戦時中は軍歌が主流の時代、敗戦後やっとクラシック音楽が聞けるようになった。
敗戦直後の福岡に、諏訪根自子、安川加寿子、井口基成など当時一流の演奏家が九州まできたのは、主に労組主催の行事だった。まだ市内に演奏会場など無いので、企業や大学の講堂が会場だった。
20代で聞いた3人の演奏会の記憶はいまで良く残っている。
その中でタダ一人の生存者だった諏訪根自子さんが92歳で最近亡くなり、一つの時代が歴史入りした。
2012年9月18日火曜日
藤崎八幡宮
徳川の仕掛けた日(9月18日)
今日9月18日は、徳川家が豊臣家の鐘の文言「国家安康」「君臣豊楽」に言いがかりをつけた日という。
これが原因で大阪冬の陣となり、やがて夏の陣で豊臣家は滅亡した。
さらにこの文言をかいた和尚や、その和尚と親しかった茶道の古田織部にも、疑念をもった徳川は、家康暗殺の嫌疑で切腹をいいわたした。
無理な言いがかりだが、この文言が無くても別の言いがかりで戦を仕掛けたであろう。
戦争とは無理な欲望から発生する。
尖閣列島もそのような事にならねばよいが。
これが原因で大阪冬の陣となり、やがて夏の陣で豊臣家は滅亡した。
さらにこの文言をかいた和尚や、その和尚と親しかった茶道の古田織部にも、疑念をもった徳川は、家康暗殺の嫌疑で切腹をいいわたした。
無理な言いがかりだが、この文言が無くても別の言いがかりで戦を仕掛けたであろう。
戦争とは無理な欲望から発生する。
尖閣列島もそのような事にならねばよいが。
2012年9月11日火曜日
戸次道雪の人生
戸次家は源平時代の豊国の緒方家の末裔といわれる。緒方家は源義経側に付いて破れ、勢力を減じたあと、大友家の傘下に入ったという。
幼名八幡丸、通称は孫次郎、長じて戸次鑑連と名乗り丹後守(丹後入道)・紀伊守(紀伊入道)・伯耆守を称した。
のちに筑前立花城督から城主となり、立花氏の名跡を嗣ぎ、また出家して麟白軒道雪と号したことから立花道雪の名で広く知られるが、本人は立花姓をきらい、名乗らなかった。
道雪とは、路傍に降り積もった雪が露となって消え去るまでの間を、潔白な武士の節操に例えて名付けたものと伝えられます。
道雪の勇名は遠くにまで聞こえ、あの武田信玄がぜひ会ってみたい武将だと評したと伝えられる。
男子がいなかった道雪は晩年、盟友の名将・高橋紹運を説得してその嫡子(宗茂)を養子に迎える。その際の道雪の言葉は感動的なものた。
「私はもう七十歳。御家は衰運であろうか、賊徒は戦に敗れても日増しに勢いが強まり、味方は勝っても日々勢いは衰えてゆく。近くは島津・龍造寺、遠くは毛利という大敵を、我死して後に誰が御辺(紹運)と力を合わせて大友家を支えるだろうか。宗茂をして戸次の家を嗣がせ、私が死んだ後にも御辺と心を合わせて国を支えるべきである。私の家のためではなく、国のために是非とも願う次第である」
そして猛将・道雪も病には勝てず、筑後に出陣中の9月11日、北野高良山の陣中にて、大友家一筋に忠誠を尽くした73年の生涯の幕を閉じた。
彼は九州という地政学的に特異な部分と、名門大友家をいう、村社会の家制度における上位と現場のギャップを埋めようとした人物であった。
九州大友家は鎌倉からの流れを組む地頭で、源を組む名門。その20~21代大友宗麟期の大友家を支える道雪は、この時期がんばれば、すぐに城もち(城主)になれるはずだが、ながらく城督というポジションで苦闘の日々を送る。
城主が株券主や自己独立グループ長とするなら、城督は権限は同じでも、自身では所有できない、今で言う業務執行役員のようなもので、業務に責任は負うが、取締役ではない。
その中で、筑前で、道雪は、類まれなるリーダーシップを発揮していく。しかし、社長である大友氏は、ブレブレでたよりなく、また気づきも少なく、病的な部分があり、最後の最後まで、道雪を苦しめる。
その中でながらく大友氏を支えた城督として彼のマネージメントは、今の時代にも通用するものであって、日本社会の闇と、日本の人と人とのありかたを表していると思える。
2012年9月3日月曜日
炭坑の記録
田川の山本作兵衛氏の炭坑記録画が世界記憶遺産となって有名になった。敗戦直後の若い頃何回か坑道に入り、採掘現場をみたことがあるので、記録画をみるとその時の雰囲気と緊張感を思い出す。
先日のテレビで、ゴッホが若い時、宣教師として炭鉱町に赴任していたころ(まだ本格的な画家志望でない頃)、坑夫の絵をかいているのが紹介された。
先日のテレビで、ゴッホが若い時、宣教師として炭鉱町に赴任していたころ(まだ本格的な画家志望でない頃)、坑夫の絵をかいているのが紹介された。
2012年9月1日土曜日
陶晴賢の謀反
今日天文20年9月1日(1551年9月30日)は大内義隆が陶隆房の謀反により、長門大津郡深川大寧寺にて自刃した日。享年45歳。
大内義隆は尼子氏の本拠・月山富田城(島根県安来市)を攻めるが大敗を喫し、その際に尼子氏の追撃により養嗣子晴持をも失い、寂しさを紛らわせるためか次第に文化に傾倒していった。
この頃から大内氏の内部で不協和音がはっきりと表面化し、軍事派の陶晴賢(当時は隆房)と文治派で義隆の寵愛を受けていた相良武任とが対立、このため晴賢は義隆から距離を置かれる。
晴賢は謀反の意を固めると毛利元就の抱き込みを企て、毛利氏も一旦は同調したという。
晴賢は富田若山城(山口県周南市)を出陣、山口を襲うが、事前に晴賢の動きを察知していた義隆は法泉寺へと避難し、夜陰に乗じて脱出し長門へと向い、何とか長門仙崎(同長門市)に到着する。
ここから乗船して沖合へ漕ぎ出たものの風浪が激しくなり失敗、再び戻って大寧寺へ入る。
しかし晴賢に大寧寺を囲まれると、義隆は最後まで従った冷泉隆豊らの近臣たちとともに自刃、四十五歳の生涯に幕を下ろす。
ここから乗船して沖合へ漕ぎ出たものの風浪が激しくなり失敗、再び戻って大寧寺へ入る。
しかし晴賢に大寧寺を囲まれると、義隆は最後まで従った冷泉隆豊らの近臣たちとともに自刃、四十五歳の生涯に幕を下ろす。
しかし陶晴賢もやがて毛利元就の謀反にあって生涯を閉じた。
この混乱の間に、わが立花城は大友勢が大内勢から取り戻し、1551~1587年間(柳川移封まで)大友勢のものとなる。
ただし1569年の立花鑑載の乱で半年間ほど毛利に占領される。