2013年12月31日火曜日

馬の呼名

午年なので、語源辞典を調べてみた。 シュメール語:「アンシェクルラ」  古代インド語:「アンシュワ」 ラテン語&フランス語:「シュヴァル」 トルコ 語:「アトウ」 中央アジア語:「マル,メルー」 古代ドイツ語:「マラー」 中国語:「マーmar,バーbar,メmer」 朝鮮語:「マル」 日本語:「マル,ウマ、バ」; 馬場:「ババ」「ババンバ(神を祀るため掃き清めた場所)」     

鳥の名前

カラス、ウグイス、ホトトギス、カケスなど、皆語尾がスである。 スは古代アッシリア語で鳥の意味だという。 ほんとかな? スのつく鳥はこの4種類しかいないようだ。 スのつかない鳥は鳥でないのかな? こんな本はあまり信用できない。

2013年12月30日月曜日

地球の温暖化

平均気温は上昇しているのに、やはり冬は寒い。 
寒暖の差が激しくなり、天候被害が大きくなっている。 
地球をこわしているのは人類か、太陽か?
COPも21回目だが、まだ世界の足並みは中々そろわない。

2013年12月28日土曜日

よもがえる天平文様

うちの子の仕事が新聞に大きく取り上げられた。






2013年12月26日木曜日

アジアは一つ

岡倉天心のこの言葉はかって軍国主義に利用された。しかし彼の本心は今のEUのような姿だった。彼のつくったオペラではインド、シナ、日本の言葉のセリフや歌が流されたとう。 彼の葬儀でも、各国の衣装の人が参列し、各種の歌や読経が次々にながれたようだ。 いまアメリカはアジアの対立を内心では喜んでいるようだ。

2013年12月25日水曜日

銅山跡

古賀市にも古代に銅山があったというが、今は遺跡らしきものはない。 江戸時代のオランダ貿易では、金、銀が枯渇したあと、銅がメインとなり、青森の安部城銅山から多くの銅が輸出されたという。当時は三大銅山の一つだったという。 大正時代で産出が終わったそうだが、あまり知られていない。足尾銅山のような公害が少なかったためだろうか。

2013年12月23日月曜日

孫の結婚

昨年は女の孫が嫁にいき、今年は男の孫が嫁をもらった。 血縁家族が二つ増えた。来年あたりは曾孫の顔がみれるかな。 そのぶんこちらの体も弱ってきており、あと7年後のオリンピックまでがんばれるかな。 とにかく年賀状だけは、去年と同じ100枚ペースで仕上げたので、明日投函しよう。

三池藩

 江戸時代三池藩が存在していたことはあまり知られていない。  高橋家の高橋紹運は大分の大友家の家臣で、立花道雪の同輩として岩屋城を守っていた。  長男の統虎を立花道雪の養子にだし、次男の統増はまだ幼いころ、島津軍が北上してきて、岩屋城で玉砕した。 
 統虎は秀吉の援軍の力を得て、島津軍を撃退し、柳川の地に領地を得て立花宗茂となる。
その後、関が原の戦で西軍について領地を失うが、数年後に複権してまた柳川藩主となる。  弟の統増は島津戦のときは宝満山にいて玉砕を逃れており、その後宗茂とともに行動していたが、宗茂複権のとき5千石の旗本に取り立てられ、その後一万石に加増されて、三池藩主の始祖となった。  
三池藩は幕末までつづき、一時旗本にもどったが、また一万石の藩主となっている。  
最後の藩主立花種恭は子爵となり、学習院の初代院長を務めている。

2013年12月22日日曜日

聖徳太子の母

聖徳太子は用明天皇の子であり、その前の敏達天皇の皇后が推古天皇という女帝になった。
だから聖徳太子の母は推古天皇と勘違いしている人が多い。
 用明と推古は兄妹で、夫婦ではなかった。 
用明の妃は穴穂部間人皇女と呼ばれており、推古と穴穂部は、用明天皇の父の欽明天皇の別腹の姉妹である。
推古天皇は聖徳太子の伯母さんである

2013年12月20日金曜日

日本の三国時代

日本の古代史は、邪馬台国からはじまる。しかしその場所は九州か奈良か不明のままである。傍国の名前もたくさん挙がっている。 中国史でいえば春秋時代であろう。 その後奈良大和に政権が一極集中し、やがて京都へと移動していった。しかし東北地方はまだ放置状態の手つがずであった。 奥州藤原氏が権勢を誇っていた時代は京都、鎌倉、平泉と三極の政権が並列していた。こらを日本の三国時代とよんでよいだろう。

八重の桜

あまり期待していなかった大河ドラマだった。視聴率も低く、下から4位だったようだ。 しかし山川健次郎が予想以上に大きく取り上げられたのは驚きだった。九州での活躍まではなかったのは残念だが。 脚本家の山本あゆみさんは、2年前に書き始めたときには、健次郎のことなど全く知らなかったという。会津の歴史は敗北の歴史なので、分散した状態で埋もれている。 最初の1年間は脚本の粗筋をを書きながら地元をあちこち調査してまわり、つぎつぎに掘り起こしていったという。そして登場人物も増え、歴史が複雑になったになり、難解になって、視聴率もさがったのだろう。 もともと東北の震災で、会津若松の観光客が10%に減り、東北復興のために始めたテーマだったので、視聴率よりは会津の歴史、そして会津藩の名誉回復が一つ目的となっていた。その目的は達成されたと脚本家は考えているようだ。

2013年12月13日金曜日

一光三尊と一光寺と咸臨丸


善光寺の一光三尊


一般の一光三尊
私の菩提寺は一光寺というが、その語源は一光三尊らしい。三体の仏像の背後を、大きな1枚の舟形光背がおおっているのを、一光三尊という。

善光寺式と一般の一光三尊像の比較 :


中尊の阿弥陀如来、両脇侍観音菩薩勢至菩薩の3体とも立像である。
多くの阿弥陀如来は、左手が「与願印」で法衣は「片方の肩」であるが、善光寺式の阿弥陀如来は左手が「刀印(下げた左手の人差し指と中指を伸ばし、他の指を曲げる)」で法衣は「通肩(両方)」である。 両脇侍は胸前で両手の掌を水平にして重ね「梵篋印(ぼんきょういん)」、独特の宝冠をかぶっている。

一光寺の本堂で確認したら、現在の三尊は上記の一般のものだが、光背は一つでなく、三尊に個別についている。

一光寺は、創設時の名島地区からの移転や、箱崎千軒地区の大火による消失などで、本尊も作り変えられたようで、当初のものや名称とは無関係になったらしい。

一光寺の本堂

一光寺の460年史にも記載されている歴史で有名な事件:

黒田11代藩主の黒田長溥は蘭学に熱心で、蘭学者永井青崖をかかえていた。

若き日の勝海舟は、その永井に蘭学を学んだ。辞書を借りて2冊の写本をつくり、1冊を売って学費とした話は有名だ。

藩主はこの経緯をしっていたので、長崎海軍練習所時代の勝海舟に、博多湾に寄港するように要請した。

1866年に勝の咸臨丸が博多湾に寄港したとき、黒田藩は乗船員を、秀吉も利用したことのある「箱崎御茶屋」で歓待した。
咸臨丸

その時、幹部にはオランダ人やイギリス人もいたので、博多の聖福寺に泊め、下士官は近くの箱崎一光寺に泊めたとい
う。

彼らは一光三尊や阿弥陀如来像をどのようにながめたであろうか?


2013年12月10日火曜日

秀吉の子

秀吉には実子がいなかったというのが通説である。 しかし長浜城主時代の側室南殿から男の子と女の子が生まれていたという。 男の子は秀勝となのらせたが、7歳で病死したので、信長の第4子を養子に迎え、同じく秀勝となのらせた。 しかしこの子も朝鮮兵役で17歳で病死したという。 歴史はあいまいな点が多い。

明治維新

明治維新の主要な人物 幕府政治の廃止と、民主政治の確立というう視点からみる。 
武士の立場から、薩摩と長州の下級武士の活躍がとりあげられてきた。
 西郷、大久保、高杉、木戸など。坂本なども加わっている。
 幕府なきあと、藩主にも引退してもらうことが課題であった。
 公家の立場から、三条、岩倉。王政復古といえども、摂政・関白制度の廃止問題が課題であった。
 幕府の立場から、勝海舟。慶喜、和宮、篤姫の処遇が課題であった。 
民主国家になったかに思えたが、体質的にはまだ封建的色彩が抜けきらずに、太平洋戦争に突き進んでいった。

宇都宮鎮房3





しずふさと思っていたら、しげふさと読むようだ。

築城町では鎮房を主役とした市民劇団ができているそうだ。

イーロン

ロケット、EVカー、太陽光発電、どれもが国家レベルでも手を焼く難事業だが、それをイーロンはひとりでやろうとしている。アップルのスティーブ・ジョブズは、パーソナルコンピュータで人々の生活に革新をもたらした。ジョブズを超えると言われているイーロン・マスクは、人類と地球の歴史を変えようとしている。 イーロン・マスクは21世紀の最高の発明家になれるのか。イーロンは未来の先導者なのか。幸運にも、我々はそれを見届けることができる時代に生きている。

2013年12月5日木曜日

プリンター

不調のプリンター、知人の助けをかりて、復活した。 これで年賀状も何とか出せるようになった。

2013年12月2日月曜日

年賀状の印刷

CG教室での年賀状印刷が今年は不可能? わが家のプリンターも不調? さて今年はどうしよう?