神話や魏志倭人伝の歴史は筑紫の地から始まる。
天孫降臨、卑弥呼、神武天皇、景行天皇、仲哀天皇・神功皇后と應神天皇などの神話が多い。
加唐島には百済の武寧王との縁もある。
527年継体天皇の時代に磐井の乱がおこり、筑紫に大和支配の拠点ができた。528年に糟屋屯倉、536年に大宰府の前身の那津宮家が設置された。
602年に百済支援のための出兵で聖徳太子の弟来目皇子が糸島まできて亡くなった。
聖徳太子の話もあるが、道後温泉までが現実らしい。
蘇我日向の祖父は蘇我馬子、父は蘇我倉麻呂だが、644年に中大兄皇子が婚約した娘と密通した。しかもその娘の父石川麻呂が皇子を暗殺しようとしていると讒言して自殺に追いやった。
あとでこれが虚言がわかり、中大兄皇子は、日向を筑紫国に筑紫大宰として任命した。世間ではこれを隠し流しと称した。
のちに日向が孝徳天皇の病気平癒を願って筑紫に建てた寺が大宰府の武蔵寺(筑紫般若寺)といわれる。
602年に百済支援のための出兵で聖徳太子の弟来目皇子が糸島まできて亡くなった。
聖徳太子の話もあるが、道後温泉までが現実らしい。
蘇我日向の祖父は蘇我馬子、父は蘇我倉麻呂だが、644年に中大兄皇子が婚約した娘と密通した。しかもその娘の父石川麻呂が皇子を暗殺しようとしていると讒言して自殺に追いやった。
あとでこれが虚言がわかり、中大兄皇子は、日向を筑紫国に筑紫大宰として任命した。世間ではこれを隠し流しと称した。
のちに日向が孝徳天皇の病気平癒を願って筑紫に建てた寺が大宰府の武蔵寺(筑紫般若寺)といわれる。
661年に百済支援のための出兵で斎明天皇が筑紫まで行幸して亡くなった。
663年白村江海戦で敗北した大和は、大宰府を拠点に防衛都市の構築をはじめ、大野城、基肄城、水城などを築き、防人を配備した。
669年に蘇我赤兄は筑紫率に任命されている。有間皇子の変に関係していたとして、左遷されたといわれている。
669年に蘇我赤兄は筑紫率に任命されている。有間皇子の変に関係していたとして、左遷されたといわれている。
しかし中大兄皇子が有間皇子を除くために赤兄に指示して挑発させたという説と、赤兄が単独で有間皇子を陥れようとしたという説があり、真相は不明だ。
この年に藤原鎌足が死亡して政局も変化し、短期間で都にもどり、左大臣に任命されている。
栗隈王は敏達天皇の孫といわれている。672年壬申の乱当時の筑紫太宰であった。
栗隈王はかって大海人皇子のもとについていたので、大友皇子の使者がきて、筑紫の兵を大友皇子の援軍に出さなければ殺すといった。栗隈王は、筑紫の兵は国外への備えを理由に出兵を断り、退く気配がなかったので、使者は引き下がった。
乱のあと675年には兵政長官に任命された。
『日本書紀』天武天皇二年(673)に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、宗像族と大和の縁を記述している。
栗隈王はかって大海人皇子のもとについていたので、大友皇子の使者がきて、筑紫の兵を大友皇子の援軍に出さなければ殺すといった。栗隈王は、筑紫の兵は国外への備えを理由に出兵を断り、退く気配がなかったので、使者は引き下がった。
乱のあと675年には兵政長官に任命された。
『日本書紀』天武天皇二年(673)に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、宗像族と大和の縁を記述している。
7世紀後半に大宰府の都市としての22条12防の構築、周辺の12寺院建設などが進められ、大宰府が筑紫の統治、辺境の防衛、外交の窓口となった。
740年、藤原広嗣は藤原宇合の長子であるが、父たち4兄弟の病死により、橘諸兄が政権を握ったため、大宰少弐に左遷された。これに不満をもち中央の僧玄昉たちを除こうとして大宰府を根拠に挙兵したが、北九州で戦いに敗れて新羅に逃げようとするが、五島列島沖で捕らえられて斬殺された。
740年、藤原広嗣は藤原宇合の長子であるが、父たち4兄弟の病死により、橘諸兄が政権を握ったため、大宰少弐に左遷された。これに不満をもち中央の僧玄昉たちを除こうとして大宰府を根拠に挙兵したが、北九州で戦いに敗れて新羅に逃げようとするが、五島列島沖で捕らえられて斬殺された。
760年頃藤原仲麻呂は新羅征伐を計画した。当時仲麻呂に疎遠にされて大宰大弐を務めていたのが、唐仕込みの軍学者吉備真備である。仲麻呂の命で軍備をすすめるが、地元の負担や、防人の苦労などに配慮して、ゆっくり5年ほどかけて舟や兵士の増強をはかった。そのうち仲麻呂の政権運営がいきずまり、新羅征伐も中止となり、吉備は復権して京都へ帰ることができた。
769年道鏡の皇位事件がおこる。和気清麻呂は宇佐八幡宮におもむき、先の神託を偽りと報告したので、道鏡の野望がはくじかれた。
鴻臚館の名が文書にあらわれるのは、入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述や、838年:承和5年(838年)に第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したという記述で、正式には、842年:承和9年(842年)の太政官符に鴻臚館の名が記載されている。
769年道鏡の皇位事件がおこる。和気清麻呂は宇佐八幡宮におもむき、先の神託を偽りと報告したので、道鏡の野望がはくじかれた。
鴻臚館の名が文書にあらわれるのは、入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述や、838年:承和5年(838年)に第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したという記述で、正式には、842年:承和9年(842年)の太政官符に鴻臚館の名が記載されている。
2)平安時代:
平清盛は大宰府の大弐になり、晩年には平家の本部を九州に置きたいと2回も足をはこんでいる。
安徳天皇を戴いて京都を脱出した平家軍は、最初に九州の大宰府まで移動して都を開こうとしたが、失敗して屋島にもどっている。
当時の遺跡としては、遠賀川河口の芦屋に御座所跡の石碑があり、大宰府に近い那珂川町の安徳台の御座所跡も有名である。
その後源頼朝の意思に反して、義経は壇ノ浦まで軍をすすめて、平氏を全滅させ、安徳天皇を入水に追い込んでいる。
3)鎌倉時代:
筑紫には朝廷直属の大宰府があり、当初は頼朝も大宰府に遠慮して平家側武家の統治だけを弟の範頼に命じたが、問題が多発した。
そこで範頼をよびもどし、かわりに中原久経と藤原国平を派遣して地ならしをし、鎮西奉行職をもうけて、腹心の天野遠景を任命した。
次第に大宰府の権限を取り込んでいくが、天野の武断政治のいきすぎが多く問題となった。
そこで全国に守護を配するときに、武藤資頼と中原親能の二人制として、筑前・豊前・肥前と筑後・豊後・肥後の守護を担当させた。少しあとに島津忠久を南部の大隈・薩摩・日向の守護に命じ、九州の御家人統率体制が出来上がった。
さらに武藤資頼を大宰少弐に任命することに成功し、公武二本立てだった九州支配が、鎌倉幕府側の支配下になった。
武藤の子孫は少弐を世襲し、それが氏名となって戦国時代まで続いている。また中原の氏名は大友にかわり、九州は三人衆少弐・大友・島津が割拠する武家の時代
元寇の国難に際に多くの武家、豪族が集結したが、北条時宗が筑紫まで出陣したという史実はないようだ。
4)室町時代:
足利尊氏は新田とあらそい、一時敗れて筑紫の立花城や多々良浜までのがれ、兵を立て直して京にのぼり、新田や楠木を破って室町幕府をつくる。
5)安土・桃山時代:
豊臣秀吉は島津軍の九州北上を鎮圧するために、博多まで出陣して、博多の街の再建をおこなった。
また朝鮮出兵の際には、多くの大名を従えて唐津の名護屋城に陣取り、総指揮をとった。
徳川家康もこのとき唐津まできているが、徳川幕府を開いてからはきていない。
6)江戸時代:
幕末の混乱期に、岩倉具視・三条実美らの五卿が大宰府にのがれてしばらく滞在した。
7)明治以降:昭和で広田弘毅、平成で麻生太郎が総理となる。
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