2012年8月29日水曜日

築山殿の命日(8月29日)

天正9年8月29日:今日は徳川家康が正室築山殿を、武田氏内通の嫌疑により遠江富塚で野中重政に命じて殺害した日。
 築山殿はその実家関口家(のち瀬名と改性)の記録などにも、嫉妬深く狂気じみていると記されており、新婚時代には瀬名の御前、瀬名の御新造とよばれ、岡崎にきて駿河の御前となり、家康との関係が悪化し、築山御殿に隔離されてから、築山殿と蔑称されたらしい。
築山殿
内通の嫌疑とは、「武田勝頼に対し、徳川領をそっくり信康に与えること、自分を武田家中のしかるべき人物の妻とすることを条件に、信康を教育して武田方に付かせると申し入れた」ので、勝頼が承諾して起請文を送ってきた。
これが侍女に感ずかれ、侍女の妹が信康の室・徳姫(信長の娘)の侍女であったことから、事は徳姫の耳に達し、 徳姫が急ぎ父・信長に手紙で報せる。

事態を重大視した信長は酒井忠次を呼び糺しました。手紙には信康の暴虐的振る舞いと築山殿の悪行が認められており、信長は一つ一つ忠次に確認しますが、忠次も築山殿に反感を抱いており、すべてを肯定してしまいます。
信長は直ちに築山殿と信康の処刑を命じました。家康は苦悩の極地に立たされますが、断腸の思いで両者の処断を決意、信康を岡崎から大浜・遠江堀江を経て二俣城(静岡県浜松市)へ移すと、この日築山殿を討つよう野中重政(異説あり)に命じました。重政は三名の士とともに彼女を連れ出して遠江富塚にて殺害、遺骸は浜松の西来寺に葬りました。
一見九州とは無縁の築山殿ですが、今川家の祖先今川了俊は
南北朝時代に、足利幕府の九州探題の長として君臨していたことがありました。

2012年8月27日月曜日

国家権力と幕府政治

武士が政治の世界に介入しはじめたのが鎌倉幕府政治である。
このような2重の権力構造は世界でも少ないといわれている。
源頼朝は平家や義経の残党を抑えるという理由で全国に守護、地頭を派遣し、実際には国税の徴収という国家権力を手にいれた。
養老律令に規定されていない幕府組織、これが室町幕府、江戸幕府と続き、明治憲法で一旦終了したかに思えた。
しかし憲法の欠陥を潜って、日本陸軍が権力をにぎり、「三宅坂幕府」とよばれた。
戦後も今や財務官僚が権力をにぎり、「霞ヶ関幕府」とよばれている。
日本人は幕府政治がお好みのようだ。

2012年8月26日日曜日

由布城

立花道雪の母は由布城城主の娘だったという。
市民歴史講座で中世の話(立花城の攻防など)を24日にして、その午後湯布院温泉に休養に出かけた。
由布城は由布岳の中腹くらいにあったのだろうと思ったが、観光案内図には出ていない。翌日湯布院観光案内所で、城のあった場所を尋ねたが、若い事務員さんは当然知らなかった。
しかし電話連絡などをして、盆地のJR湯布院駅の近くにある宇奈岐日女神社(別名六所宮)の南側にある丘陵にあったことを書いた資料を出してくれた。
秀吉が九州の島津軍を討伐するときには、この城の周辺に10万の兵を結集したので、島津は戦意を失ってしまったことも書かれていた。
ここでも
立花城と同じく島津軍との対決があったことを初めて知った。さっそく宇奈岐日女神社という珍しい名前の神社にお参りして帰った。

2012年8月22日水曜日

村上武吉の命日(8月22日)と九州

今日8月22日は瀬戸内海の村上水軍の頭領・村上武吉が周防屋代島で没した日。享年72歳。
能島周辺の地図
 天文二年(1533)の生まれで、能島村上氏四代当主の義雅が若くして没すと家督相続争いが起こり、武吉は敗れて一時肥後の菊池武俊のもとへ逃れ、肥後で元服、「武吉」の諱は菊池武俊の一字を拝領したものと伝えられている。
村上武吉
その後武吉の後見人である叔父・左近大夫宗勝(隆重)の活躍で、迎えられて能島村上氏五代当主となる。
弘治元年(1555)十月の厳島合戦は、大内義隆を滅ぼした陶晴賢と毛利元就の間で行われた戦いだがが、毛利方に加担した武吉は毛利水軍と行動を共にし、毛利勢が大勝した。こうして武吉は親毛利氏の立場を取ることになる。
その後、武吉は小早川隆景に従って筑前名島城(福岡市東区)へと移り、朝鮮出兵の際にも一緒に活躍する。

しかし瀬戸内の通行税(帆別銭)を徴収し続けていた武吉は秀吉に瀬戸内海を追われて、長門大津郡への移住を命ぜられる。
 武吉が瀬戸内海に戻れたのは秀吉の没後で、安芸竹原の鎮海山城に長男の元吉とともに住むが、関ヶ原の戦いの際に西軍に付いた元吉は、伊予松前(まさき)城(愛媛県松前町)の加藤嘉明を攻めた際、古三津刈屋口の戦いで戦死してしまう。
落胆した武吉は翌年元旦に二男の景親を頼って孫の元武とともに周防屋代島(山口県周防大島町)へと移り、この日同地で没した。
屋代島の地図
九州とも縁の深い人物だった。
村上水軍博物館


2012年8月19日日曜日

蒲田の地名

粕屋郡の蒲田地区に鎌倉から下向してきた伊東(河津)氏の領地があったという。蒲田は鎌倉の鎌ではないかなとと思い地名辞典をひらいてみた。
  • 湿地に溝を掘ると水が抜けて乾燥地が出来る。これを蒲池と呼ぶがそれが転じたものだ。
  • かつてこの辺り一帯は沼地であり、それにちなみ泥深い田地を示す「蒲田」から来ている。
  • 飛び越えた所や沼の中の島などを意味するアイヌ語の「カマタ」から来ている。
など、諸説ある。昔は「鎌田」とも呼ばれていた。『和名抄』にも記載があり、奈良・平安時代から続く古い地名である。

どうやら鎌倉武士とは無関係のようだ。

2012年8月16日木曜日

九州領主の歴史

来週の市民講座で中世の話をするので、地元領主の歴史を調べなおした。その結果いくつか新しい発見があった。

麻生氏と宇都宮氏:
豊前最大の豪族宇都宮氏は有名だが、麻生氏はその一族である。
宇都宮氏は下野国宇都宮より起こった。宇都宮宗綱の子朝綱には信房と家政のふたりの養子があった。
 信房は豊前守に任じられて、鎮西に下向し、宇佐宮造営奉行となり、建久六年には城井郷を本拠として神洛山城を築き政所とした。のちに地名をとって城井氏を名乗った。
 一方家政は高階氏業の子といわれるが、平家没官領である遠賀郡山鹿の地頭職となり、
山鹿氏を称し、のち麻生氏を名乗り、洞海周辺の若松・戸畑・八幡・黒崎・遠賀郡一帯に勢力をもつようになる。そして、惣領家をはじめ、格流麻生氏が筑前の各地に幡居した。
 戦国時代、麻生家信は大内氏に仕えたが、その没後嫡子で遠賀郡岡城主の隆守と庶氏で遠賀郡花尾城主弘家の間に家督争いが起こり、大内政弘は家督を弘家に譲るように命じたが、家信は抵抗して三年間にわたって大内氏と戦った。のち大内方の調停により家督を弘家に譲り、隆守は惣領家に属するようになった。
 その後、同族の遠賀郡八幡の帆柱山城主の麻生氏は、ひそかに大友義鑑に近づき、天文十五年(1546)大内氏への反乱を起こした。大友氏は家臣瓜生氏を派遣して岡城の隆守を攻め、隆守は抗しきれず落城、内浦の海蔵寺で自刃して果てた。
 永禄十一年、隆守の弟鎮里と惣領隆実とが対立して合戦。鎮里は宗像大宮司氏貞の支援を得た隆実に敗れ、城を捨てて薩摩の島津氏を頼った。
 麻生氏は筑前の国人領主として、戦国時代は大内、大友氏の二大勢力にはさまれ、くだっては毛利、大内氏の戦に翻弄されるなど、弱小勢力としての悲哀を味わっていたようだ。永禄年間に筑前国の城主として、花尾城に麻生隆実、山鹿城主に麻生元重の名がみえる。
 大内氏滅亡後に、麻生氏は毛利氏の幕下につき、大友方と対峙している。永禄十二年、大友宗麟は遠交近攻の策をとり、出雲の尼子氏と同盟を結び、その遺臣山中鹿介らに背後より毛利本国を攻めさせた。ここに毛利氏は本国防衛に廻らなければならなくなった。
 毛利軍は少ない兵力を残して筑前から去っていった。しかし、力と頼む毛利軍の撤退で取り残された高橋・秋月・ 原田・宗像、そして麻生隆実らは、その支柱を失って大友氏に降った。

戸次氏(緒方氏):

立花道雪の祖先、戸次氏は大友氏の傘下になるまえは緒方氏であり、範頼や義経に加担していた。

緒方惟栄(おがた これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将で、豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。惟義惟能とも。大神惟基の子孫で、兄弟に惟長、惟隆、惟憲がいる。

宇佐神宮荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家平重盛と主従関係を結んだ。

治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、臼杵氏長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。

この時、平家に叛いた九州武士の松浦党菊池氏阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。

寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国原田種直山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。

同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。

こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。

また惟栄は、源義経源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。

このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる。


曽我氏と河津氏と伊東氏:

西郷荘の河津隆業の祖先は、伊豆半島の伊東氏で、この前の大河ドラマに登場した伊東祐親もその一人であり、曽我氏とも一族であった。

曽我兄弟の父伊東三郎祐泰は、分家の河津姓を名乗り、工藤祐経に殺された。曽我兄弟は、母の再婚相手の曽我庄(小田原市曽我)の曽我太郎祐信(義父)の元で元服し曽我姓を名乗った。

 糟屋町蒲田にある曽我神社」の神殿内には、「曽我十郎祐成 曽我五朗時宗(時致)の塔」(曽我兄弟石塔)二基があり、碑表に「髙宗院殿峯岩良雲天禅定門・鷹嶽院殿士山良富士大居士、建久四年五月廿八日」と刻してある。

  これは、曽我兄弟が富士の裾野で狩猟した源頼朝の将・工藤祐経の寝所を夜陰にまぎれて襲い仇討ち成就後に落命した日とされている。

 宗像郡に在した「河津氏の家記」によると、河津氏は、もと伊豆国の武士で、河津右衛門尉祐重が蒙古襲来で戦功を立て長門豊東郡を領し下向した。

永仁元年(1293)3月、嫡子河津次郎筑後守貞重は、探題北条兼時に属して筑前迫門河内を賜り、移居したとき、同庄内に、往昔から民が三輪石と称し恐敬してきた二面の霊石があることを知り、先祖の曽我神社の一百年回に當るとして、往昔から当地(迫門河内=多々良川流域)にあった上記霊石二面に「曽我兄弟」の法名を刻し御神体として建立したということになる。
 
  また、上記の河津筑後守貞重といえば、「岳城山・高鳥居城や若杉山左谷・右谷僧坊の抗争~須惠宝満宮④(須惠町)」で、「岳城山には、永仁元年(1293) 長門から入国した河津筑後守貞重(九州探題北条兼時臣)が築城したという中世山城・高鳥居城がある」と、その名を書いたことがあった。

 さらに、その子孫の「宗像郡の河津氏」は、元亀元年(1570)正月、蘿ヶ嶽城下の妙湛寺(宗像市陵厳寺)で盟友宗像大宮司氏貞に暗殺された上西郷(福津市)を拠点とした郷士西郷衆(西郷党)の頭領河津掃部助隆家がいる。
 その死後、鞍手に移された河津修理進盛長宗像士若宮郷士一統は、天正9年(1581) 11月13日(宗像追記考)、鷹取山城(直方市)から立花山城(新宮町)に帰軍中の立花軍(大友氏)を襲い小金原で全滅した。


足利氏:
足利尊氏が京都で敗れて九州まで西走してきた理由は、九州の領主たちと多くの婚姻関係があったからだ。 などなど。



2012年8月14日火曜日

立花宗茂の誕生日(8月13日)

戦国期の九州勇将で、筑前立花城主をつとめ、後に筑後柳川藩主となった立花宗茂は、永禄十二年の今日8月13日生まれ。
大友宗麟の臣・吉弘鎮理(しげまさ・後の高橋紹運)の長男として豊後国東郡・筧城(大分県豊後高田市)に生まれた。幼名千熊丸、通称は弥七郎。成人して統虎と名乗り、後に宗茂と改める。(以下宗茂で統一)。官職は左近将監のち飛騨守。
 宗茂の祖父・吉弘鑑理は大友家中で豊州三老の一人として知られる重臣だが、大友氏は天正六年(1578)十一月の日向耳川の戦いで島津氏に大敗して以来、凋落の一途をたどり、父鎮理は二十二歳の時に筑紫の名族高橋氏を嗣ぎ、高橋主膳兵衛鎮種と名乗り、後の入道号である紹運の名で広く知られている。
当時、斜陽の大友家にあって柱石と目されたのは立花道雪(戸次鑑連)と高橋紹運であった。
ところが道雪には男子がなかったため、紹運に一人娘の誾千代の婿養子にぜひ宗茂をと求める。紹運は長男を養子に出すことを悩むが、大友家を思う道雪の真摯な心に打たれて承諾、ここに宗茂は立花道雪と高橋紹運という二人の名将を父に持ち、その薫陶を受けて育ったた。
わが郷土史英雄の誕生経緯である。九州大学・九州産業大学の学長だった神田慶也氏も高田市の生まれだった。 

2012年8月7日火曜日

薩摩塔

最近の研究で九州の西半分に中世時代の特殊な形をした石灯篭が分布していることがわかった。
最初に薩摩半島で見つかったので薩摩塔と名付けられているが、原石は中国産であり、形も中国福建省あたりのと同じなので、唐や宋時代の中国商人が九州に持ち込んだもとと思われる。
博多周辺では、堅粕の馬頭観音、久山の白山(首羅山)などで発見された。




宝満山、背振山にもみられるようだ。
平戸島周辺、薩摩半島の枕崎から川辺に最も多いようだ。
日本の硫黄や木材と、中国の陶磁器の交易が盛んだった頃の在住中国人の信仰の証だったという。
わが家から近い久山には早速出かけてみたい。