2022年11月30日水曜日

福岡発の世界基準

 

福岡発の世界基準
今朝のKBCテレビ「アサデス」で、福岡発の世界基準が紹介された。
交通信号機の青、黄、赤は世界共通だが、色弱者には黄、赤の区別がつきにくいそうだ。
九州産業大学の落合教授は、学生からそのことを聞かされて、8年間も電球の発光色の種類と組み合わせを研究し、赤信号のなかに×印をいれることに成功し、国際会議に提案した。
はじめはグッドデザイン賞ということでしたが、その会場で絶賛されて、その後世界基準に採用されることになったそうだ。
専門紙や一部の広報誌では紹介されていたが、テレビでは初めてとりあげられたと思う。
正常者にはこの×印の区別がつかないので、話題性がとぼしいためであろう。
落合教授はわたしの従姉妹の息子なので、少しPRさせてもらう。



2022年11月27日日曜日

東博国宝展

東京国立博物館(東博)は、令和4年(2022)、創立150年を迎え、 明治5年(1872)の発足以来、日本でもっとも長い歴史をもつ博物館として、 かけがえのない文化財の保存と公開という命題を両立させながら、日本の文化を未来へ、 そして世界へ伝えていく役割を果たしてきた。

本展は、この大きな節目を記念して開催するもので、 150年の間に積み重ねられた約12万件という膨大な所蔵品の中から、国宝89件すべてを含む名品と、 明治から令和にいたる150年の歩みを物語る関連資料を通して、東京国立博物館の全貌を紹介し、 展示は2部構成で、計150件を展示する。

このためTVで、何回も関連の番組が登場し、展示品の歴史や評価や修復の苦労話などが放送された。

過去に直接見た記憶のあるものもいくつかあったが、あとは映像でみたものが殆どである。



わが家に国宝レベルのものがあるわけはないが、人間国宝の中島宏の、青磁の壺はひとつある。安川電機退職記念に、安川寛会長からいただいたものである。



安川会長の自伝を読んでいたら、中島さんの窯元に行こうと誘われたのは高松宮であったと書いてある。ゴルフや陸上競技で深い交流があったらしい。これ以来会長も青磁にとりつかれたようだ。 
我が家の宝にしなければと思い、中島さんの作品集の本を購入して調べたり、壷は大事にかざっている。
また岩田屋での作品展示会にでかけたり、天神でのご本人の講演会にでかけて、青磁の歴史の話をきいたりした。

また引野窯にも出かけ、本人は不在であったが奥さんから自宅の展示品などを詳しく説明してもらったことがある


若くして亡くなったのは残念である。

静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)

 静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)は、東京都世田谷区岡本にある専門図書館。日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵する。東京都千代田区丸の内静嘉堂文庫美術館で収蔵美術品を一般公開している。

概要

事業主体は公益財団法人静嘉堂。同財団は三菱財閥が第2代総帥岩崎弥之助・第4代総帥岩崎小弥太父子が所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足した。「静嘉堂」は弥之助の堂号である。

世田谷区の静嘉堂文庫は内外の古典籍を研究者向けに公開する専門図書館である。千代田区の明治生命館で運営している静嘉堂文庫美術館(愛称「静嘉堂@丸の内」)は、収蔵美術品を一般公開する展示ギャラリーである。

沿革

源氏物語澪標図 俵屋宗達
源氏物語関屋図 俵屋宗達筆

静嘉堂文庫は、岩崎弥之助が1892年明治25年)、神田駿河台東京都千代田区)の自邸内に創設した文庫「静嘉堂」を起源としている。静嘉堂の名は『詩経』大雅、既酔編にある「籩豆へんとう静嘉」という句(祖先の霊前への供物が美しく整うという意味)から採られた弥之助の堂号(書斎号)に由来する。弥之助は兄で三菱創設者である岩崎弥太郎に従って実業界に入る以前、漢学を学んだ経験があった。恩師である重野安繹(成斎)の研究を援助する目的から古典籍の収集を始め、和漢の古書や古美術品の収集を熱心に行った。1907年にはの集書家、陸心源の「皕宋楼」旧蔵書4万数千冊を購入し、の版本多数を含む貴重なコレクションが文庫にもたらされた。

1908年の弥之助死後、その子岩崎小弥太は、父の遺志を受け継ぎ、文庫を拡充し、1911年には岩崎家高輪別邸(東京都港区、現・開東閣)に移転。さらに1924年には世田谷区岡本にある弥之助の墓の隣接地に桜井小太郎の設計で静嘉堂文庫を建て、広く研究者への公開を開始した。1940年に小弥太は財団法人静嘉堂を創立し、蔵書や文庫の施設など一切を財団に寄付して、岩崎家の家産から切り離した。

太平洋戦争後、財政難に陥るが、1953年に同じく三菱系の私立図書館である東洋文庫(創設者は岩崎弥太郎の子で、三菱第3代総帥の岩崎久弥)とともに、国立国会図書館の支部図書館となって、資料の公開を継続することができた。これは、文庫の資料と施設を所有する財団法人が国立国会図書館と契約を結んで図書館部門を国会図書館の支部図書館としてその傘下に組み入れ、図書と施設は財団の所有に残したまま、財団の図書館業務の人的部分を国会図書館に委託するというものである。

その後、静嘉堂文庫は三菱グループの援助を受けて1970年に国立国会図書館の傘下から離れ、再び三菱グループ経営の私立図書館となった。1977年からは付属の展示室を設けて文庫の収蔵する美術品の公開を開始し、1992年には創設100周年を記念して建設された新館に恒久的な美術館(以下「旧美術館」)を開館した。

世田谷区の旧美術館は2021年に閉館し、準備期間を経て2022年10月1日に東京都千代田区丸の内明治生命館に移転し「静嘉堂文庫美術館(愛称「静嘉堂@丸の内」)」として再開館した。移転するのは展示ギャラリーのみで、美術品の保管、静嘉堂文庫(書庫)の業務、および庭園の管理は引き続き従来の世田谷区岡本で行われる。この移転は美術館の開館30周年ならびに三菱創業150年(2020年)の記念事業の一環として行われるものである。

2022年11月、NHKの日曜美術館で、この歴史や展示品の公開内容が詳しく紹介された。

2022年11月25日金曜日

類似の辞世の句

 「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花

あるじなしとて 春を忘るな」
菅原道真の辞世の句で有名。

実朝が最期に詠んだ和歌。
『 出でいなば 
主なき宿となりぬとも 
軒端の梅よ 春を忘るな 』
暗殺される当日に詠んだ和歌。
奇しくも実朝の辞世の句となりましたが
実朝は、自分の運命を知っていたのか?

2022年11月19日土曜日

京都の大報恩寺と承久の乱

 



先週のテレビで紹介された京都の大報恩寺。この本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなく創建当時のもので洛中最古の建造物で国宝となっているという。郊外にあるのかと思ったが、北野天神(北野天満宮)の近隣にあり驚いた。

鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で比叡山で修行の後、当寺を建立した。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商の寄進を受けて現存する本堂が完成したそうだ。
観光案内には千本釈迦堂と記載されているほうが多い。

1221年は、承久の乱で、後鳥羽上皇が北条義時の軍に敗れ、六波羅探題が設置された時代であった。
創建者の名前に北条氏の名前がなく、奥州藤原氏の末裔の名前が出てくるには不思議である。



2022年11月16日水曜日

加瀬英明

 加瀬 英明(かせ ひであき、1936年12月22日[1] - 2022年11月15日)は、日本外交評論家自由社社長。助川 明(すけがわ あきら)朴泰赫(パク・テヒョク)の名前も使用

日本会議代表委員、日本教育再生機構代表委員などを務め、右派・保守の論者として知られた。

来歴[編集]

東京府出身。父は外交官加瀬俊一、母・寿満子は元日本興業銀行総裁小野英二郎の娘である。また従姉にはオノ・ヨーコがいる。

慶應義塾大学経済学部卒業後、イェール大学コロンビア大学留学1967年から1970年までブリタニカ国際大百科事典の初代編集長を務める。

青年時代から、外交官である父・俊一の影響を受けて育ったことなどがきっかけで、評論・執筆活動を行うようになる。政財界でも活動し、福田赳夫内閣中曽根康弘内閣の首相特別顧問、福田赳夫・大平正芳鈴木善幸内閣の外相特別顧問などを歴任した。

2022年11月14日月曜日

邪馬台国と不弥国の地理的位置

 【不彌国の地理的位置】


熊本大学 名誉教授・客員教授


『魏志倭人傳』には對馬國から一支國までは南へ「渡海千余里」だったと書かれています。一支國から末盧國までも渡海千余里でした(魏志倭人傳)。
 末盧國として上陸させた港は、1.当時玄界灘の航行は危険であり、一支國から最も近く、最短距離である。2.伊都國から見えていて、伊都國王(一大率)が歩いて行って入国審査・手荷物検査を行いやすい(馬はいなかった)。
という条件から、松浦市ではなく東松浦半島北端(唐津市の北)だったと考えられます。そこ(唐津市の北)には古代から衛所がありました。
 末盧國は女王國に属していません。魏からの使者を女王國の伊都國に上陸させないでわざわざ末盧國に上陸させたのは、女王國の防衛上の理由からです。末盧國は朝鮮半島からの脅威に対して緩衝地帯をなしていました。
 末盧國の上陸地点から「南東」を見ると伊都國の領域が見えています。これまで、伊都國というと古代ギリシャの都市国家のように「点」(都市)と考えられましたが、伊都國は女王國・倭國のなかでも伝統的に強大な力をもつ国であり、広大な「領域」をもっていました。魏使は東南をめざして歩きました。
 對馬國から一支國までを「千余里」、一支國から上陸した末盧國までを「千余里」とすると(魏志倭人傳。衛星写真で見るとずいぶんと大ざっぱには感じられますが)上陸した末盧國から伊都國までは「五百里」といえます。伊都國から奴國までは「百里」、奴國から不彌国までも「百里」でした(魏志倭人傳)。
 不彌国は臨海国であるので、対馬國、一支國、奴國などと同様に副官として「ひなもり」(海防担当官)がいて(魏志倭人傳)、朝鮮半島からの脅威に備えていました。
 不彌国より北の宗像國は紀元前後から国全体が社領であり、不彌国の支配は及びませんでした。
 当時日本の人口は少なく 594,900人でした。そのうち、九州の人口は 105,100人、近畿は108,300人でした(小山修三教授)。
北部九州も、葦原中國(畿内)も、すべての国々(環濠集落郡)を併せても、それぞれ数千戸しかありませんでした。
 なお、当時、福岡平野は海底にあり、奴國も「二万戸」ではなく「千戸以下」の狭い稲作国でした。博多湾は内陸地まで水郷化していました。
佐賀平野も海底にあり、吉野ヶ里も波打ち際にあって、有明海も内陸地まで水郷化していました。牛馬のいない卑彌呼の時代に、筑紫北岸の国々と筑紫南部の国々を現在の御笠川と宝満川が動脈としてつないでいました。
宝満川には近年まで川湊があって帆掛け船で物資を輸送していました。この二つの川を利用することを「渡海」とは言わないで「水行」と言いました。
当時の人びとは途中で何日も逗留しながら移動しました。

【魏志倭人傳の倭國の人口は本当は 10分の1もなく、洛陽からの距離は半分もなかった】
 西暦 237年(魏の景初元年)に帶方郡の公孫淵は魏の第二代皇帝・曹叡から朝貢を求められました。公孫淵はそれに反旗を翻し、自ら燕國王と称しました。翌年には年号を「紹漢」と定めました。西暦 238年(景初二年)に魏が燕國を討伐する動きとなりました。この情報は直ちに卑彌呼に伝わりました。
 倭國は魏の敵国となった公孫氏・帶方郡の友好国(交易国)でした。卑彌呼は公孫氏から鉄器や青銅器を輸入していました。卑彌呼はそのため公孫氏に朝貢していました。卑彌呼としては、倭國が魏の敵国として魏に攻め込まれるとひとたまりもありません。卑彌呼は直ちに帶方郡に特使を送りました。卑彌呼は刻一刻の危機の中で正使の難升米にすべてを託しました。それは、帶方郡で、端的には公孫氏を裏切って、魏の皇帝に朝貢せよというものでした。それは卑彌呼にとって人生一か八かの大勝負でした。この大勝負を魏の将軍・司馬懿(しばゐ 179-251)が評価しました。
 魏では公孫氏を討った司馬懿が力をつけていました。西暦 229年にインドのクシャーナ朝に「親魏」の称号を授与したのは魏の高官・曹真の提言によるものでした。曹真は皇帝の血統を引く者ではなく、司馬懿の政敵でした。倭國に「親魏」の称号を授与したのは、司馬懿の提言によるものでした。宮廷内の勢力抗争でした。
 皇帝は朝貢する国が大国であれば大国であるほど、また、遠ければ遠いほど、その徳は高いと考えられていました。
『魏志倭人傳』の魏使にとって、倭國の朝貢はとりもなおさず公孫氏を討った司馬懿の功績でした。魏使の報告書は、この司馬懿の功績を讃えるために「倭國は大国である。遠国である」と水増しして書かれます。
 それは数量(里数・戸数・水行日数・侍女の数・墳墓の径など)について「露布の習わし」を用いて書かれました。「露布の習わし」とは北へ百里行って敵を百人殺した場合に北へ千里行って敵を千人殺したと報告しても褒められこそすれ咎められることはないといった習わしのことです。
 しかし、「方角」について「露布の習わし」が用いられた例はありません。「南」は正確に南、「東」は正確に東、「東南」は正確に東南でした。たとえば、東松浦半島北端に上陸した魏使はそこから「東南」の方角に広がって見える伊都國を目指して歩きました。
 西暦 250年頃の日本の人口は 594,900人。そのうち、九州は 105,100人、近畿は108,300人でした。そのころ東北ではまだ稲作が行われず、人口も 33,400人でした。(国立民博・小山修三教授『縄文時代(コンピューター考古学による復元)』中公新書1984など)
『魏志倭人傳』の奴國「2万戸」、投馬國「5万戸」、邪馬臺國「7万戸」などは、インドのクシャーナ朝(10万戸)に匹敵するように数字を合わせたというだけです。本当の人口は、前記のようにその 10分の1もありませんでした。
 魏の都・洛陽からインドのクシャーナ朝までの距離は「16,370里」として知られていました(『後漢書』西域傳・大月氏國)。帶方郡までの距離は 5,000里でした。『魏志倭人傳』は洛陽から末路国までの距離を「15,000余里」、洛陽から邪馬臺國までの距離を「17,000余里」と報告しました。これも、インドのクシャーナ朝(16,370里)に匹敵するように数字を合わせたというだけです。衛星写真で見ると、本当は洛陽からクシャーナ朝までの距離の半分もありませんでした。
『魏志倭人傳』の著者・陳壽も、司馬懿に配慮する必要がありました。司馬懿は蜀の諸葛孔明(181-234)と何度も交戦したことがある歴戦の将軍で、征服した相手国の官僚を探索してひとり残らず殺害しました。そのような将軍でした。陳寿は、魏に首をはねられなかった蜀の元官僚であり、魏に禅譲された西晋に官僚として採用されました。生きた心地はしなかったでしょう。『三國志』の中に司馬懿の功績を讃えるために、本来なら入れなくてよい『魏志倭人傳』を入れました。西晋の皇室は司馬懿の司馬氏であったからです。『魏志倭人傳』は、司馬氏に対する陳壽(とその一族)のいざというときの忠孝の「身の証」として書かれました。死後にこれを筆写するよう勅命が下りて公認の史書となりました。
 以上から、『魏志倭人傳』で我われが、恣意が入り込まないように、ひたすら「愚直」に依拠すべきは「方角の正確さ」だけでしかありません。
 奴國(福岡市あたり)の「東」の直ぐ見えるところに不彌国がありました。不彌国の「南」に投馬國がありました。投馬國の「南」に邪馬臺國がありました。不彌国と投馬國と邪馬臺國は北から南に一直線上に並んでいました。

2022年11月13日日曜日

落語 提灯屋

今日、小游三の落語をきいた。しかし家紋の用語を知らないので、さっぱりわからなかった。

ネット検索で、やっと理解できた。

 提灯屋(落語散歩) (dgdg.jp)

徒然草

 「住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。」

長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。」

吉田兼好のいうとおり、長生きしすぎたわが人生である。

第7段|あだし野の露

[要約]
死があるから生が輝く

原文

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからん。
世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。

かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。
住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。
長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

現代語訳

露や煙ははかなく消える命なのに、この世に死者はなくならないので、あだし野霊園の草露や鳥部山火葬場の煙はいつまでも消えることはない。
だが、その草露や煙のように人間がこの世に永住して死ぬことがないならば、人生の深い感動は生まれてくるはずもない。
やはり、人の命ははかないほうが断然良い。命あるもので、人間ほど長生きなものはない。

かげろうのように朝生まれて夕べには死に、夏の蟬のように春秋の季節美を知らない短命な生物もいる。
それに比べたら、人間の場合は心安らかに一年間を送れるというだけでもなんとものどかな話ではないか。
もしも命に執着するとたとえ千年の長い年月を過ごしても、それはたった一夜の夢のようにはかなく感じるだろう。
どうせ永遠には住めないこの世に醜い姿になるまで生きていて何になろうか。長生きすると恥をかくことも多くなる。
長くとも四十そこそこで死ぬのが無難というものだ。

その年齢を過ぎると容姿の衰えを恥じる気持ちがなくなり、平気で人前に出て社交的にふるまおうとする。
更に日没の太陽のような老齢の身で子孫を溺愛し、子孫の繁栄を見届けようと長生きを望んで世俗の欲望ばかり強くなり、深い感動の味わいもわからなくなっていくのはなんとも救いがたい気がする。

2022年11月9日水曜日

不戦日記 山田風太郎  


 テレビで山田風太郎の人生を紹介していた。彼の作品は殆ど知らないが、私と同じ世代なので、戦中派としての戦争観には同じものを感じた。

晩年に不戦日記を出版したが、このため千冊以上の戦争記を読んで不満を感じ、自分の若い頃の日記を再編したものらしい。その作家魂には打たれるものがある。当時の青年の多くは、直接の戦地体験はなくても、現在のような平和優先主義ではなく、祖国の尊厳を愛する攘夷思想は豊かであった。

2022年11月8日火曜日

旧制福岡高校の面影と陸軍墓地の思い出

 旧制高校の思い出と終焉 : ふるさとナビ(fujino@古賀) (exblog.jp)


自宅には古いアルバムがあるが、老人ホームの手元にはない。

戦前に、六本松の寮に入った最初の試練は、近くの陸軍墓地に、真夜中にお参りするという

肝試しの行事であった。

高い石段をのぼると、古めかしい大きな石碑が2,3基あったと記憶している。

最近の写真をみると、すっかり開発されて、綺麗な公園のような墓地になっている。

これなら肝試しにならない風景である。



「最高の人生のつくり方」

 10月下旬の映画会は、「最高の人生のつくり方」だった。(2012)

2014年の米国映画で、原名は「And So It Goes」
自己中心的で頑固な変わり者の不動産エージェントのオーレンは、妻を亡くして以来ひとりきりで暮らしてきた。偏屈なオーレンはアパートの住人ともなかなか打ち解けないでいた。
そんな彼のもとに、音信不通だった息子が突然現われ、それまで存在さえ知らされていなかった9歳の孫娘サラを預かってほしいと頼む。 オーレンは途方に暮れながらも、親切な隣人女性リアの助けを借りて孫娘と一緒に暮らしはじめる。
サラの実の母親の所を探しだしてつれていったり、リアの仕事を探してやったり、アパート住人の出産を手伝ったり、などのどたばた劇がつづくが、リアや孫娘サラの存在が、オーレンの頑な心を少しずつ解きほぐしていく。そして息子の裁判の弁護士を雇い、釈放にみちびく。最後は隣人リアと結ばれてのハッピーエンド。

2022年11月7日月曜日

「エマニュエル・トッド」

原田義昭の説 

「知の巨人」、かく言う

      「エマニュエル・トッド」というのが国際社会では「知の巨人」として有名だという。フランス人。1990年のソ連崩壊を10年も前に予測していた。2016年米大統領選でもトランプ当選を予想していた。人口動態学者としてユニークな統計数字を根拠として、大胆な未来予測を振り回す。EUの結束こそ最も大事だという。遠いヨーロッパにいるのでわれわれアジアからの意見とはだいぶ異なるようだ。
      ロシアやプーチンはどうなるか。ロシア国民は基本的にプーチンの政権運営に満足しており、外国が期待するほど政権は柔でない、直ぐに崩壊することはない。
      アメリカは、国家の分断が進み、今度の中間選挙では共和党が勝つ。来年以降の大統領選挙ではトランプ復活もあり得る。大学での技術工学部門の学生割合が、アメリカは10数%なのにロシアは25%に及び、これが米露の強さの差になっている。
      日本の役割は日本人が思う以上に大きい。中国を誇大評価すべきでなく、台湾有事もそんなに心配必要ない。日本はアメリカに過大な期待と結びつきをしない方がいい。本当は日本も核保有した方が純粋に国の安全保障は担保される・・・
     ロシア国民がロシアのウクライナ侵攻に大義も合理性も全くないことを知ることになれば、さすがにプーチンを排除したくなるだろう。直近のG20外相会議では、「戦争を止められるのは貴方しかいない」とプーチンに呼び掛けたという。このウクライナ戦争は、和平の目処も立たないまま無意味に長引き、無辜の国民が多く死ぬだけなのか。

私(原田)の論評  ロシア国民がロシアのウクライナ侵攻に大義も合理性も全くないことを知ることになれば、さすがにプーチンを排除したくなるだろう。直近のG20外相会議では、「戦争を止められるのは貴方しかいない」とプーチンに呼び掛けたという。このウクライナ戦争は、和平の目処も立たないまま無意味に長引き、国土破壊は進み、国民が多く死んでいる。だから私は米・NATO軍はモスクワ、プーチンを直接武力で叩くべしと訴えている。プーチンの核兵器反撃はブラフ(脅し)であって、世界の反核運動で抑止できる。

2022年11月6日日曜日

新宮中央駅前区の番地図


 1丁目から10丁目まで。集会所は7丁目。加野病院は2丁目。ライフガーデンは5丁目。

奈多(三苫)の海岸



 海の中道の根本になる奈多(三苫)の海岸は、砂丘も高く、絶景である。玄界灘の風も強いので、パラグライダーの愛好家には好評の場所である。



近くには志式神社や、綿津見神社もあり、漁港の守り神である。


東区さんぽ会のガイドで、歴史探訪が行われた。

2022年11月5日土曜日

釈迦のいう五蘊(五温)

 釈迦のいう五蘊(五温)とは、想・行・識・色・受である。

脳科学者の浅野孝雄先生は、この五蘊を現在の脳機能分析の内容から次のように説明されている。
想は左前頭葉で意識の統覚形成、行は小脳で行動意欲の形成、識は右前頭葉で知識の記憶保存、色は感覚機能域、受は海馬部で情報の循環サイクルを統制する。
仏教の教えと先端科学の解析がなんとなく整合性があるのは面白い。


2022年11月3日木曜日

令和4年まつり新宮

 「まつり新宮」が3年ぶりに新宮沖田中央公園で開催された。私の老人ホームから近いので、午前と午後にでかけた。

開会式
幕開けに、消防団の梯子登り。



午前は、舞台で小学生、中学生の踊りがメインであった。


午後は、宗茂・誾千代の大河実現を盛り上げる絶好の機会だとし全員が甲冑姿に身を包んだ「道雪会」のテントが、めだった動きをした。

吉住議員も訪問


舞台でカチドキの気勢をあげるメンバー
道雪役がメンバーに挨拶



誾千代登場

移動行進

大友宗麟祭りにも勢ぞろい

六所宮の道雪会
その他の芸能陣:



広大な芝生公園会場で3年ぶりの祭りのにぎわいの中にある新宮らしさを探訪できた。  


その後は、博多どんたくにも出陣。