、持っていても、欧米諸国の判断により、独裁者が抹殺されることを実感している。
中東諸国の幹部と密接に連絡をとっていることは、幹部会合の写真に、中東幹部が臨席していることからも明白である。
金書記長と同席する中東幹部 |
防衛大臣がサイバーテロに対する防衛専門組織をつくるという発表をしたようだ。