2022年9月30日金曜日

 ハイマート(〈ドイツ〉Heimat);フォンテーヌ(fontaine、fontaines)

今入居している老人ホーム;ハイマート橘の「ハイマート」とは、ドイツ語の「ふるさと」の意味だ。 ハイマート(〈ドイツ〉Heimat). 生まれ故郷。ふるさと。

医療法人「豊資会」が運営するケアキュアタウンには、最大規模のハイマート橘のほかに、中小規模の

ハイマートどんぐりの森、ハイマート花梨、ハイマート桑の実、ハイマート杏などがある。

ハイマートは、かつて茨城県内を中心に運営したスーパーマーケット、 衣類卸売業務が主体の株式会社ママダ(本社・茨城県筑西市)の関連会社であったが、1999年にたいらやと合併し、当社が解散。し、エコスとなった。 本社はママダと同じく筑西市(合併前の下館市)に存在した。

店舗は本社を構えていた旧下館市を中心に茨城県・県西地域に中規模食品スーパーを展開。

後に茨城交通傘下の茨交デーリーストアからの営業譲渡を受け、茨城県北部と福島県の南東部までに拡大した。

合併以後の既存店舗は、エコスとなり営業を続けているが、不採算や新築移転により閉店した店舗もある。


50年前、千早に小さなアパートを建てた時、建築家があげたいくつかの候補名のうち、フランス語のフォンテーヌ(泉)が気に入り、「フォンテーヌ千早」となづけた。

その後フォンテーヌブロー宮殿があることを知り、いささか気がひけている。

 フォンテーヌfontaine、fontaines)は、フランス語で、あるいは噴水を意味する。

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地理[編集]

その他の固有名称[編集]

フォンテーヌブロー宮殿とヴェルサイユ宮殿の歴史

観光名所としてはヴェルサイユ宮殿が有名だが、それより長い800年の歴史をもつフォンテーヌブロー宮殿も観光地として知られてきている。




 フォンテーヌブロー宮殿(フォンテーヌブローきゅうでん、仏:Château de Fontainebleau)はセーヌ=エ=マルヌ県フォンテーヌブローにある、フランスで最も大きな宮殿フォンテーヌブロー城(城館) (Château de Fontainebleau) とも呼ばれる。「フォンテンブロー」とも表記する

宮殿の現在の姿は多くのフランス王による築城の結実であり、基本的な建築構造はフランソワ1世による。

建物は中庭を囲むように広がり、フォンテーヌブローの街がかつての王の狩猟場(フォンテーヌブローの森)跡を取り囲むように発展している。

マニエリスム

宮殿の内装や庭は、フランスにイタリアのマニエリスム様式を導入しフランス風に解釈しなおしたものである。16世紀のフランスにおけるマニエリスム様式の室内装飾は「フォンテーヌブロー様式」として知られている。これは彫刻金工絵画漆喰装飾、木工を組み合わせ、屋外庭園には図案化した花壇パルテアなどを取り入れたものである。フォンテーヌブロー様式では寓意的な絵が漆喰のモールドに使われている。アラベスクグロテスクも取り入れられ、縁取りはまるで皮か紙であるかのように、切り口が巻き上がった形に仕上げられている。

フォンテーヌブローにおける女性美の表現は「マンネリ」である。小さくてこぎれいな顔と長い首、過度に長い胴や四肢、小さくて高い位置にある胸、といった類であり、後期ゴシックの美の表現へほぼ回帰している。

フォンテーヌブローにおける新しさは洗練された細かな彫刻の意匠にあり、これらは鑑定家や芸術家の間に広がっていった。フォンテーヌブロー派による彫刻を通して、この新しいスタイルは他のヨーロッパ中北部、アントウェルペンを筆頭に、ドイツ、ついにはロンドンにまで波及した。

建築と歴史

サロンの内装

12世紀後半にはすでにこの地はルイ7世のものであり、トマス・ベケットが彼のためにチャペルを捧げている。フォンテーヌブローはフィリップ2世ルイ9世のお気に入りの居城であった。 現在の建築を作ったのはフランソワ1世であり、彼の元で建築家の「ブルターニュのジル」が南門「Porte Dorée(黄金の門)」を含む「Cour Ovale(楕円宮廷)」の建物のほとんどを建築した。王は建築家のセバスティアーノ・セルリオレオナルド・ダ・ヴィンチをもフランスに招いている。フランソワ1世のギャラリーのフレスコロッソ・フィオレンティーノによるスタッコ(化粧漆喰)で仕上げられ、1522年から1540年にかけて作られて、フランスで最初の大きな装飾ギャラリーとなった。

大まかに見れば、ルネサンスがフランスに渡ってきたときの舞台はフォンテーヌブローであると言える。アンリ2世の統治下、祝祭の広間(Salle des Fêtes)はイタリアのマニエリスム画家のフランチェスコ・プリマティッチオ(Francesco Primaticcio)とニコロ・デッラバーテ(Niccolò dell'Abate)によって装飾された。 ベンヴェヌート・チェッリーニ(サリエラの作者)の「フォンテーヌブーのニンフ(妖精)」は、フォンテーヌブロー宮殿を飾るために作製されたが、現在はルーヴル美術館に保管されている。

アンリ2世とその王妃カトリーヌ・ド・メディシスの時代に、建築家フェリベール・ド・ロルムジャン・ビュランによって宮殿の大拡張が行われた。フランソワ1世とアンリ2世に次いでアンリ4世も、彼自身の名を冠した「王の中庭」や、その隣の「ディアーヌ・ド・ポワチエのギャラリー」や「雄鹿のギャラリー」を設け、図書室として使用した。こういった建築整備の間には「第二フォンテーヌブロー派」が生まれたが、第一派ほど実験的でも独創的でもなかった。アンリ4世は、樹木の生い茂った庭園に1200mもの長さの運河を設け、現在ではここで釣りができるほどである。また彼は、松やニレの他、果樹なども植えるよう命じた。彼の庭師クロード・モレはアネの街で、図案化したパルテア花壇の修行をしている。

「端麗王」フィリップ4世アンリ3世ルイ13世は皆この宮殿で生まれ、フィリップ4世はこの世を去るときもフォンテーヌブロー宮殿であった。1685年にはルイ14世により「フォンテーヌブローの勅令」が発令され、これにより1598年ナントの勅令が破棄されることとなった。

Cour d'Honneur(中庭)

革命とナポレオン

300年ののちフランス革命のため、調度品が売り払われるなど宮殿は荒廃した。長い革命騒ぎの間にすべての王宮は売却のため空っぽになったが、これは国家の資金集めの他、ブルボン朝が再び力を得られないようにする目的もあった。

10年も経ないうちに皇帝ナポレオン・ボナパルトは、ブルボン朝におけるヴェルサイユ宮殿同様、フォンテーヌブロー宮殿を自分の権威の象徴にしようとしている。しかしナポレオンは1814年、親衛隊に別れを告げて亡命生活に入ることになった。玉石の敷かれた入り口を広げて四輪馬車が通れるようにするなど、ナポレオンは宮殿を大幅に改築した。現在の観光客が目にする宮殿は、この当時の姿が中心である。フォンテーヌブローの宮殿は、彼の甥ナポレオン3世によるフランス第二帝政の舞台ともなった。

客人

ブルボン王家の客人はフォンテーヌブロー宮殿に滞在することが多かった。スウェーデンクリスティーナ女王は、1654年に退位した後、長くこの宮殿に滞在している。ロシアピョートル1世デンマーククリスチャン7世のほか、ナポレオン時代には教皇ピウス7世も滞在している。1804年には戴冠式でナポレオンを皇帝に任命するため、そして1812年から1814年にはナポレオンの囚人としてである。

また現代では、ベトナムの独立運動指導者だったホー・チ・ミンもフォンテーヌブロー宮殿に滞在した経験がある。


ヴェルサイユ宮殿(ヴェルサイユきゅうでん、フランス語Palais de Versailles)は、1682年、フランス王ルイ14世1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)が建てたフランス宮殿(建設当初は離宮)である。ヴェルサイユ城(ヴェルサイユじょう、フランス語:Château de Versailles)ともいい、フランス語ではこちらの表記がよく使用されている。

パリの南西22キロメートルに位置するイヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。

概要

ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。宮殿内には地方の有力貴族の居住空間も用意され、権力の一極集中を実現していた。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。宮殿はルイ14世をはじめとした王族と、貴族たちが国政を議論する場であり、時には社交場でもあった。その結果様々なルール・エチケット・マナーが生まれた。それの中に今につながるものもあるという。

建築

宮殿のファサードは400メートルもあり、左右対称の構成としている。正面玄関は東面のU字型に凹んだ位置にあり、大通りがパリの方向にのびている。西側は庭園に面している。

儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。

噴水庭園

噴水庭園
ヴェルサイユ宮殿(1668年

宮殿の建設よりも労力を費やされている噴水庭園には、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。そして、その噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。

「水なき地に水を引く」
ヴェルサイユには近くに水を引く高地が無い。ルイ14世は10km離れたセーヌ川の川岸にマルリーの機械と呼ばれる巨大な揚水装置を設置し、堤の上に水を上げさせた。そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水無き地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。
「貴族を従わせる」
ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。ルイ14世はこの体験を一生忘れず、彼は貴族をヴェルサイユに強制移住させた。
  • 「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナ(レートー)が村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を、模った噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。
  • 「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模った噴水である。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせると示している。

(ヴェルサイユきゅうでん、フランス語Palais de Versailles)は、1682年、フランス王ルイ14世1638年 - 1715年、在位1643年 - 1715年)が建てたフランス宮殿(建設当初は離宮)である。ヴェルサイユ城(ヴェルサイユじょう、フランス語:Château de Versailles)ともいい、フランス語ではこちらの表記がよく使用されている。

パリの南西22キロメートルに位置するイヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。

概要

ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。宮殿内には地方の有力貴族の居住空間も用意され、権力の一極集中を実現していた。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。宮殿はルイ14世をはじめとした王族と、貴族たちが国政を議論する場であり、時には社交場でもあった。その結果様々なルール・エチケット・マナーが生まれた。それの中に今につながるものもあるという。

建築

宮殿のファサードは400メートルもあり、左右対称の構成としている。正面玄関は東面のU字型に凹んだ位置にあり、大通りがパリの方向にのびている。西側は庭園に面している。

儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。

噴水庭園

噴水庭園
ヴェルサイユ宮殿(1668年

宮殿の建設よりも労力を費やされている噴水庭園には、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。そして、その噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。

「水なき地に水を引く」
ヴェルサイユには近くに水を引く高地が無い。ルイ14世は10km離れたセーヌ川の川岸にマルリーの機械と呼ばれる巨大な揚水装置を設置し、堤の上に水を上げさせた。そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水無き地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させ、自然をも変える力を周囲に示した。
「貴族を従わせる」
ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。ルイ14世はこの体験を一生忘れず、彼は貴族をヴェルサイユに強制移住させた。
  • 「ラトナの噴水」は、ギリシャ神話に登場するラトナ(レートー)が村人に泥を投げつけられながらも、息子の太陽神アポロンを守っている銅像と、その足元にある蛙やトカゲは神の怒りに触れて村人たちが変えられた像を、模った噴水である。ラトナとアポロンはフロンドの乱の時、彼を守ってくれた母と幼いルイ14世自身を示し、蛙やトカゲに変えられた村人は貴族たちをあらわしている。王に反抗をする者は許さないという宣言を示している。
  • 「太陽神アポロンの噴水」は、アポロンは天馬に引かれて海中から姿をあらわし、天に駆け上ろうとしているものを模った噴水である。アポロンはルイ14世自身をあらわし、彼が天空から地上の全てを従わせると示している。







〝天降神社の釣り鐘〟

 〝平和と繁栄〟願った鐘


「お宝のわけ」「どんな鐘」「作者」「大願主、信女の正体」の4つの構成による29日〝天降神社の釣り鐘〟の土師武氏講話。
365文字の鐘銘文を幾度も読み解かれただけの明快な解析と想像力豊かに鐘がひめる歴史的背景の紐解き、文化的価値が極めて高い評価が語られました。
刻まれた「君臣道合 児孫長久」の8文字こそ乱世戦国時代に女傑ともいいうべき大願主の平和と繁栄の願いが鐘の奉納の目的だとし、「戦時中の供出を免れた鐘は、戦後これらの価値が知った誰かがこの場所から持ち出したと思われ、どこかにある可能性は高い。」と締めくくられました。2018.9.30.8:26






2022年9月29日木曜日

フォンテーヌブロー宮殿とその森

 「何世紀にも渡る王の家」とはナポレオン1世がフォンテーヌブロー城を指して言った言葉。

その言葉通り、12世紀から19世紀まで800年に渡って王の居城でした。

フォンテーヌブロー宮殿とその森は、1981年にユネスコ世界遺産に登録されています。






パリー郊外の有名なベルサイユ宮殿よりさらに南東の地に、この宮殿はある。

フォンテーヌブローの地を好んだフランソワ1世は、1528年、かねてより存在していた中世の要塞を増築して、国内最大のルネッサンス様式の宮殿にしました。

その後、宮殿には数世紀にわたって歴代の国王が居住し、それぞれが自分の好みに応じて改築を続けました。

そのため、様々な建築が混合する今日の形となったのです。

フランソワ1世の時代には、南門ポルト・ドレ(黄金の門)、舞踏の間、白馬の庭がフランソワ1世の回廊で繋がれましたが、これらは当時、イタリアから呼ばれた2人の芸術家プリマティッチョとロッソが才能を競い合って装飾したものです。羽目板にフレスコ画やスタッコの彫刻、木彫細工を施すという装飾パターンを取り入れた彼らは「第一フォンテーヌブロー派」と呼ばれました。

息子アンリ2世の時代になると、建築家フェリベール・ド・ロルムによって宮殿の大拡張が行われ、雄鹿の回廊、ディアヌの回廊とドーフィヌ門が繋がれました。

第2段階目の拡張工事はフランス、フランドルの装飾画家にも注目され、城の装飾を申し出た彼らにより、王の私室やディアヌの回廊、三位一体礼拝堂のヴォールト天井の装飾がされました。

この時代に活躍した芸術家は「第二フォンテーヌブロー派」と呼ばれます。

その後ルイ16世の時代に至るまで城の増築と改修は続きましが、フランス革命の勃発によって、城の調度品はすべて売り払われます。

革命後、ナポレオン1世がフォンテーヌブロー宮殿を訪れた時には、城館は全く空の状態になっていました。ナポレオンは家具調度品を新調し、自分の好みの居城にするため宮殿内を改装し、小住居棟Petits Appartementsを整備しました。

この宮殿の歴史は、フランス革命を経て19世紀のナポレオン3世の時代まで続きますが、その中で大きな足跡を残したのが、フランスの生んだ英雄ナポレオンでした。

フランス革命後の混乱期に英雄となり、皇帝にまで登りつめたナポレオン1世もまた、緑に囲まれたこのフォンテーヌブローの宮殿を愛し、好んでよく逗留しました。 
 しかし、そんなナポレオンが退位勧告を受けて帝位を剥奪され、流刑地であるエルバ島へと旅立ったのも、この宮殿からでした。彼は、この宮殿の中庭で腹心の部下たちに別れを告げ、彼らの涙の中で無念の旅立ちをしました。

フォンテーヌブロー宮殿では、「玉座の間」「退位の間」などのナポレオンゆかりのいくつかの部屋も見所の一つになっているほか、ルイ15世の翼館には「ナポレオン1世博物館」が併設されています。
 

ルイ・フィリップの時代、宮殿は全面的な修復工事が行われ、第二帝政時代にフォンテーヌブローは再び活気を取り戻しました。

アルザス=ロレーヌ地方の思い出。(改訂版)



アルザス地方



昨日のテレビで、フランスのアルザス地方の風土紹介があり、昔一度旅した記憶がよみがった。

独・仏の国境地区にあり、今のウクライナのように、領土争いの歴史をもつ地方である。

アルザス=ロレーヌは元々ドイツ語文化圏に属し、特にアルザスで話されるアルザス語南部ドイツ語方言であるアレマン語に属する低地アレマン語ドイツ語版の一方言である。

元来はドイツの前身である神聖ローマ帝国の支配下にあり、住民の大多数はドイツ系アルザス人アレマン系)だが、ドイツ帝国領時代は「ツァーベルン事件」で差別的な支配を受けることもあった。

鉄鉱石石炭を産出するため、しばしばフランスとドイツとの間で係争地となったことで知られる

第二次世界大戦以降はフランス領となったが、中心都市であるストラスブール(シュトラスブルク)には、それ以後、欧州の主要な国際機関が多く設置され、国を超え、欧州統合の象徴的な地域となっている。

旅した時は知らなかったが、広い葡萄園とおいしいワインの産地でもあるようだ。

その後、「謎の日本人サトシ探し」で、世界が熱狂した人さがしゲームの写真の場所であったため、多くの観光客が訪れたようだ。ネット上のゲームで長年みつからなかったのが、AI技術の発展で最近やっとみつかったそうです。

NHK 初回放送日: 2022年1月21日

 『謎の日本人サトシ~世界が熱狂した人探しゲーム~』は、イギリスの代替現実ゲーム『Perplex City』にて提示されながらも14年間誰も解くことができなかった日本人サトシを探す」という問題が2020年末に解決へ至るまでの軌跡を追ったドキュメンタリー

 ことの顛末自体は、このサトシを追い続けたファンサイト「findsatoshi.com」にてまとめられており、現在でも読むことができる。

「謎の日本人サトシ探し」で、世界が熱狂した人さがしゲームの写真の本物「下島聡」さん
14年ぶりに発見された下島聡さんは長野県在住の企業経営者でした。


このテレビをみて、わたしもアルザスの風景を思いだしました。

昨日の放送大学では、フランスの有名な歴史学者マルク・ブロックが、アルザスの生まれで、若いころここの大学で、教えていたことを紹介していた。
彼は第1次、2次世界大戦に出陣し、2次大戦ではフランスがナチスに占領されたあとも、地下組織の反戦運動で活躍していたので、終戦2ヶ月前に処刑されていた。
マック・ブルク

占領地区から自由地区にのがれていた

著書の例

また井上ひさしの上智大学時代のフランス語教授が、アルザス地方出身の牧師であったことが、最近の新聞に紹介されていた。