2011年11月27日日曜日

天保の改革

水野忠邦による天保の改革は知っていたが、忠邦が唐津生まれだったことは昨夜のテレビで初めて知った。 九州発の筆頭老中はほかにいないだろう。
唐津藩主になったが、唐津藩は長崎警護の役目以上の役職につけないことを知って、石高は少ない浜松藩への変更を願い出て、次第に高い役職につき、最後には老中の筆頭までのぼりつめたという。
財政再建を強力に推進しするため、遠山の金さんを採用したが、節約令がいきすぎて最後は対立して、民衆の反感をかった。
天保の改革そのものは失敗におわり、最後は追放されてしまう悲劇的運命をたどる。
政治の世界は一人の能力だけでは達成できないという、典型的な例であろう。

2011年11月22日火曜日

2.26事件の評論いろいろ

80年前の2.26事件の日。関連のテレビ番組をいろいろみた。



青年将校が決起した大きな理由は農村の悲惨な困窮であった。(当時小学生だったが、号外をはじめて体験した。)結局これを解決したのは、皮肉にも戦後のマッカーサーによる農地解放だった。

岡田首相は即死と報じられたが、巧みに救出された経緯をはじめて知った。

また鈴木貫太郎も登場した。
2.26事件で重傷を負い、終戦内閣の総理をつとめた。思い出の多い多難の軍人であり政治家であった。

「私はバドリオになる」という彼の言葉を思い出した。ムッソリーニが退陣しあとの首相になったバドリオは戦争継続を表明した。

当時の私の歴史の先生が彼の戦歴を紹介し、勇敢な将軍だと講義したが、そのあとイタリアはあっさり降伏した。翌日教授は坊主頭になって登校してきたのを思い出した。

叔父が航空隊長をしていてパレンバン落下傘部隊の指揮官だった。その成功直後鈴木大将を現地視察に飛行機で案内して、100円のチップをもらったと話していた。当時は退役して枢密院議長だったからだろう。その叔父も終戦前に戦死した。



2・26事件を1週間前に海軍は事件の内容を察知していたが、放置していたようだ。
このとき襲撃をうけて重症を負った鈴木貫太郎は、終戦の幕引き内閣の総理大臣を務め、再度襲撃の対象となったが、危うく難をのがれた。
幕引きが順調に進んでいれば原爆投下を受けなかったという説もあるが、本土決戦派の抵抗が強く、また米国はもっと早くから投下を決定していたという説もある。
軍部の暴走がウイルスのように蔓延していた時代に、その防止対策に奔走した人達の歴史を、もっととりあげる必要がある。

壬申の乱の本を3冊借りてきて読んでいたら、その中の一部に、2.26事件の話が出てきて驚いた。
最後の元老西園寺公望が、壬申の乱のような骨肉の争いが皇室内部で起きてはならぬと言っていたという。
貞明皇太后と昭和天皇の不仲、天皇と秩父宮との確執が憂慮されていたので、当時秩父宮を擁立する運動をしていた神政竜神会という団体が、2.26事件の時に同時に検挙されたという。

松本清張氏の絶筆となった『神々の乱心』は、かなりデフォルメされてはいるが、明らかにこの神政龍神会がモデルとなっているらしい。
埋もれた昭和史の一つであろう。

今朝のラジオで、2.26事件の被害者渡辺陸軍大将の娘さん(当時9歳)である 渡辺和子さん(ノートルダム清心学園の理事長)の談話が放送されていた。
当時の軍人の98%は許すが、2%は許せないものがある。
自分の心と平和にくらすこと。怒ることは環境破壊である。
などなど、宗教家らしい言葉が沢山あった。




2011年11月14日月曜日

日本とポルトガル


日本は東の果て、ポルトガルは西の果てに位置するが、歴史的関係は16世紀から始まっている。

当時のポルトガルの世界地図には、日本の本土と四国はJAPAOと書かれていて、九州はBVNGO(豊後)と記載されていた。

昨日はそのポルトガル関連のテレビが多かった。

1)常盤貴子のレポートで、リスボンと三島由紀夫、ナザレーと壇一雄の関係跡を旅して、ポルトのワイン、そしてザビエルの記念館や天正遣欧少年使の記念資料などなどが紹介された。

ナザレー付近には行ったこともあるが、壇一雄の文学碑が現地にできていることをはじめて知った。

2)放送大学では、天正遣欧少年使4人の詳細な歴史資料が説明された。

伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルの4人は、14歳で信長に選ばれて派遣され、リスボン経由で、ローマ入りし、ベニス経由でまたリスボンにもどり、25歳で帰国したときは秀吉の時代になっていた。

4人が秀吉の家臣への誘いを辞退し皆宣教師となるが、その後キリシタン禁止の時代となる。

千々石のみ棄教するが、その後の経過は不明、あと3人は宣教師として苦難の人生をおくる。

伊東は大友宗麟の血縁で、日向国主伊東義祐の孫で司祭に叙階されるが45歳の若さで長崎で病死する。

原は追放先のマカオで61歳で死亡、中浦は国内での布教を行っていたため小倉で捉えられ、65歳で長崎でさか吊りの刑により殉教した。

これらの歴史は国内では全く記録されていなかったが、ポルトガルやキリスト教会側の記録を、明治維新後の岩倉訪欧使節団が知ってやっと日本史に記載されるようになった。

2011年11月11日金曜日

中国の天安門事件とその後の変化(改訂版)

最近BS放送で、西安の華清池の温泉と、重慶の北温泉が紹介された。
華清池の温泉は楊貴妃が愛用したところとして有名であるが、重慶の北温泉はあまり知られていなかった。



私は天安門事件の年の暮れに、北温泉にいったことがあるが、当時はまだ鄙びたところで、設備も簡素なものであった。
BSテレビでは昨年オープンした高級ホテルが紹介されたが、中国富裕層をねらった豪華なホテルに驚いた。この35年間での経済成長がはっきりと現れていた。

温泉だけではなく、重慶の街も高層ビルが立ち並び、夜間は色とりどりの照明が輝いている。
また重慶の世界遺産「大足の石仏」も当時より立派な名所となっている。


当時、重慶大学で講義していたときは、昼間でも電力不足で停電があり、30分は休憩したことを思い出す。わが国の電力事情と入れ替わったようだ。

ただ天安門事件で、子息を失った親たちの苦しみや、若者の自由・民主化を求める
機運は変化していない。


2011年11月6日日曜日

第2次磐井の乱

磐井の乱は、百済と友好な継体王朝と、新羅と友好な磐井の間の戦争であった。そして磐井は敗北したが、新羅は次第に百済に侵攻していった。
当時志賀島を根拠地としていた安曇族は磐井とも友好関係にあったので、戦に敗れたあとは日本海沿いに逃れて、長野の安曇野までたどりついた。
当時すでに仏教が日本にも一部伝わっていたので、そのとき仏像をもってのがれたのが、今も長野の安曇野の寺に残っているいるそうだ。
これとよく似た仏像が、対馬や志賀島の地にも存在しているらしい。
百済との友好関係は、継体天皇以後も斎明天皇や天智天皇の時代まで続き、白村江の戦いで惨敗したあとは、新羅の反撃をおそれて大和王朝は防衛体制の強化に努めていた。
しかし天武天皇時代になると、反撃でなく新羅からの友好の使者が何度も大和王朝を訪れている。これは天武天皇が新羅との友好関係の推進者であったことの証明である。
ということは、天武天皇の勝利となった壬申の乱は、第2次磐井の乱であったと言えるだろう。

2011年11月5日土曜日

鞍手の熱田神社

文化の日、以前から鞍手インターができたら出かけようと思っていた鞍手町の熱田神社にでかけた。
鞍手インタ近くの剣岳の西南面にある熱田神社は、宮司さんの家に伝わる金川文書に、磐井葛子の弟「鞍橋ノ君」が住んでいたという古文書がある神社である。
鞍橋ノ君は日本書紀にも記載されている弓の名手で、磐井の乱のあと、百済救済の戦に参加して功績を挙げた勇士である。







葛子の糟屋の屯倉跡と鞍手の熱田居住地の関連で、この神社は古賀の天降神社との縁も深く、天降神社には鞍手(新北)の丹比氏から寄贈された梵鐘が残っている。
想像していたよりも大きな神社であり、神秘的な雰囲気の神社であった。
近くにには八剣神社もあり、神話時代のいわれのある地域である。
詳しい歴史は次のブログにかいている。
http://blogs.yahoo.co.jp/gfujino1/53031456.html
http://blogs.yahoo.co.jp/yamato2863/35067533.html

2011年11月1日火曜日

宗教とあの世主義

宗教の伝道者は布教が本来の姿である。
仏教では良寛、円空、大拙、賢治、寂聴など、キリスト教では内村鑑三などの姿が理想的である。
江戸時代にキリスト教弾圧のために作られた檀家制度は、僧侶の生活を安定させ、真の宗教性を失わせた。
現在は次第に檀家制度も壊れ始めているが、宗教そのものも薄れてきている。
わが市でも寺院出身の市長が昨年落選したのも、そのながれでであろうか。 良寛さんのような布教者はもう存在しえないのだろうか。
わが家のお寺さんでも、檀家に支えられて布教活動などは全くない。

梅原猛さんの随筆をよんでいたら、「あの世主義」という言葉がでてきた。
わたしの年齢になると、この世の希望は少なくなり、その分あの世での夢を増やすようにしたら良いということらしい。
「70過ぎたらあの世に別荘を」と揮毫するそうだ。
もう80を過ぎたから、私も立派な別荘をもっていなければならないが、まだ設計図が曖昧な状態だと反省している。
しかしお寺さんに相談する気もおこらない。
幼少時を海辺で育ったせいか、海の見える場所が好きだ。
日本の固有海域を明確にするため尖閣諸島に国が護国神社をつくり、沖ノ島のように神官を常駐させておくような時代になれば、その海岸に骨を埋めて眠りたいような気もする。