2021年11月30日火曜日

相撲の歴史と頼朝

日本で相撲がおこなわれるようになった歴史は古く、日本書紀や古事記など、日本神話が載っているような古い文献にも、相撲の記述が残されているほどである。

古墳から力士を模した人形が出土していることからも、4世紀ごろには既に相撲があったと推測される。

神話の中の天覧試合では、当時出雲国にいた野見宿禰(のみのすくね)と大和国の当麻蹴速(たいまのけはや)という2人の力自慢が対決しており、キックやパンチも繰り出される取っ組み合いだったとか。

日本以外の外国でも、同様の力比べの競技は、古くからおこなわれていた。

 先日のTVインタビューで、花田氏(元貴乃花)が、相撲は、ヘブライ語だとおっしゃっていた。

歴史的には、ヤコブが、天使との角力に勝利して、イスラエルとなったわけだが、多くの方が、その角力(相撲)が暗示する事には、お気づきになられない。
海外での角力とは、天使(神々)との関係性の逆転という事だ。

ヤコブの天使との相撲

ところで、古事記では、神生み、島生みは、イザナギとイザナミの坂矛の技である。



坂矛(逆鉾)は、とっさ、無条件の反射、反射神経に、その秘密がある。
日本の相撲や武の道は、とっさを鍛錬するので、日本人は、鳥人族でもある。




写真は、高原町の高千穂の峰、ナギナミ尊の天の坂矛。

相撲には神事としての歴史と、肉体の鍛錬のための歴史がある。

肉体の鍛錬のための相撲は、792年(延暦11年)の健児(こんでい)の制から始まって、徴兵制を推し進めるため、相撲が選抜競技とされた。

武技として相撲を積極的に取り入れたのは、武士中心の社会へと変わった保元・平治の乱(1156・1159年)からになり、武士の実戦技術として相撲が根付いていく。

武家として相撲を好んだのは源頼朝だ。

源氏の守護神社である鶴岡八幡宮にたびたび相撲を奉納して上覧(天皇や将軍など身分の高い人がご覧になること)もした。

鎌倉時代以降は、相撲が余興という色合いからは離れていき、武家の鍛錬として受け継がれていった。ここから武家相撲が始まっていると言われている。

武家相撲の場合は、余興というよりも、闘争心溢れる男らしいパワーを共有していた。 戦国武将もことのほか相撲を好み、屈強な力士達を実践力として武将達が競って召し抱えていった。





「不弥国はフミ(二海)国」:改訂版

 「不弥国は宇美国でなく、フミ(二海)国」

伊都国や奴国はだいたい通説で合っている。
しかし不弥国に関しては諸説がある。
不弥国に求める条件とは…
①海に面している所、港に適した所。
不弥国より投馬国へ行くには”水行”。
だから、不弥国は宇美町などの内陸ではなく、港に適した海岸沿いだ。
宮崎康平も、二つの海と理解し、粕屋郡北部の新宮・古賀付近と推定している。
博多湾の内海と外海を利用できる地域であるから、二海と称されていた。





②奴国より百里で東北方面。

不弥国は奴国から百里の位置にあるが、ちょうど伊と都国と同じ距離感。
倭人伝の記述には、奴国の”東”とあるが、倭人伝の方角は時計回りに45度以上傾いているので、奴国の”東北”方面だ。
投馬国へ長距離の船旅をするわけだから、船の扱いに非常に長けた人たちがいた。
そして、福岡市東部は海人族の安曇氏の本拠地である。
そもそも不弥国は1000戸しかないのに、大国の奴国2万戸に吸収合併されなかったのは、奴国が一目を置く何かに秀でた民がいたから。
それは海運業などで富を得ていた海人族の安曇氏なのかもしれぬ。
奴国の東北方面で伊都国と同じ距離感で海岸沿いの所…となると、私がイメージする不弥国とは、だいたい福岡市東部の海沿いである。二海を広域に拡大すれば、
「新宮・古賀・津屋崎・宗像の弓の松原」といわれる地域となる。


朝鮮通信使の時代でも、この地区の自治体が共同して、対応している。





最近ではこの4自治体の、「しこふむ」などの共同活躍事業が活発になっている。




温泉と風呂と神道

 日本人の風呂好きは、気候風土に神道の影響か?

奈良の都から筑紫の大宰府帥として着任した大伴旅人は任地で妻を亡くした。その大宰府政庁の南にある現在の二日市温泉で
《湯の原に鳴く葦鶴はわがごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く》
と詠んでいる。
この万葉集に収められている歌について『萬葉集とその世紀』(北山茂夫著)は休養のために温泉地を訪れ、亡き妻の念を深めこの歌を詠んだのだろうと注釈をつけた。字面だけを追えば、なるほどと思う。
しかし、「万葉集」は神道古典である。。神道と「万葉集」との関わり。
「湯」は「斎(ゆ)」に通じ、地底からわき出る泉(温泉)は地底の「黄泉の国」とつながっている、あらたな魂の「よみがえり」を願っての禊(ミソギ)である
従来、妻を亡くした男が、淋しさを温泉で紛らわしていたものとばかり思っていたが、大伴旅人は妻の新たな魂の「よみがえり」のために禊(ミソギ)をしていたことになる。
神道を背景にした慣習とはいえ、都から遠く離れた任地で湯につかり亡き妻と会話をしていたのだろうなと思うと、大伴旅人の哀れさが増してくる。

更に、風呂桶のことを湯船とも呼ぶ。
この船とはこの世(現世)とあの世(来世)とを行き来する聖なる乗り物である。
無意識のうちに、入浴という形で日本人は神道における祓いや禊といった行為を日常生活の中に組み入れている。
多くの日本人はなんの疑問も抱かずに年始には神社に参詣するが、このことは特別な行為でもなんでもなく日常生活に溶け込んだ神道の一つの行為である。
神話の世界の延長という認識で神道を見ていたが、「万葉集」という作品の裏に隠れたもう一つの深い意味がある。

2021年11月29日月曜日

日本の分割統治計画

 終戦後の日本分割統治計画 

ポツダム宣言では、日本の四島一括統治とされていたが、戦勝国の間から 異論がだされた。

日本の分割統治計画とは、第二次世界大戦において、ドイツが降伏後米・英・ソ・仏 4 カ国に分割統治されたように、本土決戦後の日本も北海道・本州・九州・四国を連合国 それぞれが統治しようとした計画である。



アメリカ国立公文書館に現存する計画書による日本の分割統治計画。

 アメリカにある国立公文書館に現存する計画書によると、 

・北海道・東北 - ソ連占領地域 

・関東・中部(福井県を除く)及び三重県付近 - アメリカ占領地域 

・四国 - 中華民国占領地域 

・中国・九州 - イギリス占領地 


さらに

・東京 35 区 - 米・中・ソ・英の共同管理 

・近畿(三重県を除く)及び福井県 - 中華民国とアメリカの共同管理 という計画であった(地図参照)。


これらの計画は、ドイツ領土を、4ケ国で統治した考えと共通している。

しかし多国籍での管理が複雑すぎて、ドイツでは問題が多発した経験から、マッカーサー元帥は、アメリカによる一括管理を貫いた。

2021年11月28日日曜日

親不知

 昨日のブラタモリは、糸魚川の断層にある親不知の難所であった。


昔は断崖の下の海辺を、荒波を避けながら通り抜ける難所で、親不知・子不知となずけられていた。


この断崖絶壁の難所の地形はどうしてできたのか?

太古の日本列島は、ユーラシア大陸の一部であった。


2000万年前、地球プレート移動の歴史のなかで、日本列島の分離と折れ曲がりが発生して、親不知の断崖絶壁ができた。日本アルプス山脈の北端子である。
また糸魚川・静岡の断層線も発生した。
糸魚川では、ヒスイの原石が多く発見されている。

日本では、「縄文時代」の初期に「イザナミ」が「翡翠護符」として用いたのが、「翡翠文化」としての始まりであり、「世界最古」の「翡翠文化」といわれている。

さらに詳しく地質を調べると、屈折部はフォッサマグナという複雑な地質になっており、さらに、1500万年前に、フイリッピンプレートとの衝突もおこっている。


地殻の尤も入り乱れた地区である。
  
   

芭蕉の奥の細道の寄稿でも、彼はこの難所そのものは疲れはてて、俳句になっていない。

その前と、後に有名な句がある。

2021年11月27日土曜日

山本勘助の墓

 


川中島の戦い・勘助の死(Wikipedia)

川中島の戦い・山本勘助の死
川中島の戦いで討ち死にする山本勘助
月岡芳年画)

永禄4年(1561年)、謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かした。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入った。両軍は数日に及び対峙する。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重だった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案するようを命じる。勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策した。啄木鳥が嘴で木を叩き、驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。信玄はこの策を容れて、高坂昌信、馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。だが、この時上杉方では、暑さに倒れる兵が出てきており、これ以上味方の兵を苦しめるわけにもいかないとの謙信の判断で、夜中に妻女山を下山していた。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻であった。偶然にも同じ日に両者は川中島に出たのである。

夜明けの濃霧が晴れた八幡原で、信玄と勘助は驚くべき光景を目にした。いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前を進軍していたのである。謙信も、武田勢2万を目にして驚いた。武田勢も上杉勢も、敵軍の動きに全く気がつかなかった。謙信は武田勢を突破するべく車懸りの陣で武田勢に死に者狂いの猛攻をかける。信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。その中に勘助がいた。『甲陽軍鑑』は勘助の死について「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽大将両人、山本勘助入道道鬼討死初鹿源五郎討死」とのみ信繁(信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。

オリンピック組織委員会会長

 大河「いだてん」で組織委員会の津島会長と事務総長の田畑が、喧嘩両成敗で辞めさせられた。その理由は当時の新聞に、でなかったが、ドラマではある程度、演じられた。

私は、第五郎本人より、いきさつを聞いたことがある。

(第五郎の回顧録より抜粋):敬称略:

事務総長の後任には、外務省の役人だった与謝野晶子の次男与謝野秀がえらばれた。
しかし会長の後任の人選は難航して、4ケ月以上空白だった。最初の候補の石坂泰三が断り、つぎの足立正も辞退した。
S38年の正月の財界会合で、安川第五郎はたまたま隣の席にいた組織委員の高石信五郎に、「まだ会長の目星はつかないですか?」と軽い気持ちで質問した。「貴方がやってくれんか?」という返事に驚いて、話題をかえたという。
1ケ月後に石井光次郎の訪問をうけ、「皆で話し合った結果、あなたにお願いしようということになりました」と告げられた。とんでもないと断れば、石井さんの顔をつぶすことになると思い、「少し考えさせてくれ」と返事した。
この話を知っているのは、石井、川島の二人だけと聞いていたが、川島が口を滑らしらしい。
翌日ゴルフ場にいくと、もう新聞記者が一人きていて、委員長の交渉をうけていますか?と質問してきた。知らぬ存ぜぬでにげたが、プレイと入浴後、帰りかけた玄関には、NHKがカメラを構えているし、妻が入院中の病院にいくと、玄関に記者がまっているし、妻はなにかスキャンダルか何か起こしたのかというので、実情をはなした。
家からは、新聞記者が取り囲んでいるから、帰らぬほうがいいと連絡がはいり、長男の家によって晩飯をすませ、遅く帰宅したら、まだ記者がいて、「今になって辞退したら、国民の袋叩きになるかも」と脅迫がましい言葉までいう始末だった。
次の日曜日の朝、親友の梶井剛からの電話で、「今度は君が引き受けねばならない。日本の名誉にかかわることだ。」という。日頃は、「君は何でも安請け合いをして苦労ばかりしている。キッパリ断ればいい。」と忠告していた梶井の言葉で、もう逃げられないと覚悟をきめた。
二人目の辞退者だった足立正と連絡をとったら、オリンピック終了後の赤字については、責任を持たないと条件をつけなさいとアドバイスしてきた。しかし引き受けるからには、それは責任のがれであるから、条件はつけなかった。・・・途中省略・・・
結果はオリンピックの記録映画の好評で、7億5千万円の黒字を出した。大蔵省は映画製作費を2億5千万円におさえた。
市川監督はカラーでとるには照明装置が必要で、1.5億不足だという。財界人も同意見だったので、財界寄付で1億円増やした。
映画の公開を映画会社に交渉したら、どこも2億5千万で引き受けたら赤字になるから引き受けない。東宝だけが半額にしろというので、収入が1億2千5百万円を超えたら、その6割をリターンする条件をつけて合意した。その結果が上記の黒字である。テレビ時代で記録映画をだれも見ないと思った映画社の判断ミスだった。

いだてんのドラマでは、与謝野秀は登場したが、安川第五郎は登場しなかった。

2021年11月25日木曜日

来目皇子遺跡

 

来目皇子遺跡

厩戸皇子(聖徳太子)の時代の遺跡としては、九州にあるのは来目皇子の遺跡が唯一であろう。
西暦602年に厩戸皇子の弟である来目皇子が、新羅征伐のための二万五千の軍団を率いて志摩町野北港まで西下してきた。
しかし来目皇子がこの地で発病し亡くなったので、新羅への出兵は中止された。
この歴史をしのんで、志摩町野北にある久米集落の里山に、「来目皇子遺跡」が作られていることは、以前から知っていた。

すこし辺鄙なところなので、のびのびになっていたが、萩野忠行著「来目皇子」を最近読んでその気になり、やっと今日でかけてみた。
事前調査で、前原市在住の友人にきいたが知らなかったし、現地の畑で作業中の婦人にきいてもわからなかった。一般にはあまり知られていない遺跡である。
YahooやGoogleの地図をたよりに、久米バス停をみつけて、そこでたずねてやっと概略の方向がわかり、そこから久米集落の方にはいって、登り口の案内板をみつけた。
約300m小山を登ると、写真のような大小の石碑と説明板が、円墳上の平地に建てられている。

大きな新しい石碑は「今古俯仰之碑」と、玄洋社社長、福岡市長の進藤一馬の文字できざまれており、彼が中心になって昭和59年に建てられたものである。

小さい自然石は高さ90cmで、来目皇子遺跡と刻まれている。昭和34年に西久米氏子により建てられた記念碑である。

説明板には詳しい歴史的経緯が記されているが、これは日本書紀の内容の解説である。考古学的な証拠となる出土品は何も見つかっていないようだ。


近くに小さな久米神社もあるはずだが、農家の軒先を通っていく路らしく、鳥居や社を発見できなかった。
村の鎮守の神と来目皇子の御霊を祭っているという。近くの植安神社は鳥居がすぐ見える場所なので、こちらにはお参りした。
来目皇子の御陵は大阪府羽曳野市にあるそうだ。
わが家から50km位の距離に飛鳥時代に深い縁のある遺跡があるとは、日本も狭いものだ。
背振山の南には、当時軍団に参加していた物部氏の遺構があるらしい。中原町の物部神社や製鉄遺跡に関係する風の神様の綾部八幡などがその名残といわれている。 つぎの機会にでかけてみたい。
最後に久米神社の地図をしめす。来目皇子の遺跡はこの右下の岡の上(赤丸の位置)にある。

(2009年6月作成)

令和の元号と万葉集

 令和の元号になって、万葉集が急に売れ出し、万葉学者にライトがあたりはじめた。令和の発案者である中西進先生は当然であるが、若手の上野誠先生もその一人である。

甘木うまれで、福大付属大濠高校をへて国学院大卒、現在奈良大教授。ラジオ番組で講演をきいたが、話が非常に面白い。
「人間は場所・空間の移動できるが、時間の移動はできない。過去の時間は一瞬のうちに消え去る。しかし歴史のある場所に行ってみたり、歴史のある文書をよんで、過去の時間を味わうことができる。
時間に追われる現実の生活に疲れたら、万葉集の世界に入って、悠久の時間を楽しんだらよい。
人生100年時代の高齢者に恋はないが、ひとり悲しむの孤悲(こい)はある。囚人と同じように、あと何年と考えずに、今日一日過ごした楽しみを味わうようにつとめよう。」
などなど。
中西進先生

上野誠先生


ギョベクリ・テペ遺跡(トルコ)

 ギョベクリ・テペトルコ語: Göbekli Tepe) は、アナトリア南東部、シャンルウルファ(旧名・通称ウルファ、古代名エデッサ)の郊外(北東12km)の丘の上に在る新石器時代の遺跡遺丘の高さは15メートル、直径はおよそ300メートルに及ぶ。地名は「太鼓腹の丘」の意。標高はおよそ760メートル。

指定された地点 - Yahoo!地図

ドイツ考古学チームにより発掘調査が行われた。発掘は1996年から始まり、チームの指揮を執ったクラウス・シュミットが他界する2014年まで続いた。

ギョベクリ・テペの遺丘に残された構造物は非常に古く、紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられた。祭祀に用いられたと考えられるこれらの構造物には2段階の発達が見られる。

第一段階(先土器新石器A)では巨大な丁字型の石柱がいくつも円を描くように並べられている。物理探査(リモートセンシング)により石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されている。各石柱は6メートル以上、重さは20トン。それらが基盤岩に穿たれた穴にはめ込まれている。

第二段階(先土器新石器Bでは石柱は小さくなり、磨かれた石灰の床を持つ長方形の部屋に立てられた。遺丘の隣に位置し発掘調査が待たれている構造物は1万4000年から1万5000年前のものであることがトポグラフィック・スキャンによって明らかにされた。これはともすれば更新世を1000年遡行することになる。

先土器新石器B期が終わると遺跡は打ち捨てられた。比較的新しい構造物にはギリシャ・ローマ時代のものも見られる。(Wikipedia)

遺跡の外観

2002年にトルコ旅行をしたときの旅行案内書には、全く記載のない遺跡だが、当時すごい遺跡がみつかったと聞いていた。

遺跡の場所
ギョベクリ・テペ遺跡の調査に日本隊が参加とのこと。周辺にも興味深い遺跡があるので今後が楽しみ。
エジプトよりもシュメールよりも数千年古いこの時代に、どんな人々がどのように生きたのか。まさにロマンである。

2021年11月24日水曜日

釈迦族の末裔は伽耶国にやってきた

  釈迦族の末裔は伽耶国にやってきた。河原白兎古代史の真実…

 お釈迦様の入滅後まもなく、釈迦国はコーサラ国に滅ぼされ、そのコーサラ国もやがてマガダ国に滅ぼされます。
 この時、多くの釈迦族の人々が殺されました。が、全滅したのではなく、一部は生き延びたようです。
 コーサラ国の首都はアヨーディアーという名前で、お釈迦様の生まれたルンビニとほどちかい地域でした。お釈迦さまが生前、熱心に布教して歩いたのもこのあたりです。
 実はこの「アヨーディアー」という都は古代史上非常に重要な都市で、「阿踰陀(あゆた)国」として韓国の「三国遺事」巻二「紀異」駕洛国記に登場します。この文献によると、AD48年、この国の王女である「許黄玉」という女性が朝鮮半島に興った金官伽耶国の初代王・金首露の妻として渡来、王妃となっています。
 お釈迦様の入滅後、400年前後経った頃でした。
 許黄玉が嫁入りした際、多くの家臣団とともに、彼女の兄が同行していました。この兄は仏教僧で、名前を「長遊和尚」、または「宝玉禅師」と呼ばれていました。
 この長遊和尚、世俗のことには無関心な高僧だったようで、金官伽耶国に来てからも国政には関わらずに伽耶山に籠り、いくつかの寺を建立、仏教の普及に努めたのでありました。
 許黄玉と金首露の間には10人の男児と2人の女児が生まれましたが、長遊和尚はこのうち7人までの男児を出家させています。
 男児たちは七仏寺という、金海の近くに和尚が建立した寺で修行に励み、見事全員が成仏して天に上ったと伝えられています。
 ところが、これには別な説もあります。そしてこの別説が曲者で、この説が真実の史実だとすると日本古代史はたいへんなことになるのです。
 その別説で語られている、金首露王と許黄玉の子供たちのプロフィールは以下のようなものです。
・金首露長男・居登  伽耶国に残る。二代目金官伽耶国王。
・金首露次男 金海許氏の祖。   
・金首露三男 陽川許氏の祖。
・金首露四男 天思兼命・・・信濃の阿智氏の祖。
・金首露五男・玄・・・扶余国に残る。 
・金首露六男・倭得玉(国常立尊)・・・王治(尾張)氏の祖。
・金首露七男・倭仁・・・二代目大王。
・金首露八男・豊玉・・・宇佐氏の祖。
・金首露九男・倭武日・・・大伴氏の祖。
・金首露十男・日奉益継・・・日奉氏の祖。
・金首露十一男・居添君・・・天表春命(阿智祝部)※天思兼命の子            
・金首露二女・美穂津姫・・・大物主あるいは大国主の妃。
 この表は、とあるHP上のブログにあったもので、ブログの主に連絡する方法がないので出典はわかりません。そこには「他文献からの引用」とのみ書かれています。
 この記述が本当であれば、金官伽耶国・金首露王国は日本人の有力な祖先たちの国だったことになります。 
 上表の中に出てくる「天思兼命」という人物は、天孫ニニギとともに日本に降臨したと記紀に記されている人物で、また、高御産巣日神の子であり、天忍穂耳命の妻である万幡豊秋津師比売命の兄とされています。
 すると、最後に出てくる美穂津姫というのが万幡豊秋津師比売命ということになるでしょう。
 これに関連して、「大倭国通史」(井伊章著、近代文藝社、1990年)という本では、許黄玉を豊玉姫と同一人物としています。また、首露王は百済国の建国者・温祚の兄・佛流の子孫イビカが伽耶山に先住していた王の娘・正見母主と結婚して生まれた子供としています。
 残念ながらこの本もまた、この説の論拠となる傍証があまり書かれておりません。あくまでもひとつの仮説として捉えるしかないようです。
 ただ、上の表と井伊章氏の主張を読み合わせると、新たにひとつの仮説が私の脳裏に浮かんできます。それは、
「首露王の息子たちのうち何人かは七仏寺で修行したのちに天に上ったのではなく、日本に来ていたのではないか?」
という仮説です。
また、「彼らこそが日本という国に最初に仏教を伝えた人々だったのではないか?」
という考えも私の脳裏に浮かびました。
これこそが最初の「仏教伝来」ではなかったか?・・・。
 ・・・そう考えてこの表をもう一度ゆっくり見てみますと、その仮説を裏付けるような人名・地名がたくさんあることに気づかされます。
 まず、「倭」という文字のつく人物が3人(金首露王六男、七男、九男)。この三人は当然日本と関わっている可能性があります。また、それらの人物に挟まっている「豊玉」という人物が「豊玉姫」との関連を想起させます。
 そして、彼らの先祖である「佛流」という人物の名前からは仏教が伝播してゆくという意味が感じ取れますし、その子孫イビカと同音の「井氷鹿」という人物は神武東征を助けた人として記紀に登場します。また、「伽耶」という言葉からはブッダガヤ(仏教の聖地で、お釈迦さまが悟りを開いた場所で知られる)を想起させます。
さらに、「正見母主」という言葉からは、仏道の教えである「不邪見戒」(因果の道理を無視した誤った見解を持たない。物事の本質を正しく見る。)という意味が受け取れます。
つまり、首露王の母は仏教徒であった可能性が高いのです。
また、首露王はスロ、あるいはシュロと発音しますが、この名はなんとなくインドっぽい響きがあります。井伊章氏は金首露王を記紀における「高木神」と同一としていますが、さて、どうでしょうか?・・・
確実に言えることは、この金首露王・許黄玉夫婦の一族のありようが、記紀に書かれた高天原の神々の系図と非常によく似ており、合致させても齟齬がないということです。そして、高天原=伽耶国とするなら、天孫ニニギがやってきたのはこの国から、ということになります。距離的には南朝鮮から北九州ですので、この点も無理がありません。
そして、この一族と古代日本の深い関りは、王妃である許黄玉のほうを調べても非常に多くの傍証が見つかるのでした(続く)。
(写真は韓国・金海市の銀河寺にある首露王・許黄玉夫妻の肖像画)。