2024年1月31日水曜日

藤原 宣孝(ふじわら の のぶたか)

 藤原 宣孝(ふじわら の のぶたか)は、平安時代中期の貴族藤原北家高藤流権中納言藤原為輔の子。紫式部の夫官位正五位下右衛門権佐

経歴[編集]

円融朝末に六位蔵人左衛門尉を務め、永観2年(984年円融天皇花山天皇譲位すると、宣孝は院判官代に補せられる。しかし、まもなく今度は花山天皇の蔵人に転じた。

一条朝正暦元年(990年筑前守に任ぜられて筑紫に赴任すると、正暦3年(992年)ごろ大宰少弐も兼ねている。のち、右衛門権佐として京官に復し、長徳4年(998年山城守を兼ねるが、この頃に紫式部結婚している。また、任官時期は不明なるも弁官を務めたらしいが、蔵人・右衛門権佐(検非違使佐)と同時には兼帯せず、三事兼帯とはならなかったという[1]

疫病のために長保3年(1001年)4月25日卒去。『紫式部集』には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている.


2024年1月9日火曜日

郭沫若 (かく-まつじゃく)

 医学生から文学者になる人が多い。魯迅が有名だが、

郭沫若 (かく-まつじゃく)もその一人である。




1892-1978 中国の文学者,歴史学者,政治家。四川省出身。
日本に留学し、六高経由で九州帝大医学部卒業。
この間佐藤をとめと結婚し、箱崎網屋町海岸に4年半暮らしていた。(1919~’23)
医学だけでは中華民族を到底救えないと気づき、創造社という文学グループを起こし、福岡・上海の間を行き来して、中国文壇に強い影響を与えた。
帰国後、国民革命軍にくわわり北伐に参加。昭和2年南昌蜂起に失敗,日本に亡命して妻の実家の岡山で10年間中国古代史の研究に専念。
日中戦争開始直後,日本から脱出して抗日宣伝活動にしたがう。その間,戯曲「屈原」を執筆。
第二次大戦後,政務院副総理,中国科学院院長,中日友好協会名誉会長。
親日派として知られ、1955年には来日して、九大恩師中山平次郎先生らと再会した。
1978年6月12日死去。87歳。

九大医学部図書館前の顕彰碑

志賀島金印公園にある郭沫若の詩碑


2024年1月2日火曜日

 綿津見神社と庄周辺の地形変動

 古賀市 庄 の 綿津見神社



郷土史研究会で、2,3度この神社に案内してもらった。大根川流域の田園地帯の中にある小山の上にある神社で、海難護る神社「難陀龍王宮」です。



辰(龍)年元旦16時10分頃に能登半島沖で発生の大地震で、日本海の沿岸広域にわたって津波の緊急防災喚起が再三、周知されました。
 古賀市でも夕刻、携帯電話や、フェイスブックで、海岸付近の住民に対し避難指示の指令がでて、市役所の建物に、3世帯7名が避難されました

標高18.2mの庄字「龍ケ崎」の地にある綿津見神社は、神社令以前は「難陀龍王宮」といわれた古賀市唯一の海を司る〝龍〟神社です。
海岸線から2,3千mは海域とされた古代の古賀地区で、岬の役目を果たしたのでしょう。




席内村史記には、大正・昭和初期の地震で、綿津見神社周辺の地番が隆起・下降した地区を図示し、地殻変動を繰り返した昔日を赤裸々に記録しています。
わたしも、庄橋横のマンションから、庄北公民館までの上り勾配を古老の足で、きつく感じていますが、昭和9年の沈下前は平だったのかもしれません。

2024年1月1日月曜日

糸島の桜井神社と辰

 桜井神社 : ふるさとナビ(fujino@古賀) (exblog.jp)

桜井神社の神主さんの弟さんで、外山さんという三菱電機の鎌倉製作所の部長さんがおられた。

桜井神社の歴史について、詳しく話をきいて、家内と訪問したことがあった(2009)。

当時の状況を上のブログに記録している。

最近は糸島の開発がすすみ、観光客も増えているようだ。

辰に縁が深いことははじめて知った。