倭人伝の記事は、句読点も、改行もない。
また旅程を前半は里で表し、後半は日程であらわしている。
当時の倭人は里数で距離を計ることを知らず、日数で計っていたという記録もある。
だから情報源は、中国側と倭国側の表現が入り混じっていて、旅程の計算を正確なものと考えて、足し算することはできない。
そのため、14行めは、狗奴国の説明が続いているのか、邪馬台国の位置が、会稽東冶の東か?と変わったのか、迷う人が多いようだが、文脈から考えると、前者のようである。
帯方郡から、対馬国、一支国、九州北部の伊都国、奴国などリレー式に里で説明してきて、急に本土の会稽などからの方向を示す必要はない。
女王國に至る万二千余里の文章につづけて、男子の顔への入れ墨の説明になる。
狗奴国の倭人の話である。中国では、華北は儒教の影響で、入れ墨は希だが、華南、華中の海岸地帯は、越人の影響で入れ墨の風習があった。越人と倭人を同一人種とみていたので、この記事がはいったらしい。
その後に、「その道里をはかるとまさに会稽東冶の東にある」の文章である。
「当在会稽東之冶東」
文脈からいうと、「その」は狗奴国をさしているとみるのが自然であろう。
会稽は浙江省の地名で、紹興市は越都のあった土地であり、郊外には故事で名高い会稽山がある。
考古学者の森浩一氏、人類学者の大林太良氏、作家の司馬遼太郎氏などが現地をおとずれて、出土品や、入れ墨文化や、土地風土の調査をして、倭人伝の記述の裏付けをされている。
魏志倭人伝の記述。
「夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み、文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。後、稍(しだい)に以って飾と為る。諸国の文身は各(それぞれ)に異なり、或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に、尊卑の差有り。その道里を計るに、まさに会稽東冶の東に在るべし。」
文脈上、会稽東冶の「会稽」と、少康の子が封じられた「会稽」とは、同一なのは当然だろう。
夏王朝の第6代帝の少康、その庶子である無余は、会稽に封じられ、呉越同舟の「越」の始祖となった。つまり…「会稽」とは越都のあった会稽のはずです。
越の首都は「会稽」、現在の浙江省紹興市である。この会稽こそ、倭人伝の言う「会稽東冶」である。
NHKテレビの邪馬台国サミットでは、福建省福州市(東冶県)の東を邪馬台国とする誤った説を紹介していた。
魏志倭人伝には「邪馬台国は会稽東治の東」と事もなげに記されている。
私は不思議に思う、全行程万ニ千里と共に、学者は何故これを言わないのか、と。
中国の江蘇省に会稽東治と言う土地がある。
揚子江の河口で、紹興酒の産地に近い。
これは、漢代と魏のこの時代、政治的安定の元での、東シナ海の豊かな交流を意味している。
邪馬台国が会稽東治の東だと言う事は、これらを踏まえなければあり得ない。
魏志倭人伝に現れる魏の官吏は、人跡未踏の南極大陸に行ったのではなく、逞しい民間交流の足跡をなぞっただけ、という事なのだ。
従って本来の魏志倭人伝には「不彌国(博多)からは六百里で投馬国(吉野ケ里)、七百里で邪馬台国(熊本)、帯方群から合計万ニ千里」と書いてあった、筈である。
西晋の陳寿が三国志を書いた280年に、この事を疑う者はいなかった。
ところがその後五湖十六国と南北朝の混乱時代に入り、東シナ海の交流が絶え、「邪馬台国は会稽東治の東」の常識が実感から消え、文献上だけの存在になった。
困った事に、福建省に会稽東冶と言う似た地名がある。
さんずいとにすいの、点一つの違いで、誠に紛らわしい。
その会稽東冶は福建省なのでぐっと下り、その東は熊本ではなく、距離的には沖縄辺りになる。
決定的だったのは、432年に後漢書を書いた宋の范曄がその中で、「邪馬台国は会稽東冶の東」としてしまったのだ。
勿論彼も悩んだと思うが、既に実感は失われ実証不可能であり、机の上だけで考えた結果だ。
いずれにせよこれが国の、公式見解になってしまった。
そうすると本来の魏志倭人伝の「不彌国から六百里で投馬国、七百里で邪馬台国」ではとても「会稽東冶」まで届かない
仕方なく、魏志倭人伝をいじらなければならなくなった
それでその里程、六百里を水行二十日、七百里を水行十日陸行一月として、水増しした。
(西晋の陳寿が280年に三国志を書き、宋の范曄が432年に後漢書を書いた、と言う事を忘れてはならぬ。)
王朝は後漢の後が魏なのに、正史は三国志が先に出来て後漢書が後に書かれ、逆転している。
五湖十六国と南北朝の混乱が、ここにもある。
まして「邪馬台国は会稽東治の東」か「会稽東冶の東」かなど分からなくなって当然、そもそもその間150年に亘り、二十個ほどの王朝に跨っている。