2026年7月21日火曜日

電動機の国産化


日本の工場を揺らした最初の国産モーターは、成功を告げる美しい音ではなく、小屋が崩れそうな爆音を響かせた。
明治末期、日本の鉱山や工場を動かす重電機械は、外国製品に頼り切っていた。
外国人技術者からは「日本人にモーターなど作れない」と見下され、国産技術への期待さえ笑われていた。
日立製作所の創業者となる小平浪平は、屈辱を飲み込んで終わる男ではなかった。外国製の機械が故障するたび、修理する日本人技術者がいても、新しい機械を造る力までは認められない。技術者として抱いた悔しさは、やがて強い反発へ変わっていった。
小平は茨城県の日立鉱山にあった小さな修理工場へ若い技術者たちを集め、国産モーターの開発に挑んだ。立派な研究所も豊富な設備もなく、作業場は掘立小屋に近かった。失敗すれば、日本にはまだ無理だと笑われる。部品を削り、組み直し、試験を重ねる日々の中で、彼らが背負っていたのは一台の機械の成否より重いものだった。
1910年、ついに日本初の五馬力誘導電動機が完成した。
試作機へ電気を通すと、金属がぶつかる激しい音が響き、床も壁も大きく震えた。洗練された外国製品とは比べようもない荒々しい始動だった。それでも回転軸は止まらなかった。小平は騒音の中で動き続けるモーターを見つめ、「これで外国の機械はいらない」と語り、涙を流したという。
後に日立は、日本を代表する総合電機メーカーへ成長し、産業の近代化を支える存在となった。だが出発点にあったのは、完成された技術でも華やかな式典でもない。油と鉄の匂いが満ちた小屋で、若い技術者たちが爆音に耐えながら、震える機械を囲んでいた光景だった。

ヒロポンの運命

 長井長義は、日本初の薬学博士となり、近代薬学の土台を築いた人物である。

ドイツで最先端の化学を学び、帰国後は日本薬学会の初代会頭を長く務めた。
1885年、長井は漢方薬の麻黄からエフェドリンを取り出すことに成功した。気管支を広げ、喘息の苦しみを和らげる成分として、世界の医療に大きな道を開いた。日本の薬学が欧米へ追いつこうとしていた時代に、彼の研究は国産科学の可能性を示す誇りでもあった。
研究室で長井が見つめていたのは、呼吸に苦しむ患者を救う未来だった。エフェドリンの構造を調べ、より有効な薬を探す中で、彼は後にメタンフェタミンと呼ばれる物質の合成にも成功する。当時の目的は医療への応用であり、人を依存へ追い込む薬を作ろうとしたのではなかった。
ところが長井の死後、研究成果は別の方向へ利用されていく。太平洋戦争中、メタンフェタミンは「ヒロポン」の名で大量生産され、眠気や疲労を抑える薬として兵士や工場労働者に使われた。戦争が終わると軍用の在庫が社会へ流れ、強い依存に苦しむ人々が急増した。
病を治すために生まれた化学が、心と身体をむしばむ薬へ変わっていく。近代薬学の父と称えられた長井の功績には、本人が知ることのなかった重い影が重なった。