麻生氏と宇都宮氏:
豊前最大の豪族宇都宮氏は有名だが、麻生氏はその一族である。
宇都宮氏は下野国宇都宮より起こった。宇都宮宗綱の子朝綱には信房と家政のふたりの養子があった。
信房は豊前守に任じられて、鎮西に下向し、宇佐宮造営奉行となり、建久六年には城井郷を本拠として神洛山城を築き政所とした。のちに地名をとって城井氏を名乗った。
一方家政は高階氏業の子といわれるが、平家没官領である遠賀郡山鹿の地頭職となり、
信房は豊前守に任じられて、鎮西に下向し、宇佐宮造営奉行となり、建久六年には城井郷を本拠として神洛山城を築き政所とした。のちに地名をとって城井氏を名乗った。
一方家政は高階氏業の子といわれるが、平家没官領である遠賀郡山鹿の地頭職となり、
山鹿氏を称し、のち麻生氏を名乗り、洞海周辺の若松・戸畑・八幡・黒崎・遠賀郡一帯に勢力をもつようになる。そして、惣領家をはじめ、格流麻生氏が筑前の各地に幡居した。
戦国時代、麻生家信は大内氏に仕えたが、その没後嫡子で遠賀郡岡城主の隆守と庶氏で遠賀郡花尾城主弘家の間に家督争いが起こり、大内政弘は家督を弘家に譲るように命じたが、家信は抵抗して三年間にわたって大内氏と戦った。のち大内方の調停により家督を弘家に譲り、隆守は惣領家に属するようになった。
その後、同族の遠賀郡八幡の帆柱山城主の麻生氏は、ひそかに大友義鑑に近づき、天文十五年(1546)大内氏への反乱を起こした。大友氏は家臣瓜生氏を派遣して岡城の隆守を攻め、隆守は抗しきれず落城、内浦の海蔵寺で自刃して果てた。
永禄十一年、隆守の弟鎮里と惣領隆実とが対立して合戦。鎮里は宗像大宮司氏貞の支援を得た隆実に敗れ、城を捨てて薩摩の島津氏を頼った。
麻生氏は筑前の国人領主として、戦国時代は大内、大友氏の二大勢力にはさまれ、くだっては毛利、大内氏の戦に翻弄されるなど、弱小勢力としての悲哀を味わっていたようだ。永禄年間に筑前国の城主として、花尾城に麻生隆実、山鹿城主に麻生元重の名がみえる。
大内氏滅亡後に、麻生氏は毛利氏の幕下につき、大友方と対峙している。永禄十二年、大友宗麟は遠交近攻の策をとり、出雲の尼子氏と同盟を結び、その遺臣山中鹿介らに背後より毛利本国を攻めさせた。ここに毛利氏は本国防衛に廻らなければならなくなった。
毛利軍は少ない兵力を残して筑前から去っていった。しかし、力と頼む毛利軍の撤退で取り残された高橋・秋月・ 原田・宗像、そして麻生隆実らは、その支柱を失って大友氏に降った。
戦国時代、麻生家信は大内氏に仕えたが、その没後嫡子で遠賀郡岡城主の隆守と庶氏で遠賀郡花尾城主弘家の間に家督争いが起こり、大内政弘は家督を弘家に譲るように命じたが、家信は抵抗して三年間にわたって大内氏と戦った。のち大内方の調停により家督を弘家に譲り、隆守は惣領家に属するようになった。
その後、同族の遠賀郡八幡の帆柱山城主の麻生氏は、ひそかに大友義鑑に近づき、天文十五年(1546)大内氏への反乱を起こした。大友氏は家臣瓜生氏を派遣して岡城の隆守を攻め、隆守は抗しきれず落城、内浦の海蔵寺で自刃して果てた。
永禄十一年、隆守の弟鎮里と惣領隆実とが対立して合戦。鎮里は宗像大宮司氏貞の支援を得た隆実に敗れ、城を捨てて薩摩の島津氏を頼った。
麻生氏は筑前の国人領主として、戦国時代は大内、大友氏の二大勢力にはさまれ、くだっては毛利、大内氏の戦に翻弄されるなど、弱小勢力としての悲哀を味わっていたようだ。永禄年間に筑前国の城主として、花尾城に麻生隆実、山鹿城主に麻生元重の名がみえる。
大内氏滅亡後に、麻生氏は毛利氏の幕下につき、大友方と対峙している。永禄十二年、大友宗麟は遠交近攻の策をとり、出雲の尼子氏と同盟を結び、その遺臣山中鹿介らに背後より毛利本国を攻めさせた。ここに毛利氏は本国防衛に廻らなければならなくなった。
毛利軍は少ない兵力を残して筑前から去っていった。しかし、力と頼む毛利軍の撤退で取り残された高橋・秋月・ 原田・宗像、そして麻生隆実らは、その支柱を失って大友氏に降った。
戸次氏(緒方氏):
立花道雪の祖先、戸次氏は大友氏の傘下になるまえは緒方氏であり、範頼や義経に加担していた。
緒方惟栄(おがた これよし、生没年不詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将で、豊後国大野郡緒方荘(現在の大分県豊後大野市緒方地区)を領した。通称は三郎。諱は惟義、惟能とも。大神惟基の子孫で、兄弟に惟長、惟隆、惟憲がいる。
宇佐神宮の荘園であった緒方庄(おがたのしょう)の荘官であり、平家の平重盛と主従関係を結んだ。
治承4年(1180年)の源頼朝挙兵後、養和元年(1181年)、臼杵氏・長野氏(ちょうのし)らと共に平家に反旗を翻し、豊後国の目代を追放した。
この時、平家に叛いた九州武士の松浦党や菊池氏・阿蘇氏など広範囲に兵力を動員しているが、惟栄はその中心的勢力であった。
寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後、筑前国の原田種直・山鹿秀遠の軍事力によって勢力を回復すると、惟栄は豊後国の国司であった藤原頼輔・頼経父子から平家追討の院宣と国宣を受け、清原氏・日田氏などの力を借りて平氏を大宰府から追い落とした。
同年、荘園領主である宇佐神宮大宮司家の宇佐氏は平家方についていたためこれと対立、宇佐神宮の焼き討ちなどを行ったため、上野国沼田へ遠流の決定がされるが、平家討伐の功によって赦免され、源範頼の平家追討軍に船を提供し、葦屋浦の戦いで平家軍を打ち破った。
こうした緒方一族の寝返りによって源氏方の九州統治が進んだとされる。
また惟栄は、源義経が源頼朝に背反した際には義経に荷担し、都を落ちた義経と共に船で九州へ渡ろうとするが、嵐のために一行は離散、惟栄は捕らえられて上野国沼田へ流罪となる。
このとき義経をかくまうために築城したのが岡城とされる。その後、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも伝えられる。
曽我氏と河津氏と伊東氏:
西郷荘の河津隆業の祖先は、伊豆半島の伊東氏で、この前の大河ドラマに登場した伊東祐親もその一人であり、曽我氏とも一族であった。
曽我兄弟の父伊東三郎祐泰は、分家の河津姓を名乗り、工藤祐経に殺された。曽我兄弟は、母の再婚相手の曽我庄(小田原市曽我)の曽我太郎祐信(義父)の元で元服し曽我姓を名乗った。
糟屋町蒲田にある「曽我神社」の神殿内には、「曽我十郎祐成 曽我五朗時宗(時致)の塔」(曽我兄弟石塔)二基があり、碑表に「髙宗院殿峯岩良雲天禅定門・鷹嶽院殿士山良富士大居士、建久四年五月廿八日」と刻してある。
これは、曽我兄弟が富士の裾野で狩猟した源頼朝の将・工藤祐経の寝所を夜陰にまぎれて襲い仇討ち成就後に落命した日とされている。
宗像郡に在した「河津氏の家記」によると、河津氏は、もと伊豆国の武士で、河津右衛門尉祐重が蒙古襲来で戦功を立て長門豊東郡を領し下向した。
永仁元年(1293)3月、嫡子河津次郎筑後守貞重は、探題北条兼時に属して筑前迫門河内を賜り、移居したとき、同庄内に、往昔から民が三輪石と称し恐敬してきた二面の霊石があることを知り、先祖の曽我神社の一百年回に當るとして、往昔から当地(迫門河内=多々良川流域)にあった上記霊石二面に「曽我兄弟」の法名を刻し御神体として建立したということになる。
また、上記の河津筑後守貞重といえば、「岳城山・高鳥居城や若杉山左谷・右谷僧坊の抗争~須惠宝満宮④(須惠町)」で、「岳城山には、永仁元年(1293) 長門から入国した河津筑後守貞重(九州探題北条兼時臣)が築城したという中世山城・高鳥居城がある」と、その名を書いたことがあった。
また、上記の河津筑後守貞重といえば、「岳城山・高鳥居城や若杉山左谷・右谷僧坊の抗争~須惠宝満宮④(須惠町)」で、「岳城山には、永仁元年(1293) 長門から入国した河津筑後守貞重(九州探題北条兼時臣)が築城したという中世山城・高鳥居城がある」と、その名を書いたことがあった。
さらに、その子孫の「宗像郡の河津氏」は、元亀元年(1570)正月、蘿ヶ嶽城下の妙湛寺(宗像市陵厳寺)で盟友宗像大宮司氏貞に暗殺された上西郷(福津市)を拠点とした郷士西郷衆(西郷党)の頭領河津掃部助隆家がいる。
その死後、鞍手に移された河津修理進盛長ら宗像士若宮郷士一統は、天正9年(1581) 11月13日(宗像追記考)、鷹取山城(直方市)から立花山城(新宮町)に帰軍中の立花軍(大友氏)を襲い小金原で全滅した。
足利氏:
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