2014年2月28日金曜日

神道と仏教(神仏習合)

天皇家の葬儀は神道でおこなわれる。
飛鳥時代に仏教がつたわり、蘇我氏が飛鳥寺をたてた。
飛鳥寺
その後、天皇家も仏教をとりいれ、斉明天皇が九州で崩御されたときは、御陵とお寺(観世音寺)がつくられた。
この時代から神仏習合がはじまったといえる。
聖武天皇が大仏をつくり、仏教による護国政治をはじめた。
しかし僧侶集団の力が強くなりすぎたので、持統天皇は伊勢神宮の再興で神道の復興をはかったという。
伊勢神宮
平安時代には仏門にはいり院政を行う天皇も存在したが、神仏習合はいろんな形態の変遷をへながら持続された。 
明治維新直後は、王政復古の勢いで廃仏がおこなわれ、天皇家の葬儀も神道となったが、今の天皇は火葬を希望されているようだ。 
神道は現世主義、仏教は来世主義という人もいるが、きれいに割り切るのは難しい。むしろ神仏習合は日本のユニークな創造的宗教という人も多い。

2014年2月21日金曜日

博多湾内の「戸」

歴史番組では、江戸ブームである。
戸は家への出入り口で、沿岸では海から陸への出入り口の港だ。
博多湾では、西戸、小戸、荒戸、古門戸、海門戸などの地名が残っていたが、今は小戸、荒戸くらいが知られている。

港が大型化し埋め立てが進んだので、あとの戸は街中になってしまった。
古門戸は博多区古門戸町から今は行町と上対馬小路あたりとなり、海門戸は箱崎一光寺前に石碑だけたっている。

江戸の地名も次第に歴史上のものとなってきた。

2014年2月19日水曜日

神社と干支

昨日は日吉神社でサルのお面を買う行列がニュースになっていました。多くの神社には狛犬が待ち受けてていますが、そのほかの干支にゆかりのある神社が沢山あります。 子:大豊神社] 丑:北野天満宮、各天満社、牛島神社] 寅:平安神宮] 卯:住吉大社、調神社、東天王社] 辰:深川不動、江島神社] 巳:出雲大社、大神神社、弁財天] 午:大神神社、絵午] 未:玉川大師] 申:日吉大社・日枝神社] 酉:八幡宮、愛宕社] 戌:熊野神社、清涼殿] 亥:愛宕神社・護王神社] 他にも、キツネ(稲荷)、オオカミ、カエル、ムカデ、ハチなどもあり、どれもその神社にとってのゆかりのある動物が、神のお使いとして祀られているようです。 仏閣までふくめるとまだ沢山の動物が登場します。

2014年2月18日火曜日

ノーベル賞と芸術

三島由紀夫はノーベル賞をもらえずに自殺し、川端康成はノーベル賞をもらって自殺したという文芸評論家がいる。
夏目漱石なら最初からあらゆる賞を辞退したであろう。受賞と無縁のわが人生には理解しがたいことばかりである。
一昨日のテレビで三島由紀夫の番組をみて、夫人が日本画家杉山寧の長女瑤子さんであったことをはじめて知った。
三島は瑤子を選んだ理由について「芸術家の娘だから、芸術家に対して何らか幻想を抱いていないこと」を挙げたという。
媒酌人は川端康成夫妻。
三島事件の後の生活は大変だったが、それをしっかり切り抜けられたことが紹介された。
 川口・マーン恵美さんの講演。題は「三島由紀夫とワグナー」
川口さんはもともと音楽家だが、今はドイツから見た日本の現実についての評をまとめた作家活動をされている。
ワグナーという作曲家の名前は知っていても、その人物像などについて日本人は詳細に知らない。そこで、スクリーンを使って説明がなされる。
その話の中で、彼女が今夏、尖閣諸島に向かったということを一言二言語った。漁師に変身したとのことだが、その行動力に驚かされる。
 ワグナーの「トリスタンとイゾルデ」を三島の「憂国」とを比較対照し、激しい死のあこがれ、死へ向かうエネルギーを解説された。作品は読み手それぞれだが、ワグナーとの対比というのは興味深い。
三島が好きだったワグナーの曲は「トリスタンとイゾルデ」とのことで、文学者としての「美」「美しく死ぬこと」という結語はなるほどと思った。

(写真は星陵会館会場に下げられた三島手跡の旗。)

2014年2月17日月曜日

辰野金吾の謎

昨日のテレビで、彼の設計による東京駅と武雄温泉の楼門のある建築に思わぬ関連があることが紹介された。 天井のデザインにある十二支の干支絵のうち、八支が東京駅にあり、四支が武雄にある。武雄の四支は彼の人生の転換時にあたるという謎とき物語である。 まさに建築探偵の仕事で、藤森照信氏や小説家が調べたユニークな解答が示された。 この内容は最近の藤森氏の「読売連載記事」では紹介されなかった。自分の名前に辰があるので、十二支には関心が強かったのだろう。地元の彼の建築でも探してみる必要がある。

2014年2月16日日曜日

大名小の閉校式典

 140年の歴史を持ち、3月末で閉校する福岡市中央区の大名小学校の閉校式典が2月15日、学校近くのホテルであり、500人が集まったそうだ。



歴史の歩みを紹介する講話では、1873年に「大明(だいみょう)小学校」の名で開校したことや、県出身で初めて首相となった広田弘毅らOBの話、福岡大空襲といった歴史などを紹介したという。

中州周辺の焼けあと


この地が旧藩校修猷館の跡地だったことまでは新聞は触れていない。跡地には中学修猷館、師範学校とその付属小学校(私の母校)も作られたが、明治30年代に百地や西公園に移り、大名小だけが残った。
わたしは、ここの講堂で徴兵検査をうけたうけた思い出がある。 付属小で教えを受けた北原源七郎先生はその後大名小の校長になられていた。 
大名と近隣の簀子(すのこ)、舞鶴の計3小と舞鶴中は統廃合され、4月、小中連携校が舞鶴小の敷地に開校するらしい。

2014年2月15日土曜日

藤田と藤山

画家の藤田ツグハル(嗣治)は、戦争画をかいたため、戦後は非難されて、日本を捨てフランスに永住した。 歌手の藤山一郎は、戦時中ジャワの軍隊の慰問団長として滞在し、「もう軍歌しか歌いません」と誓っていたが、戦後はあっさりと歌謡曲の歌手にもどってしまった。 捕虜としてジャワでまだ抑留されていた将校は、当時日本のラジオ放送を聴いて、怒っていたという。創作者と演技者の差であろう。

東福寺と西福寺

先日テレビで紹介された臨済宗の東福寺は京都駅の東南にある名刹。
東区奈多の西福寺はその末寺で、戸田和尚は東福寺で修行し、本山の高齢の和尚をよく補佐していた。しかしもう亡くなり子供さんの時代となった。
東の福が西にきたのは聖一国師の時代ということになっているが詳細は不明。奈良の東大寺と興福寺をあわせたような大寺ということで東福寺という名前がつけられた。
聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,天台・真言・禅の各宗兼学の堂を完備した。火災と再興をくりかえし、京都五山の一つとして現存している。
西福寺という名前は各地に多いが、奈多の西福寺は殆ど知られていない田舎の寺であるが、昭和56年には境内には地元有志による平和記念塔が建立されている。

密航留学

吉田松陰は密航に失敗してとらえられた。そのあと井上、伊藤、山尾、遠藤、野村の長州藩士5人は密航留学して英国にわたり、明治維新の実現に大きく貢献した。 その時とその処の差が成否の鍵であったろう。幕府の末期には130人の密航留学生がいたという。

大隈重信

明治維新の偉人の一人。昨日のテレビで、彼は自筆の書が殆どなく、文章は口実筆記されたものだといっていた。ほんとかな?

箱崎三山

箱崎八幡宮の近くに、米山(弁財天;宇佐殿)、道具山(神社)があるのは知っていた。 その他に真砂山(武内神社:石碑のみ)があり、あわせて箱崎三山という。
 いずれも神功皇后にゆかりのある伝説が残っている。
米山は三韓征伐軍の兵糧米の保管場所、道具山は戦争道具の保管場所、真砂山は船舶重心用の砂の保管場所であった。
その場所に、弁財天がまつられたり、神社が建てられたりして、三山が残っている。
米山

道具山

真砂山(武内通り)

米山弁財天石碑

真砂山記念碑





2014年2月14日金曜日

博多湾内の「島」の歴史

博多湾俯瞰図

博多湾内の島では、残島(能古島)がもっとも大きい。
残島
元寇の役では元軍も上陸した。
志賀島は昔独立した島だったが、いまは海の中道でつながっている。 
志賀島

また沿岸に近い島は殆ど埋め立てで陸続きとなり、街図から消滅している。 
古地図では、冷泉津の中に蓑島がある。いまでは都会の真ん中で「美野島」と呼ばれている。
中央上部に蓑島

荒津(西公園)の沖には鵜来島がある。
鵜来島

名島の沖には妙見島があったが今は地続きとなった。


妙見島

博多の水上飛行場は最初鵜来島側に計画されたが、波の穏やかな妙見島側に変更された。
若い頃は鵜来島ではコノシロをとったり、妙見島では貝をほったりした。
香椎の御島だけはいまでも昔の面影をまずかに残している。

今津の沖に宝島(ほうじま)という小さな無人島もある
近年大きな人工島ができたが、これ以上埋め立てはごめんだ。

博多湾内の「崎」の歴史


福岡の名前は黒田氏がつけた。
築城した場所は福崎とよばれていたのを、黒田氏の故郷の福岡にかえたので福崎の地名は消滅した。 

博多湾沿岸には、そのほかに伊崎、須崎、洲崎、箱崎、松崎、御島崎、西戸崎などの崎がある。
岬は山脈が海につきでた地形だが、崎は砂浜や丘が海に突き出た形の場所のようだ。 
このなかでは箱崎が八幡宮があり箱崎宿もあったので一番有名だ。
ここには天下人秀吉も逗留しており、箱崎宿の本陣(箱崎御茶屋)には、薩摩藩主や勝海舟とオランダのカッテンディーケ将軍らが来場し黒田藩主の接待をうけた歴史がある。



伊崎には旧制高校時代のヨット部倉庫があって、よく合宿をした。
今は埋立てられて、漁港は大分沖合いにつくられている。
西戸崎には海軍の基地があって、カッターや内火艇の訓練をうけた。(戦時中のはなし)。
須崎には黒田藩の牢獄あとに女子専門学校ができ、いまは県立美術館と公園になっている。

船原古墳の馬具について

古賀市の船原古墳の遺構から「国宝級」と評価される装飾馬具が出土したが、何故こんな装飾品が戦争に必要だったのかと疑問をもつ人がいる。
 古代の戦では、神話時代の神功皇后の話が有名だが、その後も女性が参加したり陣頭指揮をしている。
百済支援のため九州に出陣した聖徳太子の弟二人(あ来目皇子、茨田皇子 )は婦人連れであり、斎明女帝は朝倉の地で崩御されている。
お付の女性も多くいたはずで、馬具に装飾品がつくのは不思議でない。
船原古墳が装飾古墳だったことも忘れてはならない。

2014年2月12日水曜日

黒田藩の藩校

先日行われた「福岡検定」の問題に、黒田藩の藩校はいくつあったか? が出題された。 正解は2だったらしい。 
歴史に詳しい人が、修猷館、甘棠館(かんとうかん)、賛生館(医学校)、文武館の4と回答したら、バツとなったという。
維新後の短期間には洋学館(英仏語)もあったそうだ。
修猷館、甘棠館は7代藩主の意志でできたが、あとの3校は11代藩主の時代にできたものだ。

2014年2月11日火曜日

京都迎賓館

はじめてテレビでみたが、平成17年に京都御所の運動場の場所に迎賓館が出来たそうだ。 
建築や庭園には和様の最高技術を取り入れ、展示されるアート品は博物館から取り寄せ、食事などは京都料理の粋をあつめるそうだ。 
迎賓者の身になれないのが残念だ。

北風

寒波の到来で毎日冬篭り。マーティイさんの歓迎会もパスだ。 ヒューという風の音だけで体がちじこまってる。集まりもすくなかったようだ。 あしたの天神いきは頑張ろう。

2014年2月10日月曜日

北九州マラソン

 約1万1000人の市民ランナーらが参加し、北九州市で9日に開催された「北九州マラソン 2014」。約3500人の市民ボランティアが大会運営を支え、約28万人の市民らが沿道からランナーに声援を送った。 走ったことのない私もRKBの3時間番組をはじめてみた。事前にランナー数名の参加までの裏事情を取材したVTRをまじえた番組で、走る楽しみを教えてくれる構成だった。

2014年2月9日日曜日

箱崎の御茶屋跡

唐津街道の博多・福岡の入り口は箱崎宿。
ここには黒田藩主の別館である御茶屋が設けられていた。

唐津街道から少し海辺の風光明媚な場所にあり、藩主は参勤交代のとき、福岡城からここまでは正装できて一泊し、ここで旅装に着替えて旅路をいそいだという。
御茶屋跡の地図
幕末の藩主黒田長溥は、この場所で旅行中の薩摩藩主や西郷隆盛などと面会した。 
安政5年に勝海舟の咸臨丸を博多湾に呼んだときは、ここで海舟やオランダ将校を接待し、慶応2年に英国軍艦が入湾した時にもここで接待した。
当時は外人用にわざわざ客間の鴨居を高く改造したという。 
わたしのうまれた場所に近いが、今は石碑があるだけで当時の面影を伝える風景は何も残っていない。
旧御茶屋跡の碑
咸臨丸できた外人の下仕官が宿泊したという一光寺(わが家の菩提寺)が、近くに存在する。
一光寺本堂
浦辺登氏の記述:
カッテンディーケは、安政5年の10月18日(日付は旧暦)、福岡に来航した。咸臨丸、エド号での訪問だったが、これは福岡藩第11代藩主黒田長溥ながひろ(筑前侯)のかねての望みにより計画されたもの。薩摩に劣らぬ福岡。蘭癖らんぺき大名の長溥とすれば、薩摩の斉彬が進めた技術立国の意志を藩内にアピールする狙いがあったのではないだろうか。
 長溥は一行の訪問を大歓迎した。その象徴として、出迎えに8頭の立派な馬を用意するほど。初めて異人を目にする見物人も大勢押し寄せ、その数は数千にも及んだという。昔も今も、福岡・博多の人々の「新しもの好き」に変わりはないようだ。
 一行の滞在は、10月21日までだが、先述の著書を読み進むと、藩侯の邸にあいさつに出向き、博多の町を散歩している。それはまるで、オランダに帰ったのではないかと錯覚を覚えるほど、との記述がある。下屋敷のある「箱屋津」までは海岸沿いに美しい松並木の道路が延び、(オランダ東部の州)ヘルダーランドの風色を想起したとカッテンディーケは絶賛した。
 この箱屋津の下屋敷で思い浮かんだのが通称「お休み所御亭(オチン)」。参勤交代の諸大名、重臣や幕府要人の宿泊、休憩に利用され、茶室からは箱崎松原、博多湾を一望できたという。長崎出島のオランダ商館長の江戸参府は大名と同じ扱い。カッテンディーケも長溥から箱屋津に招かれ、鶴や鴨肉、刺身という豪勢な食事のもてなしを受けた。
 下屋敷(御茶屋)があったと思われる箱崎(福岡市東区)を訪ねた。近在の方々が「お天神さま」と親しむ網屋天満宮一帯がそれになる。近年、再開発が進み、マンションが立ち並ぶが、ここだけは時間が止まったかのような安堵あんど感、懐かしさを覚える。九州大学構内から移設した「鯨塚」(博多湾で捕獲した鯨を慰霊する碑)もあり、海が近かったことが実感できる。

従兄弟の活躍

 福岡市東区箱崎の履物店を利用している着物愛好家たちが箱崎の活性化に一役買おうと、地元の店や駅などを舞台にアイドルグループAKBの「恋するフォーチュンクッキー」を着物姿で軽快に踊るプロモーションビデオを撮影した。
1月始まった撮影は8日に終了した。3月上旬には、「着物で恋チュンin箱崎」のタイトルで動画投稿サイト「ユーチューブ」で公開する。  
昨年11月、箱崎の戸部田(とべた)はきもの店が創業85周年祭を開いた際、顧客や地元の人が着物姿で参加。
戸部田履物店
箱崎商店街の店主から「和服の人が歩くと、街が華やかになる」と言われたのをヒントに、同店の舩越希代さん(53)と客たちが企画した。  
この日は約40人が、九州大箱崎キャンパス内4カ所とJR箱崎駅、和菓子店の前で踊った。箱崎キャンパスは同市西部への移転が進んでおり、舩越さんは「こういう形で九大の映像を残せてうれしい」と話した。 =2014/02/09付 西日本新聞朝刊= 
この店主は私の義理の従姉妹です。

2014年2月8日土曜日

冬篭り

寒い雨の日がつづきゴルフも中止して1週間も冬篭りをした。 テレビと読書だけでは時間があまり、古いVTRを持ち出してみたり、家具の配置変えをしたり。五木寛之の本にも、人生はこんなちいさいことの繰り返しで良いと書いてある。

2014年2月6日木曜日

シンガポール

昨夜やシンガポール在住の義弟が帰郷しているので会食をした。 
わたしの叔父の部隊が戦時中ラッフルズホテルを占拠して駐留していたことや、先輩の古賀さん(今99歳)が敗戦時にシンガポール収容所で半年過ごされたことなどを話たが、60代の彼には別世界のことだった。

2014年2月3日月曜日

古賀市と黒田家

1)飯尾家 2)斉藤家 3)薦野家 4)米多比家 5)千鳥池と泉林寺 6)清瀧寺

古賀市と医療施設

古賀市には薬王寺があり、医王寺がある。医療にゆかりのある歴史の土地だろうか?昨日の郷土史研究会でこんな質問があった。 医王寺という寺を検索すると全国に13箇所以上もあり、薬王寺も結構多いようだ。 四国には医王山の山麓に薬王寺があるようだ。 
古賀の場合は温泉があり、薬草などが多い場所だったのだろうが、歴史的な医療話は伝説の域をでないものだ。 
白砂青松の古賀に、昭和18年に福岡結核療養所が開設され、結核と一般内科の治療がはじまり、周辺にも別の病院が出来て、古賀は病院町として知られるようになった。
 夏樹静子の小説「暗い玄海灘に」に出てくる八須田病院はこれらをモデルにしたもので、敗戦後の古賀周辺の病院・薬局の事件と風景が描かれている。 現在の福岡東医療センターと福岡女学院介護大学は、その変遷後の姿で、福岡東部の医療施設の中心と言えるだろう。 
東医療センターには、わたしの義弟の医師が長年勤めていたし、家内も心臓病で世話になり、孫娘も薬剤師の実習で世話になった。 最近では周辺に大きな病院が増えて、古賀の施設が目立たなくなったので、次の一手が必要なようだ。

2014年2月2日日曜日

首羅山遺跡とPRイベント

久山町では、首羅山遺跡が国指定になり、そのPRをかねて雅楽の東儀秀樹さんをよんでイベント祭りをおこないました。
遺跡の山腹の林のなかで東儀さんの笙の笛での演奏がはじまると、周辺から鹿の鳴き声がおこり、東儀さんは驚き、そしてよろこんだそうです。
ビデオ撮影の監督尾登さんも感激して話されていました。

最近は絵本も出来たようである。

埋蔵金

古賀市郷土研究者の間で、天降神社の周辺に多額の埋蔵金があるらしいという噂がある。
 昨日聞いた古銭研究者の講演会では、糟屋地区での一括出土銭の事例は、久山町久原と糟屋町仲原の2ケ所で、その下流沿岸に中世の箱崎遺跡群、博多遺跡群が存在していたという。 
中世の遺跡群がない古賀には一括出土銭の可能性は少ないようだ。